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エモーション・イーター  作者: 磯辺


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2/4

退屈な日常

七十二時間前。


 教室は、少しだけ暑かった。


 冷房を入れるほどではない。

 けれど、窓を閉めたままだと、制服の内側に熱がこもる。


 開け放たれた窓から、グラウンドの声が入ってきていた。


 笛の音。

 走る足音。

 誰かが名前を呼ぶ声。


 カーテンがふくらんで、すぐにしぼむ。


 黒板には、数学教師の書いた式が並んでいた。右へ行くほど字が荒くなって、最後の等号だけがやけに強く白かった。


 灰崎はいざきレンは、配られたプリントの端を折っていた。


 折る。


 戻す。


 また折る。


 紙の角が、少しずつ柔らかくなっていく。


 教師の声は、教室の前から後ろへ流れていく。


「ここ、次の小テストに出るからな」


 誰かが小さくうめいた。


 誰かが笑った。


 レンも、少しだけ笑った。


 笑ったあと、胸の奥に何かが残った。


 小さな石みたいなものだった。


 飲み込めない。

 吐き出せない。

 けれど、そこにある。


 レンは、ふう、と息を吐いた。


 ため息は出るのに、その石だけは動かなかった。


「灰崎」


 教師に呼ばれた。


 レンは顔を上げる。


「この続き、どうなる」


 黒板を見る。


 白い式が並んでいる。


 レンは椅子を鳴らして立ち上がった。


「……すみません。わかりません」


 教師は少しだけ黙った。


「じゃあ、もう一回説明する。ここ、ちゃんと見とけ」


「はい」


 レンは座った。


 教室の空気は、すぐに元に戻った。


 チョークの音が続く。


 誰かがノートをめくる。

 誰かが小さくあくびをする。

 シャーペンの芯が折れる音がする。

 窓際のカーテンが、風で少しだけふくらむ。


 レンは、さっき折ったプリントの端を指でなぞった。


 また、ふう、と息が漏れた。


 胸の奥の石は、まだそこにあった。


 昼休みになると、教室は一気に騒がしくなった。


 机を動かす音。

 弁当箱のふたを開ける音。

 コンビニ袋を破る音。

 スマホの通知音。


「レン、購買行く?」


 向かいの席の友達が言った。


「行く」


「何買うん」


「焼きそばパン残ってたら」


「あれ、すぐ売り切れるよな」


「三限終わった瞬間に走ってるやついるからな」


「あいつら本気すぎる」


「お前も走ればいいじゃん」


「そこまでして食べたいわけじゃない」


「じゃあ別のでいいじゃん」


「いや、あったら食べたい」


「めんどくさいな」


 みんなが笑った。


 レンも笑った。


 笑いながら、机の上の消しゴムを親指で押した。


 消しゴムが少し滑る。


 戻す。


 また押す。


 友達の話は聞こえている。


 くだらなくて、嫌いじゃない。


 けれど、笑い声の中にいるのに、少しだけ遠くから眺めているような気がした。


「今日、英単語の小テストあったっけ」


 別の友達が言った。


「ある」


「終わった」


「何もやってないん?」


「単語帳は開いた」


「覚えたとは言ってないな」


「開いたことが大事」


「点にはならんけどな」


 友達が笑う。


 レンも笑った。


 教室の後ろでは、誰かが弁当の卵焼きを交換していた。

 窓際では、スマホを見ながらイヤホンを片方だけつけているやつがいた。

 廊下からは、誰かの大きな笑い声が入ってきた。


 どこにでもある昼休みだった。


 レンは紙パックのジュースを飲み干した。


 空になったそれを、指で軽く潰す。


 ぺこ、と音がした。


 もう一度押す。


 ぺこ。


 もう一度。


 ぺこ。


「何してんの」


「いや、なんとなく」


「捨てろよ」


「あとで」


 そう言って、また押した。


 放課後、スマホが震えた。


 母ちゃんからだった。


『今日カレーにするけど、中辛でいい?』


 レンは歩きながら返信した。


『中辛』


 すぐに妹から来た。


『甘口』


 続けて、もう一通。


『兄ちゃんは黙って甘口』


 レンは少し笑った。


『俺の意見は?』


