臆病な子猫、少しだけ近づいてくれました
翌日。
「よし、今日も月光草を採りに行こう!」
「みゃっ!」
キャリーに入れる前から、ルゥはやる気いっぱいだった。翼の怪我が治ってからというもの、家の中をぽてぽて歩き回ったり、私の膝を当然のように占領したりと、以前にも増して活発になっている。
「今日は、保存食も多めに持っていこうね。あの子、来てくれるといいな」
「みゃう?」
ルゥは首を傾げた。何のことかわかっていないらしい。たぶん。
* * *
中層ダンジョンの入口で手続きを済ませ、昨日と同じ採取区域へ向かった。
普段より少し奥にあるけれど、見通しがよくて歩きやすい。足元には、ひんやりした岩肌と、ところどころに淡く光る苔が広がっている。
キャリーの中では、ルゥが丸くなって小さく揺れていた。
「それじゃあ、配信を始めますね。こんにちは、小鳥遊ひよりです」
カメラの前で挨拶をすると、コメント欄はあっという間に同じ話題で埋まった。
少し前までは、一人か二人しか来てくれなかった配信なのに。こうして画面いっぱいにコメントが流れるのは、まだ慣れない。
〈今日もあのチーターみたいな子猫、出る?〉
〈ルゥちゃんも元気そう!〉
〈ひよりさん、今日は追いかけちゃだめですよ!〉
「追いかけませんよ! 昨日ちゃんと反省しましたから」
私が答えると、キャリーの中のルゥが「みゃっ!」と元気に鳴いた。
〈ルゥちゃんも「そうだそうだ」って言ってるw〉
〈ルゥちゃんだけは絶対何も考えてない〉
……否定できないのが悲しい。
そんなやり取りをしながら歩いていた、そのときだった。
かさっ。
岩場の陰で、小さな物音がした。
足を止める。
岩の向こうから、見覚えのある黄色い耳が覗いている。
「あっ」
声を漏らした瞬間、耳がぴんと立った。
シュバッ!
黄色い影が走り去る。やっぱり速い。
けれど、少し離れた岩の上でぴたりと止まり、こちらを振り返った。
大きな耳は伏せ気味で、細い尻尾は体に沿って下がっている。金色がかった瞳は、逃げ出す準備をしながらも、私から目をそらさない。
やっぱり、怖がっている。
でも、昨日はここまで待ってくれなかった。
「おはよう。今日も追いかけたりしないからね」
できるだけ穏やかに声をかけて、その場にしゃがみ込む。目線を低くすると、少しは怖くなくなると聞いたことがあった。
〈見てる見てる〉
〈昨日より逃げるまでが長い!〉
〈ひよりさんが小さくなってるw〉
「ルゥ、お友達になれるといいね」
そう言って、キャリーの扉を開けた。
「みゃっ!」
ルゥが勢いよく鳴いた。
びくんっ。
シュバッ!
「……あらら」
〈ルゥちゃんの声で逃げたw〉
〈時速何キロ出てるんだ、あの子〉
〈ルゥちゃん、悪気はないんだよね〉
ルゥは「みゃう?」と首を傾げている。
悪気はないのだ。たぶん。
「ルゥ、気持ちはわかるけど、もう少し小さい声でね」
「みゃっ」
……本当に小さくなったのか、怪しいけれど。
* * *
気を取り直して、月光草の群生地に着いた。
岩の割れ目に、淡い銀色の葉が青白くぼんやりと光っている。昨日採ったところより、ずっと群生が大きい。
「こちらが月光草です。葉の表面がほんのり光っているのが見えますか?」
私は岩の割れ目にそっと指を添えた。
「光るのは、薄暗い場所で花粉を運んでくれる虫を呼ぶためだと言われています。だから、強い光を当ててしまうと葉の光が弱まって、薬効成分も落ちてしまうんです」
〈え、そうなんだ〉
〈懐中電灯を当てたらだめなやつ?〉
「はい、だめなやつです。採取したら、すぐ遮光ケースに入れてくださいね」
〈ひよりさんのケース、ちゃんと黒い〉
〈勉強になる〉
「月光草は、疲れ目や夜間の視力低下に効く目薬の材料になります。探索者さんだけじゃなく、夜勤のお仕事の方にも人気なんですよ」
〈目薬になるのか!〉
〈地味だけど需要ありそう〉
〈ひよりさん、薬草のことになると急に早口になるw〉
「す、すみません。つい……」
顔が熱くなる。私が好きなことを話すだけの配信なのに、こうして誰かが聞いてくれているのが、いまだに不思議な気持ちだった。
「それから、すぐ隣に生えている丸い葉っぱはヤスラギ草です。すり潰すと痛み止めの軟膏になるので、探索者さんの救急セットにもよく入っています。月光草と間違えて摘む人が多いんですが、光らないほうがヤスラギ草です」
〈光るかどうかで見分けるのか〉
〈痛み止めは地味に大事〉
〈ひよりさんの解説、ほんとにわかりやすい〉
「ありがとうございます。ヤスラギ草は摘みすぎると生え替わりが遅くなるので、必要な分だけにしましょうね」
