第二章 帳面にない風鈴
翌朝、奈津は開門の前に境内に入った。
朝のうちなら風がある。木の上のほうが鳴っていて、気温の低い空気が石畳の上を流れていく。
手水舎の風鈴は昨日よりさらに鳴っていた。
だが奥の一つは、鳴っていない。
風に押されて鉄の胴体は確かに揺れていた。舌も内側を叩いているはずだった。それでも、そこには穴が開いたように何もなかった。
社務所のガラス戸を叩くと禰宜はすでに机に向かっていた。古い帳面を並べて筆で何かを転記している。
「風鈴のことなんですが」
「掛け直しはしないよ。一度掛けたものはそのままだ」
「そうでなくて、奥の大きい風鈴です。鳴らないんです」
筆が一拍だけ止まったのを奈津は見ていた。
「願いが叶ったんだろう」
「でも、今年の風鈴じゃないです。短冊が古いし、あの彫りの剥げ方も一年でああならないと思います」
禰宜は答えなかった。代わりに帳面の一冊を奈津のほうに向けて開いた。
古い紙に縦罫が引かれている。左から、日付、掛け主の名、風鈴の番号。数字は風鈴を掛ける鉤の位置と対応しているらしく、一番から三十七番までの欄があった。
「風鈴は名前をここに記してから掛ける。掛けてから記すのではなく、先に記す。逆にするなと代々言われている」
「なんでですか」
「記されていない風鈴は本来あってはいけないんだよ」
奈津は指で欄をたどった。今年の日付のページは、母の名、近所の人の名、同級生の名が筆で並んでいる。四つ目の欄には、あの日見た自分の名前があった。
祖母の筆跡に似た丸い字ではなく、禰宜の四角い字だった。
順に目を落としていって手が止まった。
三十七番。奥の風鈴の番号。
日付も、名前も、空白だった。罫の中は紙の地のままで、消した跡もない。最初から何も書かれていない。
「ここ、空です」
「そこはいい」
「でも、風鈴は掛かってます。ちゃんと掛かってます。じゃあ誰が」
「数えない風鈴だ。気にするな」
禰宜は帳面を取り上げ、閉じて積みなおした。声は苛立っていなかったし、怒ってもいなかった。ただ、この話はここで終わりだという声の出し方だった。
「数えないって、どういう意味ですか」
「風鈴は三十六だと思って掛けなさい。それで合ってる」
三十六。昨日確かに自分たちが掛けたのは三十六個だった。だが梁に下がっているのは三十七。一つ多いのではなく、一つを数えないことになっている。
境内を掃く仕事のあと、同級生の女子が自転車で来た。
「風鈴、三十七あるよね」
奈津が言うと彼女は手水舎の下で指さして数え、あっさりとうなずいた。
「ある。奥のでかいやつだけ、今年のと違うよね」
「鳴ってない。さわっても鳴らない」
「へえ」
彼女は石の縁に上がって奈津と同じことをした。風鈴の底を持って、二度揺らして、手を離す。風鈴はゆっくり後ろへ揺れて、次に前へ戻ってきた。なにも鳴らない。
「中になにか詰まってるのかな。紙とか」
「中、見える。何も入ってない」
彼女はしばらく風鈴を見て、それから奈津のほうを見た。
「願い、叶ったんじゃないの。叶ったら鳴らなくなるんでしょ」
「叶ったなら、秋に外されてないとおかしい」
「そっか。今年も掛かってるんだもんね」
彼女は石の縁から飛び降り、スカートの砂をはらった。
「わたしは今年、三つ入れたよ。英語と、背が伸びることと、もう一つは秘密」
「声に出しちゃってたけど」
「一つは声に出して、二つは中で言った。両方やっておけば得だと思って」
奈津は笑った。自分でも意外なほど自然に笑えた。と同時に、自分は三つどころか一つも入れられなかったことを思い出して、笑いが尻尾から冷えていった。
「願い、何入れたの」
と彼女が聞いた。
「秘密」
「ずるい。わたしは言ったじゃん」
「言ったら意味がないんだって」
彼女は不満そうな顔をして自転車を引いて帰っていった。
一人になって奈津はもう一度奥へ入った。
風鈴の口には日に焼けた短冊が一枚だけ結ばれている。他の風鈴の短冊は、今年のものはまだ色の強い紙だったのに、これだけは縁がボロボロになって、結び目が黒く固まっていた。何年もこのままなのだとわかる。
奈津は短冊に顔を近づけた。墨の影はある、字もある。だが、読もうとすると目の前で形がばらばらになってしまう。
風が強くなって周りの風鈴が一斉に鳴った。その中で手のひらのすぐ先だけが黙っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
口にできない願いは、なかったことと同じなのか。そんな問いから生まれた物語です。
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