 妹からすぐ返ってきた。


『ない』


 さらに父から、犬が親指を立てているスタンプが送られてきた。


 意味はわからない。


 でも、父らしかった。


 レンはスマホをポケットに入れた。


 家族は、今日もいつも通りだった。


 カレーの辛さで少し揉めて。

 父の変なスタンプで終わる。

 それだけで、家の空気がだいたいわかる。


 レンは少しだけ笑った。


 それから、また息を吐いた。


 ふう。


 胸の奥の石は、まだ出てこなかった。


 駅前は人で混んでいた。


 制服。

 スーツ。

 自転車。

 信号待ちの列。

 コンビニの前でだらだらしている中学生。


 レンは信号の前で足を止めた。


 青になった。


 人が流れていく。


 レンも一歩出ようとして、やめた。


 帰ったらカレーがある。

 風呂に入る。

 スマホを見る。

 朝になったら、また制服を着る。


 頭の中で並べると、全部がきれいに決まっていた。


 決まりすぎていて、息が抜けた。


 ふう。


 レンは、人の流れから外れた。


 理由はなかった。


 ただ、まっすぐ帰る気にならなかった。


 ビルとビルの間に、細い路地がある。


 普段なら通らない道だ。


 古い室外機。

 剥がれたポスター。

 錆びた看板。

 湿ったコンクリート。

 排水溝から、水の腐った匂いがする。


 少し奥を覗く。


 昼なのに、そこだけ暗い。


 行かなくてもいい。


 むしろ、行かない方がいい。


 レンはそう思った。


 でも、足が半歩だけ前に出た。


 何かあるのかな。


 そんな軽い気持ちだった。


 何か、ってなんだよ。


 自分でそう思って、少し笑った。


 その時だった。


「持ってる」


 声がした。


 レンは止まった。


 路地の奥からだった。


 擦れたような声だった。


 男にも、女にも聞こえた。

 大人にも、子どもにも聞こえた。


 レンは目を凝らす。


 奥に、黒いものがいた。


 最初は、人がしゃがみ込んでいるのかと思った。


 違った。


 それは、ひどく痩せていた。


 背骨が浮き上がり、肩甲骨が皮膚を破りそうなほど尖っている。

 手足は異様に長く、指は膝の下まで垂れていた。

 膝も肘も、人間とは違う向きに曲がっているように見えた。


 皮膚は黒い。


 ただ黒いだけではない。

 焼け焦げたような黒。

 腐った果物の皮みたいに、ところどころ湿って光っている黒だった。


 顔は、人間に少し似ていた。


 だからこそ、気持ち悪かった。


 目が大きすぎる。


 顔の半分ほどもある目が二つ、ぎょろりとこちらを見ている。

 白目はなく、濁ったガラス玉みたいだった。

 まばたきをしない。


 口は、耳元まで裂けていた。


 笑っているようにも見えた。

 泣きながら歯を食いしばっているようにも見えた。


 体のあちこちが、不自然に膨らんでいた。


 皮膚の下に、何か小さく硬いものがいくつも埋まっているようだった。

 それが動くたびに、こつ、こつ、と内側でぶつかる音がした。


 黒いものが、首を傾けた。


 骨が鳴る。


 ぎし、と。


「お前」


 裂けた口が動いた。


「持ってる」


 レンは一歩下がった。


 靴の裏が、湿った地面を擦る。


「なんだよ……」


 黒いものが、レンを見た。


 大きすぎる目が、顔ではなく、制服、鞄、ポケット、手、靴を順番に見ていく。


「きれいな服」


「鞄」


「靴」


「あたたかい匂い」


 レンの喉が詰まった。


「持ってる」


 黒いものが言った。


「全部、持ってる」


 声が震えた。


 怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。


「うらやましい」


 一歩、近づく。


「うらやましい」


 長い指が、コンクリートを引っ掻いた。


「うらやましい」


 その声が、路地の壁に反響した。


 レンは走ろうとした。


 足が滑った。


 湿った地面に靴底を取られ、体が横に傾く。


 その時、知らない男の声が飛んだ。


「伏せろ!」


 考えるより先に、黒い影がレンの横を抜けた。


 犬だった。


 毛並みのない、影そのものみたいな黒い犬。


 首には古い金属の首輪がある。

