第五章 喫茶店の記憶
土曜の朝、喫茶店のシャッターは上がっていた。
中に入ると冷房と一緒にコーヒーの香りが流れてきた。カウンターの向こうに初老の女性が立っていた。背は奈津より低い。白いシャツの袖を洗濯バサミでとめている。
「一人?」
「あの、神社の手伝いをしていて、ちょっとお話を伺いたくて」
「座りなさい。ジュースでも飲む?」
奈津はカウンターの端に座った。オレンジジュースが出てきて、コースターの下にはしみが広がった。
先に商店街の話をした。女性はゆっくり思い出しながら自転車屋の子の名を思い出そうとして、途中でやめた。
「ごめんね。最近名前から先になくなるの。顔は覚えてるんだけどね」
「大丈夫です」
「道は覚えてるよ。目をつむれば歩ける。道はなくなったのにね」
奈津はノートを開いて、写し取った屋号を見せた。
「この、洗濯のお店は」
女性はノートを少し遠ざけて見た。
「うちだよ」
それだけ言って、カップを一つ棚に戻した。
「入口の床が赤いタイルでね。店をたたむとき、少しだけはがして持ってきたの」
奈津は、店に入るときに踏んだ赤を思い出した。
「ご家族で、やってたんですか」
「父と母と、姉と私。姉は途中でいなくなったけど」
「いなくなった」
「引っ越すはずだった夏にね。結局、引っ越しもしなかった」
女性はそれ以上言わなかった。奈津も聞かなかった。
風鈴の話をしたとき、女性の手が止まった。
カップを拭く布を一度きちんと畳みなおして、それから声の調子が少し低くなった。
「今も掛けてるの。手水舎に」
「はい。今年も三十六個」
「三十六」
女性はその数を口の中で繰り返した。
「あの頃はもっと少なかったな。十とか、二十とか。でも、子どもの分はちゃんとあった」
「掛け方も今と同じでしたか。願いを声に出さないで中に入れるって」
「同じだよ。声に出したら駄目って、強く言われたもの」
女性はカウンターの下から菓子鉢を出して奈津の前に置いた。
「あれはね、口にしてはいけない願いを入れるためのものなの。神さまに頼む願いとは違う」
「口にしてはいけない願い」
「人に聞かせたら、誰かを傷つける願いだよ。この家がなくなればいいとか、あの人が帰ってこなければいいとか、そんなのばっかり。子どもも、そういうのはちゃんと持ってるもの」
奈津はジュースのグラスを両手で持った。この家の中で自分の願いを探すのはやめておこうと思った。
「願いを入れなかった人もいましたか」
女性はこちらを見た。
「なんでそんなこと聞くの」
「鳴らない風鈴が、一つあるんです」
店の中の音が冷房の音だけになった。
やがて女性はカップを並べなおす手を動かしながら話しだした。
「一人だけ、覚えてる。願いを入れないまま掛けてた人」
「子どもですか」
「いや、大人。私より少し上だったかな。あの人、毎年同じ日に来て、同じ場所に掛けていたの。一番奥。照明の下のとこ」
「同じ日って」
女性は布を持ちなおした。
「うちの姉がいなくなった日だよ」
言い方は天気の話をするときと変わらなかった。
「気づいてたんですか」
「三年目くらいにね。でも、それからはあの時間に境内へ行かないようにしてた。こっちが口に出したら、あの人、来られなくなるでしょう」
奈津の背中に気温の低い空気が当たった。
「なんで願いを入れないんですか」
「聞いたことある。一度だけね。そしたら、入れちゃったら終わってしまうからって言ってた。意味、わかる?」
「……いいえ」
「私も当時は分からなかった。この年になって、少し分かるようになった」
女性は布を置いて窓のほうを見た。
「あの人の風鈴は、掛けても鳴らなかったよ。風があっても鳴らない。神主さんは何も言わないし、こっちも聞かない。そういうものなの」
「どんな人だったか、覚えてますか」
「背はこのくらい。ものを渡すときに必ず両手で渡す人。あとね、笑う前に一拍、間があるの。笑っていいか考えてるみたいな」
奈津はジュースのグラスを両手で持っている自分の手を見た。
自分も人にものを渡すときに両手になる。母には何度も、そんなの丁寧すぎると笑われている。誰の真似をしてそうなったのか奈津は知っていた。
「あの、その人、今も」
「さあ。ここに立ってると、境内のほうは見えないから」
女性はさっと手元に目を戻した。
奈津はごちそうさまでしたと言って店を出た。ドアの鈴が鳴った。ちん、ではなく、からんと乾いた音だった。
外は明るすぎて、一瞬だけ何も見えなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
口にできない願いは、なかったことと同じなのか。そんな問いから生まれた物語です。
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