話しながら、月光草を根元から少し残して切り取り、ケースへ収めていく。根を残しておけば、また来月には新しい葉が出てくる。
これは、薬草に詳しかったおばあちゃんの受け売りだ。
採りすぎず、必ず残して帰る。そうすれば、山もダンジョンも、ちゃんと次の恵みを返してくれるのだと、小さいころから何度も聞かされた。
〈ひよりさんの採り方、ほんとに丁寧だよね〉
〈おばあちゃんの教え、いい話〉
「ふふ、ありがとうございます。地味な配信ですけど、これだけは守りたくて」
地味で、底辺で、だけど好きなこと。そう思いながら続けてきた配信を、こうして褒めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
ルゥは足元で、月光草の光をじっと見つめていた。ときどき、小さな前足でちょいちょいと葉を触ろうとするので、そのたびに指先でそっと止める。
「みゃう……」
不満そうな顔も可愛い。
採取を進めながら、少し離れた岩の上に、保存食を小さくちぎって置いた。
「食べに来てくれたら嬉しいな。でも、来なくても大丈夫だからね」
誰に言うでもなく呟いて、私は作業に戻った。
しばらくして。
岩陰から、黄色い耳がそっと現れた。
周囲を何度も確かめながら、そろそろと保存食へ近づいてくる。足取りは音もなく軽いのに、背中は緊張でこわばっていた。
私は動かない。
黄色い子猫が、保存食に鼻を近づけた、そのとき。
キィッ!
甲高い鳴き声とともに、横の岩の隙間から茶色い影が飛び出した。
「牙ネズミ!」
昨日、子猫を追いかけていたモンスターだ。
子猫が固まる。
牙ネズミは、大きな前歯をむき出しにして、子猫へ飛びかかろうとした。
私は思わず立ち上がった。
間に合わない、と思った、次の瞬間。
「みゃっ!」
ぽふっ。
……ぽふっ?
ルゥが小さな翼を一振りしただけだった。
牙ネズミは綺麗な放物線を描いて飛んでいき、遠くの岩に激突して、そのままぴくぴくと伸びている。
「…………」
〈え〉
〈今、何が起きた〉
〈翼で撫でただけなのに〉
〈ルゥちゃん強すぎない?〉
〈さっきまで普通に可愛い子猫だったのに〉
〈牙ネズミ、星になったな〉
〈牙ネズミって、そこそこ危ないモンスターじゃなかった?〉
〈初心者パーティーが噛まれて泣くやつ〉
〈ひよりさんは一撃でしたけどねw〉
「そうなんです。ふつうは盾を持った人が二人で押さえるくらいの相手なので……」
説明しながら、自分で言っていて遠い目になってしまう。
うちの子は、翼のひと振りだった。
ルゥは満足そうに「みゃう」と鳴くと、胸を張って、私のほうへぽてぽて戻ってきた。
足元でくるりと一回転して、ぐいっと頭を押しつけてくる。褒めて、ということらしい。
「えっと……ルゥ、ありがとう。偉かったね」
私はルゥを撫でながら、伸びている牙ネズミを遠目に確認した。ちゃんと息はしている。しばらくしたら目を覚まして、逃げていくだろう。
それから、おそるおそる子猫のほうを見た。
黄色い子猫は、目を丸くしたまま固まっていた。
ルゥと、伸びている牙ネズミと、もう一度ルゥを見て――
とん、とん。
ゆっくりと、こちらへ近づいてきた。
「……あれ」
保存食をくわえて逃げるのかと思ったら、子猫はルゥの数歩手前でぴたりと止まった。
ルゥが「みゃう?」と鳴く。
今度は、子猫は逃げなかった。
耳をぴくりと動かしただけで、じっとルゥを見ている。ルゥも、いつもの元気な声ではなく、ちいさく喉を鳴らしただけだった。
まるで、びっくりさせないように、気をつかっているみたいに。
〈逃げなかった!〉
〈ルゥちゃんが守ってくれたから、安心したのかな〉
〈強い子の近くは安全ってことか〉
〈ルゥちゃん、声ちっちゃくしてる……えらい〉
私は動かず、息を潜めていた。
子猫は保存食をくわえると、その場に座って、小さな口で食べ始めた。
一口食べるごとに、私をちらりと見る。私が少しでも体を動かすと、耳がぴくっと立って、今にも逃げ出しそうになる。
それでも、立ち去ろうとはしなかった。
食べ終えると、口元をぺろりと舐める。
それから、一歩、また一歩。
ルゥのすぐ隣を通り過ぎるとき、子猫の体がわずかにこわばった。けれどルゥは、ちょこんと座ったまま、動かなかった。
子猫が私の前で足を止める。
私は、そっと手を地面に置いた。
くん、くん。
小さな鼻が指先に近づいてくる。
ちょん。
一瞬だけ、触れた。
「……!」
あたたかくて、ほんの少し湿った、小さな鼻先。
心臓が、どくんと鳴った。
ずっと逃げ回っていた子が、自分から近づいてきてくれた。それだけのことなのに、胸の奥がじんと熱くなる。