 その首輪から伸びる黒い鎖は、地面ではなく、後ろに立つ男の影へ沈んでいた。


 黒い犬が、路地の奥へ飛ぶ。


 同時に、黒いものも跳んでいた。


 跳び方が、人間ではなかった。


 両腕を地面につき、背中を折り曲げ、四つ足の獣みたいに壁を蹴る。

 細い体が、信じられない速さでこちらへ迫る。


 黒い犬が、その肩に噛みついた。


 牙が沈む。


 怪物の体が壁に叩きつけられる。


 レンは遅れてしゃがみ込んだ。


 黒い爪が、さっきまでレンの喉があった場所を通り抜ける。


 壁のコンクリートが削れた。


 白い粉が散る。


「逃げろ」


 黒いスーツの男が、レンと怪物の間に立っていた。


 細いネクタイ。

 乱れていない髪。

 二十歳を少し過ぎたくらいに見える。


 男はこちらを振り向かなかった。


「今すぐだ」


 声は低かった。


 冷静だった。


 でも、余裕があるわけではなかった。


 レンは立ち上がろうとした。


 足が震えている。


 膝に力が入らない。


 男は怪物へ踏み込んだ。


 黒い犬が肩を噛み、男が反対側から腕を押さえる。


 男は腰の刀に手を伸ばした。


 鞘から少しだけ刃が覗く。


 そのまま怪物の膝へ、鞘ごと叩き込んだ。


 乾いた音がした。


 脚が、不自然な角度で折れる。


 それでも、怪物は倒れなかった。


「うらやましい」


 怪物が言った。


 黒い犬がさらに噛み込む。


 男が短く命じる。


「離すな」


 首輪から伸びた黒い鎖が、影の中を走った。


 地面の影が伸びる。


 怪物の足元に絡みつく。


 男は怪物の背中へ回り、首を押さえ込む。


 怪物の骨が、ぎしぎしと鳴った。


 人間なら、もう動けない。


 でも、怪物は止まらなかった。


 怪物は、自分の肩を見た。


 犬に噛まれている肩。


 次の瞬間、自分の腕を歯で噛み千切った。


 ぶち、と湿った音がした。


 レンの喉が詰まる。


 怪物は千切れた腕を捨てると、鎖から抜けた。


 痛がる様子はなかった。


 ただ、レンだけを見ていた。


「うらやましい」


 怪物が地面を這った。


 速い。


 男が前に出る。


 黒い犬も追う。


 男は怪物の横腹を蹴った。


 怪物の体が壁に当たる。


 だが、怪物は壁を蹴った。


 狭い路地の右壁から左壁へ、虫みたいに跳ねる。


 目で追えない。


 レンは後ずさった。


 背中が壁に当たった。


 逃げ場がない。


 怪物の裂けた口が、目の前に来た。


「うらやましい」


 左肩に、熱い痛みが走った。


 噛まれた。


 制服ごと、肉を持っていかれた。


「ああああっ!」


 レンの声が、路地に反響した。


 痛い。


 熱い。


 何かが体から剥がれた。


 そう思った次の瞬間、右の脇腹に爪が入った。


 息が止まる。


 レンの体は壁に叩きつけられた。


 右頬がコンクリートにぶつかる。


 口の中に、血の味が広がった。


 怪物の顔が目の前にある。


 大きすぎる目が、レンを見ていた。


「うらやましい」


 怪物の爪が、もう一度右脇腹に食い込む。


 レンの喉から、声にならない音が漏れた。


 体が折れたみたいだった。


 右手をついて逃げようとする。


 その甲を、怪物の爪が掠めた。


 熱い線が走る。


 膝が地面に擦れた。


 湿ったコンクリートに、血が混じる。


 黒い怪物は、何度もレンへ覆いかぶさった。


 食うというより、奪うように。


 制服を裂く。

 鞄の紐を引き裂く。

 肩に歯を立てる。

 脇腹を抉る。


 怪物の口元が、レンの血で濡れていく。


 レンは地面に倒れた。


 湿ったコンクリートに頬がぶつかる。


 血の匂いがした。

 排水溝の腐った匂いと混ざった。


 死ぬ。


 直感でわかった。


 俺は、もうすぐ死ぬ。


 頭が妙に冷えていた。


 死ぬ時って、こんなものなのか。


 もっと怖いと思っていた。

 もっと泣き叫ぶものだと思っていた。

 でも、実際には、体のどこが痛いのかもよくわからない。


 音が遠い。


 視界の端が暗い。


 路地の上に、細く切られた空が見えた。


 青かった。


 こんなに青かったのか、と思った。


 母ちゃんのカレー、もっと食いたかったな。


 甘口になってたら嫌だな。

