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エモーション・イーター  作者: 磯辺


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3/4

警視庁感情災害対策特別課

七十二時間後。


「君を殺しに来た」


 神楽かぐらミナトは、やわらかい声でそう言った。


 灰崎はいざきレンは、しばらく何も言えなかった。


 舌を動かすと、頬の内側に血の味がにじむ。


「……は?」


 ようやく声が出た。


 自分でも情けないくらい、掠れていた。


 ミナトは小さく首を傾ける。


「聞こえませんでしたか」


「聞こえた」


 レンはミナトを見た。


「でも、意味がわからない」


「そのままの意味です」


「殺すって、俺を?」


「はい」


「なんで」


 レンは手首に力を入れた。


 金属が鳴る。


 体を起こそうとして、右の脇腹に痛みが走った。


「っ……」


 息が詰まる。


 壁際で、ソウマの指が刀の柄に触れた。


 抜いてはいない。


 それでも、レンの体は止まった。


 足元の黒い犬が、伏せたままこちらを見ている。


 ミナトは、机の上に写真を置いた。


 薄暗い路地。


 血で汚れた壁。


 黒く染みた地面。


 折れた看板。


 レンは、その写真を見た瞬間、息を止めた。


「……あそこ」


「三日前の現場です」


「俺は……」


 黒い路地。


 湿った地面。


 裂けた口。


 大きすぎる目。


 腹の奥で鳴った音。


 そこから先が、抜けていた。


 思い出そうとしても、霧みたいに途切れている。


 ミナトはもう一枚、写真を置いた。


 疲れた顔の男だった。


 くたびれた服。


 暗い目。


 無理に笑おうとして、失敗したような顔。


「誰だよ」


「あなたを襲ったものです」


「……違うだろ」


「同じです」


 ミナトはそれ以上、説明しなかった。


 レンは写真を見たまま動けなくなる。


 あの黒い怪物。


 この疲れた顔の男。


 同じ。


 その言葉が、喉の奥で引っかかった。


「……人間だった」


「そうです」


「あいつは、どうなった」


「あなたが喰いました」


 レンは笑おうとした。


 けれど、口元が引きつっただけだった。


 ずっと、残っていた。


 目覚めた時から、喉の奥にこびりついて消えなかった、あの奇妙な粘り気。


 血の味だと思っていた。


 口の中を切ったせいだと思っていた。


 違った。


 まずい。


 苦い。


 甘い。


 熱い。


 あれは、血じゃない。


 あの怪物の――。


「っ……」


 胃が、内側からひっくり返った。


 レンは咳き込むように体を折る。


 手錠が鳴った。


 喉の奥まで何かが込み上げたが、吐くものはなかった。


 ミナトは動かない。


 その顔に、驚きも同情もなかった。


「嘘だろ……」


 レンは荒く息を吐いた。


「嘘じゃありません」


 ソウマが言った。


 壁際に立つその体から、隙が消えていた。


 足元で、黒い犬が低く喉を鳴らす。


「お前の体には、何も異常が見つかっていない」


「……は?」


「血液、内臓、脳波、骨格。数値だけ見れば、普通の高校生だ」


 ソウマは少しだけ目を細めた。


「そもそも、感情獣を喰った前例すらない」


「じゃあ、なんで俺は縛られてんだよ」


 ソウマは、机の上の写真を見た。


「普通は戻らない」


「何が」


「感情獣化した人間は、元には戻らない」


 レンは眉を寄せた。


「感情、獣化?」


 ミナトが、写真の男を指先で押さえた。


 くたびれた服の男。


 暗い目をした、どこにでもいそうな男。


「心が壊れて、肉体がその形を保てなくなった成れの果てです」


 ミナトの声は、淡々としていた。


 怖がらせようとしている声ではなかった。


 何度も同じものを見てきた人間の声だった。


「そうなったら、もう人の側には戻れません」


 レンは写真を見る。


 疲れた顔の男。


 血で汚れた路地。


 黒い染み。


「じゃあ、あの怪物は……」


「感情獣です」


「人間に戻れないのか」


「戻れません」


 ミナトは短く答えた。


「通常は」


 レンは顔を上げた。


「通常は?」


 ソウマが言う。


「お前は戻った」


 部屋が静かになった。


 レンは何も言えなかった。


 ミナトはレンを見る。


 淡い色の目が、まばたきもせずにこちらを見ていた。


「あなたは感情獣化した。少なくとも、私たちにはそう見えました」


「俺が……?」


「首がまともに動いていない状態で立ち上がり、ソウマの犬を掴み、通行人に手を伸ばした」


 レンの手首で、金属が鳴った。


「覚えてない」


「でしょうね」


「覚えてない。俺じゃない」


 ソウマの目が細くなる。


「お前がやった」


 短い言葉だった。


 レンは言い返せない。


 ミナトが言う。


「君は処分対象です」


 やわらかい声だった。


 けれど、そこに迷いはなかった。


 レンはミナトを見る。


「処分って……殺すってことか」


「はい」


「あんたら、何なんだよ」


「警視庁感情災害対策特別課」


「警察?」


「一応」


「一応って何だよ」


「普通の警察が扱えないものを扱います」


 レンは机の写真を見る。


 人間だった男。


 血で汚れた路地。


 そして、自分の口の奥に残る、あの味。


「怪物退治かよ」


「そう呼ぶ人もいます」


「じゃあ、俺もその怪物扱いか」


「まだ判断前です」


「だから殺しに来た、って?」


 ミナトは答えなかった。


 ただ、レンを見ていた。


 助けに来たわけではない。


