臆病な子猫、蜘蛛の糸から救出されました
その透明な糸は、黄色い子猫がねぐらへ戻ったあとも、岩の隙間で静かに揺れていた。
その糸の主が何者なのか、まだ誰も知らなかった。
* * *
翌日も、ルゥは朝からやる気いっぱいだった。
翼の怪我はすっかり治り、今では家の中を飛び回るくらい元気だ。もっとも、私が座るとすぐに膝へ乗ってくるあたり、甘えん坊なところは相変わらずだけれど。
「今日も、あの黄色い子猫ちゃんに会えるといいね」
「みゃっ!」
元気な返事。……会いたいのかどうかは、よくわからない。私と一緒に出かけられるのが、嬉しいだけかもしれない。
「今日は驚かせないように、ゆっくり仲良くなろうね」
私は採取道具と配信機材を確認し、ルゥのキャリーを持って家を出た。
* * *
ダンジョンの採取区域に到着して、さっそく配信を開始した。
「こんにちは、小鳥遊ひよりです! 今日も月光草の採取をしながら、薬草の解説をしていきますね」
〈ひよりさん、こんにちは!〉
〈ルゥちゃんも一緒だ!〉
〈今日は黄色い子猫に会えるかな?〉
「皆さんも気になっているんですね。私も、また会えたらいいなと思っています」
キャリーを地面に置いて、扉を開ける。
「ルゥ、どうぞ。今日は私のそばにいてね」
「みゃっ!」
ルゥは軽やかに飛び出し、私の足元へすり寄った。それから周囲を見回し、岩場のほうへ視線を向ける。
「もしかして、あの子を探しているの?」
「みゃう」
「ふふっ。会えるといいね」
私はルゥの頭を撫でてから、月光草の採取を始めた。
「月光草は、根を残して葉を切り取れば、また新しい葉が育ってきます。採りすぎず、必要な分だけにしましょうね」
〈根を残すんだよね〉
〈こういう実際の採取風景が見られるの、ありがたい〉
〈ルゥちゃん、草をくんくんしてるw〉
見ると、ルゥが月光草の匂いを嗅いでいた。
「ルゥも薬草に興味があるのかな?」
「みゃう」
ルゥは匂いを嗅いだあと、当然のように私の足元へ戻ってきて、体をすり寄せた。
「はいはい。あとで撫でてあげるからね」
そんなやり取りをしながら採取を続けていると、少し離れた岩場から物音が聞こえた。
かさっ。
私は顔を上げた。
「あっ!」
岩の向こうから、黄色い耳が覗いている。
いた。
チーターのような黄色い体に黒い斑点、大きな耳と長い尻尾。昨日も会った、あの子猫モンスターだ。
「おはよう。今日も来てくれたんだね」
私が穏やかに声をかけると、子猫は少し身構えたものの、すぐには逃げなかった。岩陰から顔を出し、私とルゥを交互に見つめている。
「大丈夫だよ。追いかけたりしないからね」
私は採取の手を止めず、できるだけ自然に振る舞った。
すると、子猫はほんの少しだけ岩陰から出てきた。昨日よりも、わずかに距離が縮まっている。
「ふふっ。少しずつだね」
私は嬉しくなった。
そのときだった。
子猫の背後にある岩の隙間から、黒い影が動いた。
八本の脚。大きな腹部。そして、口元から伸びる透明な糸。
「……え?」
蜘蛛型モンスターだった。
しかも、ただの小型種ではない。人間の胴体ほどもある巨体を持ち、周囲の岩や地面に、粘着性の強い糸を張り巡らせている。
よく見ると、足元の岩の隙間にも、細い糸が月光草の光を受けて、うっすらと光っていた。
蜘蛛は、子猫へ狙いを定めた。
「危ない!」
私が声を上げるより早く、子猫は地面を蹴った。
シュバッ!
一瞬で横へ飛び退き、飛んできた糸をかわす。
「わっ、やっぱり速い!」
思わず感心してしまった。
あの脚の速さなら、普通に追いかけてくる相手からは逃げ切れそうだ。
けれど、蜘蛛は自分の脚で獲物を追いかけるつもりはないらしい。次々と糸を吐き出し、逃げ道を塞ぐように網を張り巡らせていく。
子猫は岩を蹴り、左右へ飛び、驚くほどの速さで糸をかわし続けた。
それでも、蜘蛛の糸は少しずつ逃げ道を狭めていく。
そして、とうとう。
「みゃっ!?」
子猫の後ろ脚が、地面に張られた糸に触れた。
粘着性の糸が脚に絡みつく。
子猫は慌てて振りほどこうとしたが、暴れるほど別の糸まで絡んでしまう。
逃げようと脚をひねった、その瞬間。
「みゃあっ!」
子猫が悲鳴を上げた。
脚を痛めてしまったらしい。
普段なら一瞬で逃げられるはずなのに、今度は思うように身体が動かない。
蜘蛛は、その隙を見逃さなかった。
八本の脚を動かし、動けなくなった子猫へ迫っていく。
「大変!」
私は採取道具を放り出して駆け出した。
ルゥも驚いたように耳を立て、私の後を追ってくる。
「待ってて! 今、助けるからね!」
私は蜘蛛の糸をかわしながら子猫のもとへ駆け寄り、採取用のナイフを取り出した。
子猫を傷つけないよう、慎重に糸を切っていく。丈夫な糸だったけれど、一本ずつ切ればどうにかなる。
「もう少しだからね。頑張って!」
最後の一本が切れた。
私は子猫を抱き上げ、安全な岩陰へ移動させた。
けれど、子猫は地面に下ろされたあとも、痛めた脚をかばうように身を縮めていた。立ち上がろうとしても、うまく体重をかけられない。
「……脚を痛めちゃったんだね」
いつもなら、あっという間に逃げてしまう子なのに。今は、逃げたくても逃げられないのだ。
「大丈夫。今度は私が守るからね」
そう言って、子猫を岩陰にそっと座らせる。
すぐに、ルゥがとことこと追いついてきた。子猫の隣にちょこんと座り、心配そうに顔を覗き込む。
「ルゥ、この子をお願いね」
「みゃっ!」
ルゥは胸を張って、子猫の前に陣取った。小さな体が、頼もしい壁みたいに見える。
私は振り返った。
蜘蛛型モンスターは、獲物を横取りされたことが気に入らないらしい。大きな前脚を持ち上げ、こちらへと突進してきた。
「……もう! この子は食べさせません!」
蜘蛛が前脚を振り下ろす。
私は横へ跳んで攻撃をかわすと、その勢いを利用して前方へ踏み込んだ。
足元を確かめ、重心を整え、全身の力をつないでいく。
健康のために始めた太極拳。別に、強くなるために始めたわけじゃない。ただ、面白かったから。
そして今、その趣味が思わぬところで役に立っている。
「えーいっ!」
私は地面を強く蹴った。
身体が宙へ舞い上がる。
蜘蛛が反応するよりも早く、空中で身体をひねり、脚を大きく振り抜いた。
狙うのは、硬い外殻に覆われた頭胸部。
ドゴォンッ!