 中辛がよかったな。

 父さんの変なスタンプ、また来るんだろうな。

 妹、俺が帰らなかったら何て言うんだろうな。


 誰かと付き合ったこともない。


 大人にもなってない。


 何もしてない。


 っていうか。


 巨乳のねーちゃんのおっぱいだって、一度も揉んでねえのに。


 なんで俺が、こんなところで。


 嫌だ。


 嫌だ。


 死にたくない。


 死にたくない。


 死にたくない。


「離れろ!」


 男が叫んだ。


 黒い犬が、怪物の背中に噛みつく。


 男が怪物の腕を掴む。


「噛め!」


 犬がさらに牙を立てた。


 怪物が暴れる。


 犬の脇腹が裂ける。


 同時に、男の横腹から血が流れた。


 それでも、男は手を離さなかった。


「意識を落とすな!」


 レンにはもう、ほとんど聞こえていなかった。


 怪物の顔が、レンの首元へ近づく。


 意識が、白く飛びかけた。


 その時。


 腹の奥で、何かが鳴った。


 ぐう。


 レンの口が、勝手に開いた。


 目の前に、怪物の首があった。


 黒くただれた皮膚。


 食べたくない。


 気持ち悪い。


 こんなもの、食べたくない。


 なのに、喉の奥が鳴った。


 レンは怪物に噛みついた。


 歯が、黒い皮膚に沈む。


 肉ではなかった。


 どろりとしたものが口の中に流れ込んでくる。


 まずい。


 苦い。


 甘い。


 熱い。


 気持ち悪い。


 吐きたい。


 けれど、乾いていた喉が、それを飲み込んだ。


 空っぽだった腹に、黒いものが落ちていく。


 嫌なのに。


 体が、それを求めていた。


 もう一度、噛んだ。


 怪物が震えた。


「やめろ」


「やめろ」


「やめろ」


 レンは聞いていなかった。


 噛む。


 飲む。


 喰らう。


 怪物の体が崩れていく。


 黒い皮膚が煙のようにほどける。

 長い腕が消える。

 膨らんでいた皮膚の下から、硬いものが地面に落ちる。


 こつ。


 こつ。


 それが何なのか、レンにはもう見えなかった。


 レンの頭の中に、知らない景色が流れ込む。


 狭い部屋。

 ひとり分の食卓。

 通知の来ないスマホ。

 暗い玄関。

 誰にも呼ばれない名前。

 閉まったままのカーテン。


 誰かの人生。


 誰かの嫉妬。


 誰かの劣等感。


 誰かの恨み。


 お前だけ。


 お前だけ。


 お前だけ。


 その声ごと、奥へ落ちていく。


 最後に、怪物の大きな目だけが残った。


 それがレンを見た。


「うらやましい」


 声は、そこでかすれた。


 黒い皮膚がほどける。

 長い腕が崩れる。

 大きすぎる目が、煙のように薄くなる。


 湿った地面に、黒い染みだけが残った。


 路地が静かになった。


 レンは倒れたまま、動かなかった。


 血が、制服の下からゆっくり広がっていく。


「おい」


 男が近づいた。


 刀を下げたまま、レンの顔を覗き込む。


「聞こえるか」


 返事はない。


 レンのまぶたは半分開いていた。


 瞳は動かない。


 男が息を呑む。


 その時、レンの指が動いた。


 一本。


 また一本。


 折れた虫の脚みたいに、地面を掻いた。


 男が一歩下がる。


 レンの肩が跳ねた。


 血まみれの体が、ゆっくり起き上がる。


 首が、がくん、と横へ倒れた。


 口元から血が垂れている。


 なのに、笑っていた。


 レンの顔で。


 黒く濁った目で。


「たりない」


 喉から声が漏れた。


 低い声。

 高い声。

 かすれた声。

 泣いているような声。


 何人分もの声が、ひとつの喉から出ていた。


「たりない」


「たりない」


「たりない」


 男の指が、腰の刀にかかった。


 さっきまで浅く上下していた呼吸が、止まる。


 黒い犬が、男の足元で低く身を沈めた。


「止まれ」


 男が言った。


 レンは首を傾けた。


 ぎし、と骨が鳴る。


 笑い声が漏れた。


「ひ、ひひ」


「いいなあ」


「震えてる」


「うまそうだなあ」


 男は刀を抜いた。


 鞘から刃が滑る音が、路地に細く響いた。


 奥歯が、小さく鳴った。


 刀を握る指が白くなる。


 それでも、刃先は下がらなかった。


