第一章 風のない日に鳴る
蝉の声が幾重にも重なって、境内の空気を厚くしていた。
奈津は段ボールの箱を抱えて、手水舎の前に立っている。箱の中には、新聞紙にひとつずつ包まれた風鈴が並んでいた。包みを開けると鉄の肌が指に冷たい。
夏の昼だというのに、風鈴だけが涼しい。
「一年しまってあったからね。冷えてるでしょう」
背の低い脚立の上から禰宜が言った。白い袴の裾が、風もないのに少しだけ動く。
「半分は去年鳴りやまなかった分だ。名前を今年の帳面に書き直して、同じ鉤に掛けなおす。残りは、まだ何も入っていない」
奈津はうなずいた、声を出すのはまだ少し億劫だった。祖母の四十九日が終わってからまだ四日しか経っていない。
家では母がずっと電話をしていて、そのあいだ奈津は自分の部屋で日が傾くのを見ていた。
手伝いに来なさいと言われたとき、断る理由を探したけれど、探したことがすでに後ろめたくなって結局ここに来た。
手水舎の梁には、鉤が等間隔に並んでいる。祖母が生きていたころから、夏になるとその鉤に風鈴が下がった。奈津は毎年それを見ていたが、掛ける側にまわったのは今年が初めてだった。
「掛け方には決まりがある」
禰宜は一つ目の風鈴を鉤に通しながら言った。
「まず風鈴を両手で持つ。それから願いを一つ、中に入れる。声には出さない、口の中でも言わない。ただ頭の中だけでしっかり一度だけ言う」
「……入れる、って」
「入れるんだ。書くのでも、唱えるのでもない。中に落とす」
禰宜は風鈴を鉤にかけ、指を離した。風鈴は一度だけ、ちん、と鳴った。
「願いが中に残っているあいだ、この風鈴は鳴る。風がなくても鳴る。願いが叶ったら、鳴らなくなる。そうしたら秋に外して別の場所へ送る」
「送る、ってどこに」
「掛けた人が知らなくていい場所だよ」
禰宜は脚立を降りて箱の中を覗いた。それ以上は説明する気がないらしかった。
奈津は何も入っていないほうの風鈴を一つ手に取った。帳面の四つ目の欄には、もう自分の名前が書かれていた。鉄の表面には、神仏らしい姿が浅く彫られている。指で撫でると、彫りの溝に去年の埃が残っていた。
願いを一つ。
頭の中で言えばいい、声にも出さなくていい、それなら簡単だと思った。
けれど、いざ両手で風鈴を包むと何も浮かばなかった。
浮かばないのではなかった。浮かびかけたものが、浮かびきる前に消えていく。祖母のことを思いかけて、けれどその願いは形にする前から叶わないことが分かっていた。
叶わない願いを言葉にしてしまったら、叶わなかったという事実だけが後に残る。それが怖いのだと気づく前に、奈津の中で願いは静かに畳まれ、しまわれてしまった。
風鈴は、空のまま鉤に掛かった。
音は、した。掛けた瞬間の揺れで、ちん、と一つ。
「入れたか」
「……入れました」
嘘は思ったより滑らかに出た。
昼を過ぎると、境内に自転車の音が入ってきた。同級生の女子が、麦わら帽子を後ろ手に持って現れる。夏の間だけ手伝いに来る子で、去年も来ていたらしい。
「わたし三つ掛けていい?」
彼女は禰宜にそう言って、返事を待たずに箱を覗いた。
「先に名前だ」
禰宜は脚立の脇に置いた帳面を開いて、彼女の名を三つの欄に書いた。それから風鈴を持ったまま、彼女は堂々と言った。
「英語の点、四十点上がりますように」
「声に出したら意味がないぞ」
「じゃあ今のは練習」
彼女は笑って風鈴を鉤に通した。ちん、と音がした。それだけのことなのに、奈津は自分の中の何かが薄く削れる感じがした。願いを声に出せるということが、こんなに堂々とした行為に見えるのを初めて知った。
三十六個の風鈴を掛け終えたのは、日が傾きはじめたころだった。
梁の下に鉄とガラスの風鈴が並んでいる。ガラスのものは氏子の子どもが持ってくるらしく、色が明るい。
風鈴の口にはそれぞれ短冊が結ばれていた。花柄、マーブル模様、水色の紙。字はどれも読めるようで読めない。近づくと墨が滲んで、遠ざかると形だけが見える。
風はなかった。
木の葉も動いていない。手水舎の水面に天井の格子が真っすぐ映っている。境内には参拝の人も、車の音もなかった。
それでも、風鈴は鳴った。
最初は一つ、次に二つ。やがて、三十いくつの風鈴が、ばらばらの間隔で鳴りはじめた。音の粒が空気の中に落ちて、重ならずに散っていく。誰も風鈴に触っていない。奈津は自分の手のひらを見て、それから梁を見上げた。
禰宜は驚いていなかった。脚立を畳んで、ただ音を聞いていた。
「残ってるんだ」
そう言った。
「まだ、みんなの中に残ってる」
奈津は聞かなかった。聞いてしまったら、自分の風鈴が鳴っていないことに気づかれる気がした。
音を数えるつもりはなかったのに、耳が勝手に数えていた。ちん。ちん。少し遅れて、ちん。
並びの端から順に鳴っていく。手前から四つ目で、音は一度途切れた。そこが黙っていることは、奈津がいちばんよく知っていた。
そのうち、耳がもう一つ違和感を拾った。
もう一つ、抜けている。
手水舎のいちばん奥、格子天井に白い照明が取り付けられているちょうど下。他より一回り大きな鉄の風鈴がそこに掛かっていた。彫られた神仏の顔が剥げかけていて、輪郭だけが残っている。それだけが鳴っていない。
自分の風鈴ではなかった。自分のは手前から四つ目で、ここからはずっと遠い。
奥の風鈴には、他と同じように短冊が結ばれていた。ただし紙は日に焼けて茶色に近い。今年のものではない。
「あれ、去年のですか」
聞いたつもりだったが、声は思ったより小さかった。禰宜は箱を抱えて、もう社務所のほうへ歩き出していた。
奈津は手水舎に入り、奥まで進んだ。石の縁に足をかけて、手を伸ばす。指先が風鈴の底に届いた。
揺らした。
舌が内側に当たる感触が、はっきり手に伝わってきた。ちゃんと当たっている。当たっているのに音がしない。
もう一度、強く揺らした。
背後で他の三十いくつの風鈴が、風のないまま鳴り続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
口にできない願いは、なかったことと同じなのか。そんな問いから生まれた物語です。
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