朝起きたら、ネッコが布団を占領していました
朝、右腕が動かなかった。
重いわけじゃない。ただ、腕のあたりだけがじんわりと温かい。
布団をめくると、砂色の毛玉がいた。
ルゥだ。私の右腕を、怪我をしていないほうの前足で抱え込み、胸元に顔を埋めている。後ろ足は伸びきって、小さな翼は毛布の上にぺたりと広がっていた。布団の七割は、完全にこの子のものになっている。
どうやら、私の腕を枕代わりにしているらしい。
黒い耳の先が、ときどき小さく動く。寝息に合わせて背中がゆっくり上下し、頬に触れている柔らかな毛からは、かすかな体温が伝わってきた。
「……ルゥ?」
「みゅぅ……」
黒い耳がぴくんと動いた。けれど目は閉じたまま、小さな肉球が私の袖をふみふみ、ふみふみ。喉の奥からは、ごろごろと低い音がする。
起きているのか、寝ぼけているのか。少しだけ前足に力がこもり、私の腕をぎゅっと抱き直した。
「ルゥ、そろそろ起きたいんだけどな」
「みゅ……」
返事らしき声は聞こえたけれど、腕を離してくれる気配はない。それどころか、鼻先を私の服にすり寄せ、また気持ちよさそうに喉を鳴らし始めた。
……これは、完全に二度寝するつもりだ。
起きなきゃ。傷の手当てもあるし、午後には配信もある。
そう思っているのに、腕に伝わる温かさと規則正しい喉の音が、なかなか私を布団から解放してくれない。
「……こんなの、起きられないよ」
結局、予定より三十分も遅れて布団を出た。寝坊したことは、ルゥには内緒だ。
* * *
ルゥを抱いてリビングへ向かい、ソファのクッションの上に下ろす。
寝起きのルゥは、いつもより少しぼんやりしていた。クッションに乗せると、前足で何度か表面を押して寝心地を確かめ、それからくるりと体の向きを変える。最後に小さな翼をぱたんと畳み、丸くなった。
「ここで待っていてね。朝ご飯を用意するから」
そう言って台所へ向かうと、とことこ、と足音がついてきた。
振り返ると、クッションの上にいたはずのルゥが、私の後ろを歩いている。小さな体で、床をぽてぽてと歩いてくる。怪我をしているからか、少しだけ歩き方がぎこちない。
それでも、私から離れるのは嫌らしい。
「ルゥ、まだ無理しちゃ駄目だよ」
「みゃっ!」
ぴたり、と足元で止まり、金色の瞳でじーっと見上げてくる。
まるで、ちゃんと歩けるよ、と言いたげだ。
けれど、前足を一歩踏み出したところで、体がほんの少しだけ傾いた。ルゥ自身もそれに気づいたのか、何事もなかったように座り直す。
……今のは、見なかったことにしておこう。
私は負けた。
「……台所の入り口で待っていてね。危ないものがあるから、中には入らないこと」
ルゥは入り口にちょこんと座り、私が動くたびに耳をぴこぴこと動かした。
私が冷蔵庫を開ければ、右の耳がぴこっ。食器棚から器を出せば、左の耳がぴこっ。包丁を使い始めると、今度は両方の耳がこちらを向く。
目で追いかける代わりに、耳で私の動きを追っているみたいだ。
「そんなに見ていても、まだできないよ?」
「みゅぅ」
返事をするように鳴いたあと、ルゥは前足をそろえた。けれど、私が少し離れた場所に移動すると、首がそちらへ向いてしまう。
どうやら、待っている間も私のことが気になるらしい。
自分の朝食と、ルゥの保存食を用意して、床に器を置く。ルゥは匂いを嗅いでから私の顔を見て、ぱくっと食べ始めた。
もぐもぐ。一口食べては、私を見る。
また一口食べて、ちらり。
器に顔を近づけたまま、金色の瞳だけをこちらに向けてくるのが、なんとも可愛らしい。
「私が見ていないと、食べられないの?」
試しに、あえて目をそらしてみた。
「あー、お茶がおいしいなー」
器のふちを、かりかりと爪で叩く音がした。
振り向くと、ルゥが器の前に座り直して、まっすぐ私を見ている。ここで見ていて、と言わんばかりに。
しかも、器の中にはまだ食べ物が残っているのに、こちらを見つめたまま動かない。
見ていないと食べられないのではなく、見ていてほしいだけらしい。
「はいはい。見てますよ」
そばに座って、自分の朝食を食べることにした。