「……処分する」


 黒い犬が飛ぶ。


 レンの体は避けなかった。


 犬の牙が腕に食い込む。


 それでも、倒れない。


 レンの手が、犬の首へ伸びる。


 掴む。


 喰おうとする。


 男が踏み込んだ。


 刀が横に走る。


 刃はレンの首を狙っていた。


 黒い犬がレンの腕を引きずり、刃の軌道がわずかにずれる。


 刀は首を外れ、右頬をかすめた。


 熱い線が走る。


 血が散る。


 それでも、レンの体は止まらなかった。


「ひ、ひひひ」


 路地の入口で、悲鳴がした。


 会社帰りらしい女が、買い物袋を落として立ちすくんでいた。


 レンの首が、ゆっくりそちらへ向く。


 黒い犬を掴んでいた手が離れる。


 血まみれの指が、女へ伸びた。


「逃げろ!」


 男が叫んだ。


 女は動けなかった。


 膝が抜けたように、その場に座り込む。


 レンの体が、女へ向かって踏み出した。


 男が前に割り込む。


 刀を横に構え、レンの胸を押し返す。


 黒い犬が足に噛みつく。


 それでも、レンの体は少しずつ前へ進む。


「くそ……!」


 男の額に汗が滲んだ。


 その時だった。


 コツ、と靴音がした。


 コツ。


 コツ。


 路地の入口に、女が立っていた。


 神楽かぐらミナト。


 赤みを帯びた長い髪を、後ろでゆるくまとめている。

 黒いスーツ。

 白いシャツ。

 白い肌。

 淡い色の目。


 ミナトは、座り込んだ通行人を一度見た。


 次に、血まみれのレンを見る。


 最後に、刀を構えた男を見た。


「ソウマ」


 やわらかい声だった。


 でも、呼ばれた男の肩がわずかに強張った。


「状況は?」


 男はレンから目を離さずに答えた。


「野良個体を追っていました。被害者は一般人です」


「続けて」


「野良に食い千切られた後、逆に喰いました。直後に暴走。制止不能です」


 レンの体が、ミナトの方を向いた。


 口元が裂けるように上がる。


 ソウマは刀を握り直した。


「この場で斬ります」


 ミナトはレンを見た。


 淡い目が、血まみれの顔を静かに追う。


 レンの体が跳ねた。


 黒い犬が吠える。


「ミナトさん、下がってください!」


 レンの腕が伸びる。


 ミナトの喉へ。


 ミナトは動かなかった。


 白いシャツが、レンの目に入った。


 黒いスーツ。


 細い腰。


 赤みを帯びた髪。


 淡い色の目。


 それから、胸元。


 白いシャツの布が、呼吸に合わせてわずかに動いた。


 喰え。


 頭の奥で、黒い声がした。


 違う。


 レンの指が止まった。


「きょ……」


 喉が、ひゅう、と鳴る。


「……にゅう」


 ミナトが、レンを見ていた。


 レンは口を開いた。


「巨乳の……ねーちゃん……」


 黒い笑い声が止まった。


 レンの目に、少しだけ光が戻る。


「おっぱい……」


 その直後、体が崩れた。


 膝が折れる。


 伸ばしていた手が落ちる。


 レンは、血の上に倒れた。


 ソウマは一瞬だけ固まった。


 刀を握る指に力が入る。


 唇が、かすかに歪んだ。


 けれど刃は下がらなかった。


「処分します」


 倒れたレンの首へ、刃が落ちる。


「待って」


 ミナトの声がした。


 刀が止まった。


 刃は、レンの首筋のすぐ上にあった。


 ミナトはしゃがんだ。


 白いシャツの袖口が、血だまりの近くまで下りる。


 それでも眉ひとつ動かさなかった。


 レンの顔を覗き込む。


 淡い目が、まぶたの震えと、浅い呼吸を確かめる。


「この子は回収します。処分は、私が判断します」


 ソウマがミナトを見る。


「危険です」


「ええ」


 ミナトはレンから目を離さなかった。


「さっき、人を襲おうとしました」


「見ていました」


「次は止められる保証がありません」


「それでも連れて帰ります」


 ミナトは立ち上がった。


 声は変わらない。


 やわらかいまま。


 けれど、そこで話は終わっていた。


「これは命令です」


 ソウマの刀の切っ先が、わずかに下がった。


 視線だけは、血だまりの中のレンから離れなかった。

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