第二話 火を見るのは得意です
店の四日目に、シエルは役に立った。
朝四時、店の裏の石窯の前で、トマは生地を抱えたまま立ち尽くしていた。
「……何した?」
「何がです?」
シエルは窯の前にしゃがんで、薪の燃え方を眺めている。
火が暴れていなかった。
炎は薪の端から端へ舐めるように広がって、石壁を同じ厚みで温めている。
この窯は右奥だけ先に熱くなる癖があって、開店から三日、トマは途中で天板を入れ替えたり薪を寄せたりして、焼き色のむらを誤魔化してきた。
その癖が、今朝はどこにもない。
「薪を組み直しました」
「どうやって」
「燃え方を見て」
「それが分からないから訊いてるんだ」
シエルは首を傾げた。
「火を見るのは、得意です」
昨日まで塩と灰の区別もつかなかった人間の台詞ではない。
トマは窯に手の甲をかざしてみて、熱の返り方まで揃っていることに、もう一度驚いた。
「料理はしたことないんだよな」
「ありません」
「なのに火は分かる」
「はい」
会話はそこで止まった。
シエルは何も足さなかったし、トマも訊かなかった。
「じゃあ今日から、お前が窯番だ」
「窯番」
「薪を見て、火を見て、焼け方を見る。俺が生地を入れたら、焦がすな」
「皿より大事ですか」
「かなり」
「卵より?」
「比べるな」
立ち上がったシエルの顔が、さっきまでと違って見えた。
どこが、と訊かれても、トマには答えられない。
「分かりました」
シエルは窯の脇の差し板に触れて、半分ほど引き抜いてみせた。
奥で寝そべっていた炎が、煙突のほうへすっと首を伸ばす。
「この窯は、火の逃げ道がよくできています。閉じて溜めて、余った分だけ上へ抜けるように」
「パン屋より詳しいな」
「火のことだけです」
トマは煙突のほうへ首を向けた。
「火なんて、出口がなけりゃ暴れるだけだろ」
シエルは、差し板に置いた指を止めた。
「……出口を選べる火も、あります」
朝一番のパンは、店を開けてからいちばんきれいに焼き上がった。
底まで同じ色をしていて、皮は薄く硬く、指で叩くと乾いたいい音がする。
一つ割ると、湯気が上がった。
「食ってみろ」
「私が?」
「お前が焼いたんだろ」
「生地はトマさんです」
「火を見たのはお前だ」
シエルは半分を受け取ると、匂いを確かめてから一口かじり、しばらく黙って噛んでいた。
「どうだ」
「パンです」
「知ってる」
「……昨日より、柔らかいです」
「そういうのを感想って言うんだ」
シエルは返事をせず、二口目を大きくかじった。
そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
「おはよー!」
近所の革職人の息子のピノだった。
七つで、毎朝、親に持たされた銅貨を握ってパンを買いに来る。
戸口から首を伸ばしたピノは、すぐにシエルを見つけた。
「あ、新しい人!」
「昨日もいました」
「昨日は名前知らなかった」
ピノはずかずかと中へ入ってきた。
「名前なに?」
シエルの動きが止まった。
トマが訊いたときと同じ間だった。
「……シエルです」
「シエル姉ちゃん!」
「……私ですか?」
「ほかに誰がいるの?」
当たり前のことを訊かれた顔で、ピノは焼きたての山を指さした。
「今日のパン、これ?」
「熱いぞ」
「一個だけ」
「冷めてから」
「半分」
「駄目」
「一口」
「交渉になってない」
トマが追い払おうとしたところで、シエルが端の小さいのを一つ取った。
「これは、どうですか」
「……まあ、それならいいか」
紙に包んで渡すと、ピノは店先でそのままかぶりつき、目を丸くした。
「うまい!」
シエルの肩が、わずかに動いた。
「昨日よりうまい! シエル姉ちゃんのパン!」
「生地は俺だぞ」
「シエル姉ちゃんの!」
「聞けよ」
ピノは聞かずに、残りを大事そうに抱えて外へ駆けていった。
「またあとで来る!」
扉が閉まっても、シエルはしばらくそこを見ていた。
「……私の、パン」
「そうらしいな」
「私が焼いたわけでは」
「窯を見たのはお前だろ」
シエルは黙って窯のほうへ向き直った。
「次も、同じにします」
「頼む」
言い終わる前に、シエルはもう薪を一本手に取っていた。
昼前には、窯番のシエルはすっかり店の戦力になっていた。
火だけなら、トマよりうまい。
薪を足す頃合いも、灰を掻く量も、勘ではなく分かってやっているように見えた。
「あと一本です」
「まだいいだろ」
「今です」
言われるまま一本足すと、窯は十分後にちょうどいい熱になった。
「……腹立つな」
「なぜです?」
「昨日は、皿しか割ってなかったくせに」
「四日目ですから」
真顔だった。
言ったのはこちらなので、返す言葉がない。
シエルは火箸も使わずに、燃えている薪の端を右手で押し戻そうとした。
「おい」
とっさに手首をつかむと、シエルが目を見開いた。