ルゥは満足そうに食事を再開した。私が一口食べると、ルゥも一口。私がお茶を飲むと、ルゥも顔を上げてこちらを見る。
まるで、同じ食卓で食事をしているつもりなのかもしれない。
ただ、半分ほど減ったところで、器を鼻先でそっと押しやった。
「もうおしまい?」
ルゥは器を見て、それから私を見た。もう一度だけ鼻先で器を押す。
食べたくない、ということなのだろうか。それとも、何か別のものが欲しいのかな。
無理に食べさせるわけにもいかないので、器はそのままにしておくことにした。
これまでの朝は、私ひとりだった。誰かと食卓を囲むのが、こんなに楽しいなんて。相手は人間ではなく、羽の生えた小さなネッコだけれど。
食べ終わったルゥは、私の足元にやってきて、前足をちょこんと乗せた。
「どうしたの?」
「みゅぅ」
見上げてくる金色の瞳に、つい頬が緩む。
食事の続きを要求しているのかと思ったけれど、そうではないらしい。私が手を伸ばすと、ルゥはその手に額をすり寄せた。
……食事が終わったから、今度は撫でてほしいのかな。
朝からずいぶん忙しい子だ。
* * *
朝食のあと、傷の手当てをする。
膝に乗せると、昨日より少し重い。ちゃんと食べたからだろう。毛をかき分けて、前足と脇腹の傷を見る。出血は止まっていて、腫れも熱もない。ただ、翼の付け根だけは、触れると小さく震える。
ルゥは私の膝の上で、じっとしていた。
最初は私の手元を追っていた金色の瞳も、傷の辺りを確認しているうちに、少しずつ細くなっていく。眠いのかと思ったけれど、翼の付け根に触れると、耳がぴくりと動いた。
やっぱり、まだ痛むのだろう。
ダンジョン生物の体は魔力を帯びている。人間用に白露草をそのまま揉んで貼ると、刺激が強すぎるかもしれない。煎じて、薄めて、人肌まで冷ます。
小鍋から青い草の匂いが立ちのぼった瞬間、ルゥがぷいっと顔を背けた。耳がぺたんと伏せられる。
さっきまで大人しくしていたのに、鼻先をひくひくさせたあと、私とは反対側を向いてしまった。
「においが苦手? ちょっとだけ我慢できる?」
金色の瞳が、一度だけゆっくりと閉じた。
それから前足をそろえて、ぴたりと動かなくなる。
ただし、耳だけは少し横に倒れたままだ。苦手な匂いを我慢しているのが、見ているだけで伝わってくる。
薬湯を含ませた布を翼の付け根に当てても、身じろぎひとつしない。震えているのは、尻尾の先だけだった。
尻尾の先が、ぴく、ぴく、と小さく動く。
逃げ出したいのを我慢しているのかもしれない。それでも、私の手を振り払おうとはしなかった。
「……え、すごい。えらいね、ルゥ」
そう声をかけると、伏せていた耳がほんの少しだけ戻った。
褒められたことが分かったのだろうか。ルゥは目を開けて、私の顔を見上げた。
処置が終わると、ルゥは得意げに顔を上げた。ところがその鼻先は、すぐテーブルの端へ向いた。白露草の乾燥葉の束だ。
さっきまで薬湯の匂いを嫌がっていたのに、今度は乾燥葉が気になるらしい。
「それは薬だから駄目」
取り上げようとした私の手を、ルゥがじっと見つめる。
視線は私の顔から手元へ、手元から乾燥葉へ。前足が少しだけ持ち上がったけれど、触れてはいけないと思ったのか、途中で止まった。
煎じた匂いは嫌がったのに、乾燥葉には興味がある。薬の匂いが苦手なら、乾燥葉はもっと嫌がりそうなのに。そういえば、朝の保存食も半分しか食べなかった。この子の「食べたいもの」は、別にあるのかもしれない。
試しに一枚だけ手のひらに載せて差し出すと、ルゥはくんくんと嗅いだだけで食べず、前足でそっと私の手を押し返した。
爪を立てないように、肉球でちょん、と押す。
いらない、という意思表示らしい。
「食べないんだ?」
もう一度匂いを確かめるように鼻先を近づけてから、ルゥは私の手のひらから顔を離した。
どうやら、食べるために興味を持っていたわけではないようだ。
乾燥させると、香りは強く出る。薬臭いのが、やっぱり苦手なのかもしれない。
「……食べない。でも、気にはなる」
メモ帳に書き込む。