飛び蹴りが直撃した。
蜘蛛の巨体が宙を飛び、背後の岩壁へ叩きつけられる。
衝撃で岩壁にひびが入り、蜘蛛は八本の脚をばたつかせた。
やがて、その巨体は光の粒子へと変わり、ダンジョンの空気に溶けていった。
あとには、大きな魔石と、銀白色に輝く糸の束が残された。
けれど、私は足を止めなかった。
「チビちゃん、大丈夫!?」
私はすぐに岩陰へ駆け戻った。
今は、それどころじゃない。目の前にいる小さな命のほうが、ずっと大事だった。
〈え?〉
〈飛んだwww〉
〈蜘蛛、壁まで吹っ飛んだんだが!?〉
〈今の飛び蹴り、威力おかしくない?〉
〈薬草配信者とは何だったのか〉
〈健康法の人、今日も元気にモンスターを粉砕〉
〈……いや待て、後ろのドロップ品もすごくない?〉
コメント欄が騒がしくなっているけれど、私は子猫のことで頭がいっぱいだった。
「チビちゃん、怪我はない?」
子猫は、まだその場で身を縮めていた。
私が近づくと一瞬だけ身体をこわばらせたけれど、今度は逃げようとしなかった。それどころか、私の顔をじっと見上げている。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
私はしゃがみ込み、子猫の体を確認した。
絡まっていた糸を取り除き、脚の状態を確かめる。目立った出血はないけれど、脚をひねったらしく、地面に立たせようとしても、すぐに脚を浮かせてしまう。
「うーん……。しばらく安静にしたほうがよさそうだね」
私は持ってきた救急用品から、清潔な包帯を取り出した。
痛めた脚を無理に動かさないように支えながら、そっと包帯を巻いていく。これだけですぐに治るわけではないけれど、今は少しでも負担を減らしてあげたい。
「よし、これで少しは楽になったかな?」
子猫は最初こそ身を縮めていたものの、私が乱暴に触れないとわかると、次第に落ち着いてきた。
私が手を止めると、子猫は私の指先に鼻を近づけた。
くん、くん。
そして、ちょん。
昨日と同じように、鼻先が指に触れた。
「……ふふっ。ありがとう」
私は微笑んだ。
けれど、子猫はそれ以上近づいてこなかった。まだ怖いのだろう。だから、無理に撫でようとはしなかった。
ところが。
とん。
子猫が、私の膝に小さな額を押しつけた。
「……えっ?」
思わず声が出そうになった。
子猫は顔を上げ、私の手を見つめている。
私はそっと指先を動かしかけたけれど、子猫の耳が少し伏せられたので、すぐに手を止めた。
「ごめんね。まだ怖いよね」
すると子猫は、少し迷ったように私を見たあと、もう一度だけ額を膝に押しつけた。
……撫でてほしいのかな?
私は、今度は急な動きにならないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
柔らかな毛に指先が触れる。
子猫は一瞬だけ身体をこわばらせたけれど、逃げなかった。やがて、少しだけ目を細めた。
「……よしよし」
私は優しく頭を撫でた。
隣では、ルゥが見守るように、ちょこんと座っている。
〈撫でたああああ!〉
〈ついに心を開いた!〉
〈飛び蹴りからの優しい時間、温度差がすごいw〉
〈ひよりさん、さっきの蜘蛛より子猫の心配ばっかりしてる〉
「だって、怪我しちゃったんですよ。早く元気になってほしいですから」
私はコメントを読みながら答えた。
「……それに、この子、足がとっても速いんです。早く治って、また元気に走れるようになってほしいな」
子猫は、私の膝に額を乗せたまま小さく鳴いた。
「みゃっ」
「うん。大丈夫だよ」
私はもう一度、そっと頭を撫でた。
昨日は指先に触れるだけだったこの子が、今日は自分から甘えてくれた。
その小さな変化が、たまらなく嬉しかった。
少し離れた岩壁のそばには、蜘蛛が残した魔石と、銀白色の糸の束が転がっている。
拾うのは、この子が落ち着いてからでいい。