窯の前にいたくせに、その手首はひやりと冷たかった。
「何してる」
「位置がずれましたので」
「手で触るな」
「これくらいなら」
「これくらいじゃない」
窯の中の炎が、シエルの指先から逃げるように、奥の大きな火のほうへ傾いていた。
「熱は、私の中に溜めておけないんです。近くでいちばん大きな火のほうへ、勝手に流れていきます」
「だから、手が冷たいのか」
「たぶん」
つかんだ拍子に、袖が少しめくれた。
手首の内側に、細い線の痕と丸い痕が、古い傷の上にいくつも重なっている。
パン屋がつくる火傷とは、つく場所が違う。
トマはそれを見たが、何も言わずに袖を戻した。
「火箸を使え」
「……はい」
それ以上、トマは訊かなかったし、シエルも何も言わなかった。
夕方、ピノがもう一度やってきた。
「シエル姉ちゃん!」
「何ですか」
今度は、聞き返さなかった。
「今日の、もうない?」
「あります。お金は?」
「……ない」
「では、ありません」
「シエル姉ちゃんのけち!」
「店員なので」
「昨日は新入りだったのに!」
「今日は、店員です」
奥でトマが吹き出すと、シエルが振り返った。
「何です?」
「別に」
「笑いました」
「気のせいだ」
「嘘です」
「接客してろ」
「シエル姉ちゃん、店員っぽい!」
シエルは何も言わなかった。
ただ、その日は閉店まで、一度も自分の名前を聞き返さなかった。
次の日の昼過ぎ、シエルが窯の前に立つのが当たり前になりかけたころ、外で馬が止まり、鎧の擦れる音と人のざわめきが近づいてきた。
勇者様だ、と誰かが言うのが聞こえて、トマの手が生地の上で止まった。
扉が開く。
「久しぶりだな、トマ」
アルド・グレイが立っていた。
肩には凱旋式用の青い飾り紐が掛かっていて、最後に会った頃より、頬が削げている。
「……何しに来た」
「パン屋にパンを買いに来た」
「騎士団の厨房に行け」
「たまには、金を払って食いたいんだよ」
「勝手にしろ」
アルドは苦笑しながら店に入ってきた。
戦争が終わるから、補給係はもういらない。
この男がそう言ったのは、ひと月前のことだ。
「おすすめは」
「今日なら白パン」
「珍しいな。お前、遠征じゃ黒パンばっかり食わせてただろ」
「腹持ちがいいからな」
「懐かしいな」
アルドは笑ったが、トマは笑わなかった。
「シエル、一つ包んでくれ」
「はい」
返事がわずかに遅れたことに、トマは気づかなかった。
シエルは棚から白パンを取り、紙を広げて手早く包んでいく。
指は一度も止まらなかった。
包み紙の角だけが、いつもよりきっちりと鋭く折れていた。
「新人か」
「おととい、転がり込んできた」
「へえ。うまくやれてるのか」
アルドに訊かれて、シエルが顔を上げた。
「皿を一枚割りました」
「正直だな」
「卵も三つ落としました」
「トマ、なんで雇ったんだ」
「俺も知りたい」
「何が得意なんだ?」
「火です」
「パン屋向きだな」
「そうらしいです」
差し出された包みを受け取って、アルドはその場で一口かじった。
「うまいな」
「前と比べて?」
「前も食ってたのか、俺」
「毎朝」
アルドの口が止まった。
「……遠征中の、朝に置いてあったやつか」
「あれだ」
「厨房が焼いてるんだと思ってた」
「俺だよ」
アルドはかじりかけのパンに目を落とした。
何か言いかけて、言葉を探している顔だった。
トマは待たなかった。
「代金」
「……ああ」
卓に硬貨を置いて、アルドは扉へ向かった。
「じゃあな」
「おう」
扉が閉まってしばらくしてから、シエルが口を開いた。
「勇者様と、お知り合いなのですか」
「昔な」
「仲が悪いんですか」
「普通だ」
「今のが、普通ですか」
「俺の中ではな」
「世間は広いですね」
トマは返事をせず、粉袋を棚に戻した。
シエルもそれ以上は言わずに、布巾の角を揃え直した。
夜、シエルは二階の扉に鍵をかけた。
窓は開けずに、懐から通信石を取り出して指先で二度叩くと、石が赤く灯った。
『第七工作部。報告せよ』
「観測地点、確定しました」
『目標を確認したか』
「本日、店に来ました。パンを一つ買って帰りました」
『接触の危険は』
「ありません」
本当だった。
誰も、何も気づいていない。
『作戦に変更はない』
「了解」
『追加の通達だ』
赤い光が、指の隙間から滲んだ。
『観測地点周辺の民間被害は、考慮しない』
シエルは答えなかった。
『聞こえたか』
「……はい」
『作戦を優先せよ』
「了解」
通信が切れて、赤い光も消えた。
窓の外の店先は、ここからは見えない。
それでも、シエル姉ちゃん、と呼ぶ子供の声は、まだ耳に残っていた。
机の上には、トマが「食え」とだけ言って置いていった、売れ残りの白パンが一つある。
手に取ると、すっかり冷えていた。
かじる。
冷めていても、昨日のパンより柔らかかった。
凱旋祭まで、あと四日。




