第三章 短冊の字
短冊を外すとき、奈津は一度だけ手を止めた。
してはいけないことだというのはわかっていた。だからこそ、やめる理由を探さないようにした。探すと自分はすぐにやめてしまう。
結び目は硬くなっていて、爪ではほとんど動かなかった。
結局、奈津は結び目の下を国語のノートの角でこすってゆるめ、やっとのことで短冊を風鈴の口から抜いた。抜いた瞬間、風鈴はめちゃくちゃに揺れた。
鳴らなかった。
短冊は手のひらより少し小さい。古い壁紙のような色になって、規則的に横線が入っている。学校のプリントを切ったものに見えた。
境内の隅にしゃがんで奈津は紙を広げた。
願いは、書いていなかった。
上のほうに数字が三つ。中黒が二つはさまっていて、番地のような並び方をしている。その下に一文字と少し。人の名前の頭だけを書いて、途中で筆を離したような形だった。続きはない、紙が破れてもいない。書いていないのでなく、書きかけてやめたのだと分かる。
奈津はその一文字を読み取ろうとしてできなかった。墨は確かにここにあるのに、文字としての形にならない。ひとつの線を見ていると、隣の線の位置がさっきと変わっているような気がする。
なぜか、数字だけははっきり読めた。名前の文字がほどけていく中で、そこだけが別の紙のようにくっきりと残っている。
スマホで写真を撮る。画面を覗くと写真の中の字は、紙で見るよりさらに読むのが難しかった。
短冊は元の風鈴に結びなおした。結び目はさっきより緩くなってしまったが、他の風鈴の短冊もばらばらなので、気づかれないと思った。
翌日の午後、同級生の女子と二人で市立図書館の二階にいた。
「番地だけで場所とかわかるの」
「地図に書いてあるんだし。すごい細かい地図とか、ここにあるでしょ」
彼女はカウンターで住宅地図のある場所を聞き出して司書に付いていった。奈津一人だったら、声をかけるまでに三十分はかかっていたと思う。
現在の地図を広げて番地を探す。
なかった。
丁目の番号はある。上二つの数字は、神社から南に二、三分歩いたこの辺りを指している。だが最後の数字の入る場所に、家の形がない。道路と、白い四角と、駐車場の記号だけがある。
「ここ、行ったことある」
同級生は指を置いて言った。
「自販機しかないとこだよ。コンビニの裏。ひろいだけで、なんもない」
二人で行ってみると確かになんもなかった。アスファルトに白線が引かれて、車が三台とまっている。奥に自動販売機が二台並んでいる。建物のあった形跡も、石垣もない。
ただ、境界のフェンスの内側に古いタイルが一列だけ残っていた。熟した果実のような赤で、今の建物には使わない色だった。
「ここ、昔何かあったのかな」
「あったんだと思う。このタイル、余ってる」
奈津はしゃがんでタイルの目地に指を当てた。アスファルトの下に、このタイルがひとつづきの床のまま埋まっているのが想像できた。
帰り道、同級生は自転車を押しながら思いついたように言った。
「ねえ、なんでそんなに風鈴のこと調べてるの」
奈津は少し考えて本当のことを言った。
「あの風鈴だけ、ちゃんと願いを入れてもらってない気がするの」
「入れてもらってないって、風鈴が可哀そうってこと?」
「……うん」
違う。でも、どこが違うのかを言葉にすると自分の話になってしまうと思った。
家に帰ると母が台所で仏壇の花を切っていた。祖母の写真はまだ新しい枠に入ったままで、居間の棚に置いてある。
部屋で奈津はスマホの写真を開いた。
番地の数字をもう一度確かめようとして手が止まった。
昨日は読めたのに。
三つ並んでいた数字のうち、最後の一つが滲んで形を失っていた。拡大しても墨の不定形な塗りにしか見えない。他の二つの数字ははっきりしているのに、そこだけだ。
写真の保存日時は昨日の夕方のままだった。後から加工した形跡もない。
奈津はノートを開いて覚えているうちに番地を書き写した。自分の字で書いてしまってから手が冷えた。
この字もやがて読めなくなるのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
口にできない願いは、なかったことと同じなのか。そんな問いから生まれた物語です。
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