第五話 反逆者は処分されます
『反逆を確認。第七工作部の規定により、処分を執行する』
通信石の声に、感情はなかった。
シエルの左腕で、袖の下の痕が布を透かして赤く灯り、円から伸びた線が、肘から肩へ向かってゆっくりと這い上がっていく。
シエルは右手で左腕を押さえ、窓枠から一歩下がった。
「店から、離れてください」
「なんで」
「私が、火をつけます」
トマは階段の上から動かなかった。
「この印は、私を火種にして、周りの火薬を近いものから順に起こします。二百歩の外まで届けば、そこから先も」
「二百歩の中なら、もう一樽もない」
「……知っています。見ていましたから」
シエルの膝が折れかけた。
「周りに火薬がなければ、術式は私の中で燃え尽きます」
「それだと」
「たぶん、私だけが焼けます」
トマの目が、窓枠の通信石へ動いた。
「その石を割れば」
「止まりません。命令は、もう印に入りました」
『執行まで、六十』
赤い線が、鎖骨の下まで届いた。
シエルは顔を上げて、トマを見た。
言っておかなければいけないことが、まだ一つあった。
「ずっと、利用していました。窓も、屋根も、お店も、トマさんも」
「知ってた」
「なら、どうして」
トマは答えずに、階段を一段上がった。
「爆発はさせる」
シエルが目を見開いた。
「お前の手の熱は、いつも窯のほうへ逃げてた。東の焼け跡でも、炉だけが残ってた。なら、その火も逃がせるはずだ」
トマは、もう一段上がった。
「止められないんだろ。なら、どこで爆発させるかを、お前が決めろ」
『四十』
シエルは自分の左腕を見た。
これまで、この火の向きを決めたことは一度もなかった。
何を焼くかも、誰を焼くかも、いつも数字と一緒に渡されてきた。
火種にされた者は、火の行き先を選べない。
でも、この体の熱は、いつも近くでいちばん大きな火のほうへ流れていった。
それなら、起こされた火にも、出口を選ばせられる。
閉じた場所で熱を受け止めて、上へ抜いてくれる火口があれば。
階下には、熱を閉じ込めて上へ逃がすために積まれた、石の窯がある。
朝から自分で整えた火が、まだ奥で燃え残っている。
「……煙突。いえ、窯へ」
それだけで、トマには分かった。
東の倉庫の焼け跡で、一つだけ形を残していた鍛冶場の炉を思い出す。
「残り時間は」
「石が、数えます」
トマは窓枠の通信石をつかむと、シエルの右腕を肩に回して、階段を駆け下りた。
通りの向こうの水場から、ピノの声が飛んでくる。
「シエル姉ちゃん! 次の花火まだ?」
「今日はもう店じまいだ! 水場の壁から出るな!」
「えー!」
「明日来い! 一個おまけしてやる!」
ピノの父親が何かを察したように息子を抱え上げ、水場の石壁の陰へ身を寄せた。
トマは扉を閉め、閂を落とした。
『二十』
窯の前で、シエルは灰口の前に膝をついた。
熾火が、赤くゆっくりと呼吸している。
「煙道の差し板を、いっぱいまで開けてください。上に逃がさないと、窯が割れます」
「開けたら、熱が全部煙突に行くぞ」
「行かせるんです」
トマは窯の脇の差し板に手をかけ、端まで引いた。油を差しておいた板は、引っかかりもせずに滑った。
直後、煙道の奥で空気が唸って、板が震えながら溝の中を滑り戻ろうとした。
「手を離したら、差し板が戻ります。そうなったら、窯が割れます」
「なら、押さえる」
『十』
シエルは左腕を、窯の口の中へ差し入れた。
熱が頬を打ったが、腕は引かなかった。
「離れてください」
「割れる前に、上へ逃がすんだろ」
トマは窯の正面を避けて、脇の石壁に背中をつけた。
火箸を差し板の溝に噛ませて、両手で押さえこむ。
「お前は火を見てろ。板は、俺が見る」
『五』
赤い線が、腕の中を逆向きに流れ始めた。
肩から肘へ、肘から手首へ、手首から窯の奥へ。
『三』
トマは片手で防火布を引き寄せ、窯の脇の石壁の陰へシエルの肩を引き寄せて、二人まとめてかぶった。
火箸からは、手を離さなかった。
『二』
シエルは目を閉じなかった。
『一』
白い火が、腕から窯の奥へ抜けた。
窯の口から光が噴き出して、煙突が吠えるような音を立てた。
屋根の上で何かが砕け、店の表の窓が二枚、外へ向かって吹き飛んだ。
それから、急に静かになった。
通りの向こうでは、祭りの最後の花火が上がっていた。
何人かがこちらを振り返ったが、歓声と爆音に紛れて、すぐにまた空へ目を戻した。
「……シエル」
返事がなかった。
