第一話 住み込みで働かせてください
本来の計画どおりなら、数分後、この店は周りの火薬ごと吹き飛ぶ。
二階の窓辺で、シエルは最後の座標を打ち込んだ。
王都中央広場まで、八百四十二歩。
風は北東、高度の補正は二。
窓の向こうでは、勇者凱旋祭の花火がもう上がり始めていて、赤い光が咲くたびに、少し遅れて腹の底へ音が届く。
紅茶に混ぜた睡眠薬は効いたらしい。
階下からは、もう物音ひとつしなかった。
窓硝子に映った自分の顔から、シエルは目を逸らした。
懐で、通信石が震える。
『観測点、応答せよ』
「こちら花火師。観測準備、完了」
『目標を確認せよ』
広場の壇上には、青い飾り紐を掛けた勇者の姿が見える。
その周りを、王族と騎士団と、祭りに集まった数えきれない人の影が埋めている。
それから、店先の小さな台。
昼までパンを並べていた台だった。
『目標を確認せよ』
「……確認しました」
『第一射まで、三分』
シエルは目を閉じた。
六日前の自分は、この店の塩と砂糖の区別すらついていなかった。
「それ、塩だぞ」
少女の手が止まった。
木匙の上には、白い粉が山になっている。
「砂糖では?」
「塩だ」
「白いですが」
「砂糖も白い」
少女は二つの壺を、真剣な顔で見比べ始めた。
その横顔を見て、トマは嫌な予感がした。
「舐めるなよ」
口元まで運ばれていた匙が、途中で止まる。
「……なぜ分かったんですか」
「分かるだろ」
開店三日目のパン屋、朝四時に、住み込み希望の少女が転がり込んできたのは、ほんの一刻前のことだ。
黒髪で痩せていて、年は十八かそこら、荷物は小さな鞄が一つきり。
服も靴も旅慣れていないのに、本人だけが妙に落ち着いていて、店先で開口一番に言ったのが「住み込みで働かせてください」だった。
人手は欲しかったから、トマはその場で面接をした。
「パンを焼いたことは」
「ありません」
「料理は」
「ありません」
「接客」
「ありません」
「掃除」
「たぶん」
「たぶん?」
「床を濡らして、布で擦る行為なら」
「それを掃除って言うんだ」
それで採用したのだから、責任の半分はこちらにある。
残りの半分は、採用から一刻と経たないうちに塩を生地へ放り込もうとしている、この少女にある。
名前を訊いたとき、彼女は一度、口を閉じた。
「シエルです」
それから、そう答えた。
訊かれたくないことの一つや二つ、誰にでもあるだろうし、トマにもある。
だから、それ以上は訊かなかった。
「こっちが砂糖。蓋の傷が一本」
「塩は」
「二本」
シエルは二つの蓋を指でなぞり、傷の数を確かめた。
「覚えました。二度と間違えません」
三分後、トマは灰の袋へ伸びた彼女の手首をつかんだ。
昼前に皿が一枚割れ、昼過ぎには卵が三つ床に落ちた。
おすすめを訊いてきた客には「栄養効率なら黒パンです」と答え、客は白パンを一つだけ買って帰った。
午後、帳場で硬貨を数えていると、背中から声がした。
「解雇ですか」
振り返ると、シエルが布巾を両手で畳んで立っていた。
角がぴったり揃っていて、そこだけ妙に手際がいい。
「何が」
「私は、役に立っていません」
「そうだな」
布巾を畳む指が止まった。
そこまで素直に頷かれるとは思っていなかったらしい。
「皿を割りました」
「一枚な」
「卵を三つ」
「二つは拾った」
「床から?」
「捨てた」
「では、三つです」
「お客も一人、帰しました」
「買ってったろ」
「白パンを一つだけです」
「売上だ」
「慰めていますか」
「数えてるだけだ」
シエルは布巾の角を、もう一度揃えた。
それから、顔色ひとつ変えずに訊いた。
「役に立たない者を置く意味は?」
硬貨を数える手が止まった。
頑張ります、でもなく、もう一度機会をください、でもない。
意味は、と彼女は訊いた。
どこかで聞き覚えのある理屈だった。
「この店だって、まだ三日目だろ」
「はい」
「四日目には、お前も役に立つかもしれないだろ」
シエルが瞬きをした。
一度、それからもう一度。
「……四日目」
「明日だよ」
「分かっています」
「なら今日は、もう皿を割るな」
「努力します」
「客に栄養効率を説明するのもやめろ」
「なぜです?」
「そこからか」
シエルの口元が動いた。
笑ったのかもしれないし、文句を飲み込んだだけかもしれない。
トマには、どちらとも分からなかった。
最後の客が帰ったあと、トマは裏口に積んだ小麦袋を一つ肩に担いだ。
「持ちます」
「重いぞ」
「できます」
あまりに引かないので一度だけ持たせてみると、二歩目でよろけ、トマは横から袋の底を支えた。
「だから言ったろ」
「まだ落としていません」
「顔、真っ赤だぞ」
「これは、努力です」
結局、重さの半分以上はトマの肩が受け持ち、二人で倉庫まで運んだ。
一袋で兵が二十人、三日もつ。
数えなくていいことを、まだ数えている。
倉庫を出たところで、シエルが店の二階を見上げた。
「住み込みというお話でしたが」
「二階の端だ。狭いぞ」
「窓はありますか」
「一つ」
「中央広場は、見えますか」
トマは眉を上げた。
「祭りでも見たいのか」
シエルの目が細くなった。
瞬きひとつのあいだに、それはいつもの平らな顔に戻っていた。
「……田舎では、大きなお祭りを見たことがありませんので」
「凱旋祭なら、嫌でも見える」
「勇者様の」
「ああ」
「その日も、お店は開けるんですか」
「一番売れる日だろ」
「そうですか」
それだけ言って、シエルは二階へ上がっていった。
妙なやつだ、とトマは思った。
もっとも、妙じゃない人間が、開店三日目のパン屋に住み込みで飛び込んでくるはずもない。
店の灯りが落ちてしばらくしてから、二階の小さな窓が音もなく開いた。
シエルは窓枠に指を置き、時計塔から王城の西塔、中央広場へと、順番に視線を動かしていく。
指先で距離を取る。
射線は通るし、高さも足りている。
ここがいちばんいい。
懐から紙片を取り出し、月明かりに透かした。
第七工作部
観測地点 候補三
目標 勇者アルド・グレイ
候補三、の横に、細い線を一本引く。
階下で、何かが落ちる音がした。
肩が跳ね、息を止めたまま、しばらく待った。
何も起きない。
たぶん鍋の蓋か何かだと思う。
窓を閉めようとして、店の煙突が目に入った。
昼間、帳場で聞いた言葉を、口の中で一度だけ転がしてみる。
「……四日目」
それきり紙片を畳み、窓を閉めた。
凱旋祭まで、あと六日。