『白露草:煎じた匂いは苦手。乾燥葉は気にするが、食べはしない(匂いが強いから?)。薬湯の処置中は微動だにせず』
最後の一行を書いたところで、ペンが止まった。
痛くないはずがないのに。
……偶然、かな。
メモ帳を閉じようとすると、ルゥが私の膝の上で身じろぎした。小さな前足が、メモ帳の端にちょこんと乗る。
「どうしたの?」
「みゅぅ」
答えるように鳴いて、ルゥはそのまま私の手に頬を寄せた。
もしかして、褒めてほしいのだろうか。
「今日は頑張ったね。えらかったよ」
頭を撫でてあげると、ルゥは目を細めた。喉の奥から、ごろごろと音が聞こえてくる。
……やっぱり、褒めてほしかったのかな。
* * *
昼食のあと、ルゥはクッションの上で丸くなった。小さな翼が、ときどきぴくりと動く。
私は机に薬草を広げ、午後の配信の準備に取りかかった。今日は家から、薬草の保存方法の回だ。黒甲獣の救助から、協会での聞き取りと能力測定まで続いて、ここ数日は採取した薬草の整理がほとんど進んでいなかった。
まず、傷んだ葉を取り除く。それから種類ごとに分けて、乾燥させるものと、湿度を保つものを並べていく。止血に使う葉、熱を取る根、傷の化膿を防ぐ白露草。どれも、採った直後の扱いで薬効が変わる。配信で一番伝えたいのは、そこだった。
作業を始めてしばらくすると、クッションの上から小さな寝息が聞こえてきた。
ルゥは前足を顔の下にしまい込み、尻尾を体に巻きつけている。翼は左右で少しだけ形が違っていて、怪我をしているほうは、無理に畳まないようにしているようだった。
ときどき、耳だけがぴくりと動く。
私が薬草を仕分ける音に反応しているのかもしれない。
白露草の乾燥葉の束を手に取ったところで、視線を感じた。
ルゥが、薄く目を開けていた。
「……起きてる?」
返事はない。金色の瞳は、私の手の中の乾燥葉だけを見ている。
耳が前を向き、鼻先がほんの少し持ち上がる。さっきと同じように、匂いを確かめているのだろうか。
それから、ゆっくりと閉じた。
眠いのを我慢してまで見ていたのかもしれない。
私は束を密閉容器にしまって、ルゥのそばへ戻った。毛布をかけ直すとき、そっと翼の付け根に触れる。
……あれ。
朝は、触れると震えていた場所だ。今は、震えていない。ただ、ほんのりと温かい。
薬湯が効いたにしては、早すぎる。……ダンジョン生物には、人間より強く効くのかもしれない。
ルゥの寝顔を覗き込む。
口元はわずかに緩み、耳は力が抜けたように横へ倒れていた。私が毛布を直しても起きる様子はない。前足だけが、毛布の端をつかむように丸まっている。
気持ちよさそうに眠っている。
メモ帳の朝の一行の下に、書き足した。
『翼の付け根:震えが止まった。薬湯の効き目? ただし、早すぎる』
時計を見ると、午後一時五十分。配信まで、あと十分。
カメラの位置を確かめようと立ち上がったとき、足元で、こつん、と小さな音がした。
振り向くと、ルゥが目を閉じたまま、前足をいっぱいに伸ばしていた。その先にあるのは、さっき私がしまった、密閉容器。
肉球が、容器にちょこんと乗っている。まるで、そこにあるのを確かめるみたいに。
寝たまま前足だけを伸ばしている姿は、見ていてなんとも不思議だった。容器の場所を覚えていたのだろうか。
もう少しだけ前足を伸ばす。
けれど、容器には届かない。
ルゥの耳が、ぴくりと動いた。前足が一度だけ、ふにふにと空をかく。
「みゅぅ……」
寝言のような声がして、前足がふにゃりと下がった。
ルゥはそのまま、すうすうと寝息を立てている。
「……そんなに気になるの?」
小声で尋ねてみたけれど、当然返事はない。
私はルゥの頭をそっと撫でた。指先に柔らかな毛が触れる。すると、眠ったままのルゥが、ほんの少しだけ頭をこちらに寄せてきた。
撫でられていることは分かるらしい。
そのまま、もう一度喉が小さく鳴った。
私はメモ帳を開いて、もう一行だけ書き足した。
『寝ていても、薬草のそばが好き?』
配信まで、あと九分。ルゥと話ができたらいいのに、と思った。聞いてみたいことが、また一つ増えてしまった。