 そういうことだけは、わかった。


 ミナトは机の上の写真を揃えた。


 写真の角が、きれいに重なる。


 それだけの動きで、話が次へ進んだのがわかった。


「君には、選ぶ選択肢があります」


「選択肢?」


「ここで死ぬか」


 レンの喉が止まった。


「感対課で働くか」


「……働く?」


「はい」


「何で俺が」


「あなたには、私たちにもわからない性質があります。危険ですが、使い道もある」


「俺は道具かよ」


「今は処分対象です」


 やわらかい声だった。


 けれど、逃げ道はどこにもなかった。


「そのまま死ぬか。管理下で働くか。どちらかです」


 レンはソウマを見る。


 ソウマは何も言わない。


 ただ、刀の柄に添えた指だけが少し沈んだ。


「断ったら?」


「ここで終わりです」


「冗談だろ」


「冗談で、殺しに来たとは言いません」


 レンは歯を食いしばった。


 手錠を引く。


 金属が鳴る。


 動かない。


「俺は家に帰る」


 ミナトが静かに言った。


「帰れば、最初に危ないのは家族です」


 レンの動きが止まった。


「脅してんのか」


「いいえ」


「じゃあ何だよ」


「次にあなたが暴走した時、近くにいるのが誰かという話です」


 レンは何も言えなかった。


 母ちゃんのカレー。


 妹のメッセージ。


 父の変なスタンプ。


 帰るはずだった家。


 それが、頭に浮かぶ。


 玄関。


 リビング。


 カレーの匂い。


 妹のうるさい声。


 帰りたい。


 なのに、その場所に自分が帰ることを想像すると、喉の奥が冷たくなった。


 もし次に目を覚ました時。


 自分の手が、家族へ伸びていたら。


「……黙れよ」


 レンの声は小さかった。


 黒い犬が一歩、前に出る。


 ソウマの指が刀に沈む。


 ミナトは動かなかった。


「怒っても構いません。ただ、危険は消えません」


 レンは俯いた。


 手首の金属が、皮膚に食い込む。


 痛い。


 それでも、今はその痛みの方がましだった。


 しばらく沈黙が落ちる。


 レンは低く言った。


「家族には」


 ミナトが見る。


「俺が生きてるって、伝えてくれ」


 ソウマの眉が、少しだけ動いた。


「事件に巻き込まれたとか、検査が必要とか、何でもいい。とにかく、生きてるって」


「手配します」


 レンは少しだけ息を吐いた。


「あと、家族には今回のこと、黙っていてくれ」


 ミナトは表情を変えなかった。


「もとより、そのつもりです」


「……そうかよ」


「一般の方に知らせる内容ではありません」


 レンは机の上の写真を見た。


 血で汚れた路地。


 疲れた顔の男。


 そして、自分が喰ったという怪物。


「……だろうな」


 レンは小さく言った。


 脇腹が痛む。


 痛みで、少しだけ頭が冷えた。


「……働けばいいんだな」


「はい」


「それで、俺は死なない」


「今は」


「今は、かよ」


「次に暴走すれば、殺します」


 レンはミナトを見る。


 ミナトの声は、最初と同じだった。


 やわらかい。


 けれど、冗談はひとつも混ざっていない。


「殺すのは、あんたか」


「はい」


 ソウマが口を挟んだ。


「課長」


 ミナトはソウマを見た。


 ほんの一瞬だけ。


 それだけだった。


 ソウマの言葉は止まった。


 黒い犬の唸りも、低くなる。


 ミナトはレンへ視線を戻した。


「私が連れて帰ると決めました。だから、次は私が殺します」


 レンは笑おうとして、失敗した。


「責任感すごいな」


「そういうものではありません」


「じゃあ何だよ」


「あなたの処分判断は、私が持ちます」


「かわいくねえ」


「よく言われます」


 ソウマは黙っていた。


 ただ、刀から手は離していない。


 レンはミナトを見た。


 黒いスーツ。


 白いシャツ。


 淡い色の目。


 赤みを帯びた髪。


 それから、胸元。


 死ぬかもしれない。


 家には帰れない。


 怪物扱いされている。


 なのに、頭に浮かんだのは、どうしようもなくくだらないことだった。


 おっぱいを揉みたい。


 キスしたい。


 この人と、エッチしたい。


 最低だと思った。


 けれど、その最低さだけは、まだ自分のものだった。


 レンはミナトの胸元を睨みつけたまま、数秒間、固まった。


「……わかったよ」


 レンは吐き捨てるように言った。


「働く」


 ソウマが眉をひそめる。


「急に素直だな」


「うるせえ。死ぬよりマシってだけだ」


 ミナトは机の写真をまとめた。


 レンがなぜ頷いたのかには触れない。


 もう結論だけがあればいい、という顔だった。


「灰崎レン」


 レンは顔を上げる。


「本日より、あなたは警視庁感情災害対策特別課の管理下に入ります」


「それ、入ったって言うのかよ」


「言います」


「拒否権は?」


「ありません」


「最悪だな」


 ソウマが言った。


「逃げたら斬る」


 レンはソウマを見る。


「暴れたら?」


 ミナトが答えた。


「私が殺します」


 レンは黙った。


 冗談ではないとわかった。


 それでも、死ぬよりはましだった。


 たぶん。


「……ブラックすぎるだろ、その職場」


 ミナトは、ほんの少しだけ首を傾けた。


「ようこそ、感対課へ」


 レンは拘束されたまま、天井を見上げた。


 退屈だった日常は、もう戻らない。


 目の前には、自分を殺しに来た女。


 壁際には、自分を斬る気の男。


 そして腹の奥には、まだ名前のない空腹が残っていた。


 少なくとも、もう退屈ではなかった。

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