追いかけなくて、よかった。
昨日の私が焦って手を伸ばしていたら、きっと今日、この子はここにいなかっただろう。
子猫はすぐに一歩下がったけれど、走り去ることはなかった。
「……みゃっ」
昨日より、ほんの少しだけしっかりした声だった。
〈指先タッチ成功!!〉
〈撫でないの偉い〉
〈ひよりさんも固まってるw〉
〈これは泣く〉
「……はい。今日は、ここまでにしておきます」
私は小さく笑って、そっと立ち上がった。
子猫は少し身構えたものの、逃げなかった。
採取したばかりの月光草が、ケースの中でほのかに光っている。
今日は、これ以上ない収穫だった。
「また明日ね」
ルゥがキャリーの中から「みゃっ」と鳴く。
子猫の耳が、ぴくんと動いた。
* * *
帰り道、キャリーの中のルゥは、いつもよりおとなしかった。
小窓から、後ろをじっと見つめている。
「ルゥ、あの子のこと見てるの?」
「みゃう」
返事は短かったけれど、やわらかい声だった。
何度か振り返ると、黄色い子猫は離れた岩の上からこちらを見送っていた。
私が振り返るたびに、耳がぴくっと動く。それでも、もう逃げ出そうとはしなかった。
ダンジョンの通路が分かれる場所まで来て、私は足を止めた。
「また明日、来るからね」
子猫はその場に座ったまま、じっとこちらを見ている。
私が手を振ると、尻尾が一度だけ、ぱたりと揺れた。
〈今の見た? 尻尾揺れた〉
〈バイバイしてくれたw〉
〈今日いちばんかわいい〉
〈この子、名前つけないの?〉
「名前ですか? ……まだ、早いと思います」
私は正直に答えた。
「名前をつけたら、私のほうが勝手に仲間にしたつもりになってしまいそうで。あの子が自分から『一緒にいてもいい』って思ってくれたら、そのときに考えたいなって」
〈ひよりさん、やさしい〉
〈そうだね、焦らずいこう〉
「……見ました。ばっちり見ました。皆さん、見守ってくれてありがとうございます」
にやけてしまうのを抑えながら、私は配信を締めくくった。
* * *
家に帰ると、ルゥは真っ先にソファへ飛び乗って、私の膝を待つように丸くなった。
「はいはい、今日は大活躍だったもんね」
膝にのせてあげると、ルゥは満足そうに喉を鳴らした。
アーカイブを確認すると、同時視聴者数は、子猫が現れた場面と、ルゥが牙ネズミを飛ばした場面で大きく跳ね上がっていた。
切り抜きも、いくつか作られているらしい。
月光草をケースから取り出して、机の上の薬瓶に移していく。暗い部屋で瓶がほのかに光るたび、ルゥが前足を伸ばして、ちょんちょんと触ろうとした。
「こら、だめだってば。これは大事な薬の材料なんだから」
「みゃう……」
しょんぼりしながらも、目だけは瓶を追いかけている。
「……ルゥ、また有名になっちゃうかもしれないよ」
「みゃう?」
本人は、まったく気にしていない様子だった。
あの翼の一振り。可愛いだけじゃないとは思っていたけれど、あんなに強いとは思わなかった。
でも、そのおかげであの子が安心してくれたのなら、結果的には大成功だ。
私は、明日の分の保存食を台所の棚から出しておいた。
戻ってくると、ルゥが私の指先に鼻を寄せて、くんくんと嗅いでいた。さっき、あの子が鼻を触れた指だ。
「……ルゥ?」
ルゥは首を傾げてから、ぺろりとその指を舐めた。
何かを確かめたみたいに、満足そうに目を細める。
「ルゥも、あの子が気になるんだね」
「みゃう」
小さな鳴き声が、ひとつだけ返ってきた。
* * *
そのころ、ダンジョンの岩場では。
黄色い子猫が、ひよりの去った方角を見つめていた。
怖かった。
牙ネズミが飛び出してきたとき、足がすくんで、動けなかった。
けれど、あの羽付きの子は、小さな翼を一振りしただけで、あの嫌な相手を飛ばしてしまった。
強くて、でも怖くなかった。
そして、あの人は、差し出した手を引っ込めずに、じっと待っていてくれた。
指に鼻をつけても、急に掴んだりしなかった。
あの指先は、あたたかかった。
薬草の、少し苦いような、けれど落ち着く匂いがした。
近くにいても、嫌な感じがしなかった。こんなことは、ずっと、なかった気がする。
ひとりで岩陰にいるときよりも、あの人たちの近くにいたときのほうが、ずっと安心できた。
――もう一度、あの指先に触れてみたい。
そう思いながら、ねぐらへ戻ろうと足を踏み出した、そのとき。
きらり。
暗がりの中で、何かが光った。
岩の隙間から伸びた透明な細い糸が、月光草のかすかな青白い光を受けて、ゆらりと揺れていた。
子猫の前足は、まだそれに気づいていなかった。