トマが身体を起こすと、床に横たわったシエルは、目を開けたまま天井を見ていた。
「聞こえてます」
「なら返事しろ」
「確認していました」
シエルは左腕を持ち上げた。
赤い線は、どこにもなかった。
円の痕だけが、黒く焦げて残っている。
古い火傷の上に、新しい火傷が一つ増えたようにしか見えなかった。
「……生きています」
「見れば分かる」
「初めてなので」
「俺もだよ」
窯の奥では、残った火が何事もなかったように燃えていた。
石窯の口から、細いひびが一本だけ奥へ走っていた。
それでも、窯は立っていた。
床に落ちた通信石は、真ん中から二つに割れていた。
閂を外したのは、それから少しあとだった。
鎧の音を響かせて飛び込んできたアルドは、割れた窓と煤だらけの床と、窯の前に座り込んだ二人を順番に見た。
「……砲撃は三発とも空で割れた。城外に伏せていた騎兵が、最初の光で動いた。砲座は押さえた。撃っていたのは三人、後ろに控えてた次の花火師も一緒だ。第四射はない。こっちは何があった」
「窯の掃除」
「ふざけるな」
アルドの目が、シエルの左腕の黒い痕で止まった。
剣の柄へ手が伸びかけて、そこで止まった。
「……魔族の工作印か」
シエルは答えなかった。
「本人から、話は聞けたのか」
「途中まで」
「……そうか」
長い間があった。
「通信石は割れた。向こうには、反逆処分の術式で焼け落ちたと思わせておく。遺体は残らなかった、とな」
「王城には」
「生きていることも含めて、俺から全部上げる。よくはないし、全部許したとも言わない」
アルドは、シエルのほうへ向き直った。
「王国側では、ひとまず保護拘束だ。魔王軍のことは、知っている分だけ全部話してもらう」
「……はい」
「店から出るときは騎士団に届けろ。逃げたら、今度はかばえない」
「王国の許可は」
「もう伝令を飛ばした。正式な裁定までは、俺の監視下だ。たぶん、その前に三時間は怒鳴られる」
アルドは、もう一度シエルに目を戻した。
「少なくとも今夜は、ここから連れていかない」
アルドは割れた窓の外へ目をやった。
夜空では、今度こそ本物の花火が開いている。
「ただ、今日は誰も死ななかった」
それだけ言って、アルドは店を出ていった。
応急の手当てと事情の聴き取りが終わったころには、日付が変わっていた。
目が覚めると、床の上だった。
窓から入る空気が冷たくて、煤の匂いがまだ残っている。
隣で、上着にくるまったシエルが身体を起こした。
トマは壁の時計を見た。
「四時十二分」
「……はい?」
シエルが瞬きをした。
トマは立ち上がって、煤を払った。
「これからは、勝手にしろ」
シエルは目を伏せた。
「……そうします」
「ただ、仕込みは四時からだ」
「もう、十二分過ぎています」
「だから遅刻だ」
しばらく、何の音もしなかった。
「……給料は、出ますか」
「皿一枚と、卵三つと、窓二枚ぶん引く」
「窓は、私だけのせいではないでしょう」
「じゃあ半分」
「最低です」
シエルは立ち上がって、窯の前にしゃがんだ。
火箸で灰を掻いて、薪を一本くべる。
昨日と同じ手つきだった。
割れた窓に新しい硝子が入り、窯のひびを石屋が埋めたのは、それから三週間後のことだ。
その三週間、シエルは店から王城へ通って、尋問を受けていた。
裁定は、協力者としての保護拘束だった。
滞在先はこの店の二階で、朝と晩に騎士団へ報告を入れ、外へ出るには届けが要る。
王都に残っていた工作網は、シエルの供述をもとに、騎士団が一つずつ押さえていったらしい。
爆撃から生き残った店として妙な評判が立って、朝四時の客は前よりも増えた。
列の後ろのほうに、ときどき勇者が並んでいる。
監督責任者の監視だと本人は言い張っていて、毎回白パンを二つ買っていく。
ピノは相変わらず銅貨を握ってきて、おまけをねだっては断られている。
シエルは今でも、たまにパンを焦がす。
窯の火だけは、トマよりうまい。
店じまいの札を返しながら、トマが言った。
「名前、本当のを教えろ」
シエルの手が止まった。
少しのあいだ、何も言わなかった。
「……ありません」
「じゃあ」
「シエルでいいです」
「偽名だろ」
「でも、ここでは私の名前でした」
トマは何も言わずに、粉のついた手を布で拭った。
遠くで、祝い事でもあるらしい。
夕空に、花火が一発だけ上がった。
シエルが顔を上げる。
指は動かなかった。
「あ、綺麗」
トマは返事をせず、明日の生地を捏ねた。




