退屈な日常
七十二時間前。
教室は、少しだけ暑かった。
冷房を入れるほどではない。
けれど、窓を閉めたままだと、制服の内側に熱がこもる。
開け放たれた窓から、グラウンドの声が入ってきていた。
笛の音。
走る足音。
誰かが名前を呼ぶ声。
カーテンがふくらんで、すぐにしぼむ。
黒板には、数学教師の書いた式が並んでいた。右へ行くほど字が荒くなって、最後の等号だけがやけに強く白かった。
灰崎レンは、配られたプリントの端を折っていた。
折る。
戻す。
また折る。
紙の角が、少しずつ柔らかくなっていく。
教師の声は、教室の前から後ろへ流れていく。
「ここ、次の小テストに出るからな」
誰かが小さくうめいた。
誰かが笑った。
レンも、少しだけ笑った。
笑ったあと、胸の奥に何かが残った。
小さな石みたいなものだった。
飲み込めない。
吐き出せない。
けれど、そこにある。
レンは、ふう、と息を吐いた。
ため息は出るのに、その石だけは動かなかった。
「灰崎」
教師に呼ばれた。
レンは顔を上げる。
「この続き、どうなる」
黒板を見る。
白い式が並んでいる。
レンは椅子を鳴らして立ち上がった。
「……すみません。わかりません」
教師は少しだけ黙った。
「じゃあ、もう一回説明する。ここ、ちゃんと見とけ」
「はい」
レンは座った。
教室の空気は、すぐに元に戻った。
チョークの音が続く。
誰かがノートをめくる。
誰かが小さくあくびをする。
シャーペンの芯が折れる音がする。
窓際のカーテンが、風で少しだけふくらむ。
レンは、さっき折ったプリントの端を指でなぞった。
また、ふう、と息が漏れた。
胸の奥の石は、まだそこにあった。
昼休みになると、教室は一気に騒がしくなった。
机を動かす音。
弁当箱のふたを開ける音。
コンビニ袋を破る音。
スマホの通知音。
「レン、購買行く?」
向かいの席の友達が言った。
「行く」
「何買うん」
「焼きそばパン残ってたら」
「あれ、すぐ売り切れるよな」
「三限終わった瞬間に走ってるやついるからな」
「あいつら本気すぎる」
「お前も走ればいいじゃん」
「そこまでして食べたいわけじゃない」
「じゃあ別のでいいじゃん」
「いや、あったら食べたい」
「めんどくさいな」
みんなが笑った。
レンも笑った。
笑いながら、机の上の消しゴムを親指で押した。
消しゴムが少し滑る。
戻す。
また押す。
友達の話は聞こえている。
くだらなくて、嫌いじゃない。
けれど、笑い声の中にいるのに、少しだけ遠くから眺めているような気がした。
「今日、英単語の小テストあったっけ」
別の友達が言った。
「ある」
「終わった」
「何もやってないん?」
「単語帳は開いた」
「覚えたとは言ってないな」
「開いたことが大事」
「点にはならんけどな」
友達が笑う。
レンも笑った。
教室の後ろでは、誰かが弁当の卵焼きを交換していた。
窓際では、スマホを見ながらイヤホンを片方だけつけているやつがいた。
廊下からは、誰かの大きな笑い声が入ってきた。
どこにでもある昼休みだった。
レンは紙パックのジュースを飲み干した。
空になったそれを、指で軽く潰す。
ぺこ、と音がした。
もう一度押す。
ぺこ。
もう一度。
ぺこ。
「何してんの」
「いや、なんとなく」
「捨てろよ」
「あとで」
そう言って、また押した。
放課後、スマホが震えた。
母ちゃんからだった。
『今日カレーにするけど、中辛でいい?』
レンは歩きながら返信した。
『中辛』
すぐに妹から来た。
『甘口』
続けて、もう一通。
『兄ちゃんは黙って甘口』
レンは少し笑った。
『俺の意見は?』
妹からすぐ返ってきた。
『ない』
さらに父から、犬が親指を立てているスタンプが送られてきた。
意味はわからない。
でも、父らしかった。
レンはスマホをポケットに入れた。
家族は、今日もいつも通りだった。
カレーの辛さで少し揉めて。
父の変なスタンプで終わる。
それだけで、家の空気がだいたいわかる。
レンは少しだけ笑った。
それから、また息を吐いた。
ふう。
胸の奥の石は、まだ出てこなかった。
駅前は人で混んでいた。
制服。
スーツ。
自転車。
信号待ちの列。
コンビニの前でだらだらしている中学生。
レンは信号の前で足を止めた。
青になった。
人が流れていく。
レンも一歩出ようとして、やめた。
帰ったらカレーがある。
風呂に入る。
スマホを見る。
朝になったら、また制服を着る。
頭の中で並べると、全部がきれいに決まっていた。
決まりすぎていて、息が抜けた。
ふう。
レンは、人の流れから外れた。
理由はなかった。
ただ、まっすぐ帰る気にならなかった。
ビルとビルの間に、細い路地がある。
普段なら通らない道だ。
古い室外機。
剥がれたポスター。
錆びた看板。
湿ったコンクリート。
排水溝から、水の腐った匂いがする。
少し奥を覗く。
昼なのに、そこだけ暗い。
行かなくてもいい。
むしろ、行かない方がいい。
レンはそう思った。
でも、足が半歩だけ前に出た。
何かあるのかな。
そんな軽い気持ちだった。
何か、ってなんだよ。
自分でそう思って、少し笑った。
その時だった。
「持ってる」
声がした。
レンは止まった。
路地の奥からだった。
擦れたような声だった。
男にも、女にも聞こえた。
大人にも、子どもにも聞こえた。
レンは目を凝らす。
奥に、黒いものがいた。
最初は、人がしゃがみ込んでいるのかと思った。
違った。
それは、ひどく痩せていた。
背骨が浮き上がり、肩甲骨が皮膚を破りそうなほど尖っている。
手足は異様に長く、指は膝の下まで垂れていた。
膝も肘も、人間とは違う向きに曲がっているように見えた。
皮膚は黒い。
ただ黒いだけではない。
焼け焦げたような黒。
腐った果物の皮みたいに、ところどころ湿って光っている黒だった。
顔は、人間に少し似ていた。
だからこそ、気持ち悪かった。
目が大きすぎる。
顔の半分ほどもある目が二つ、ぎょろりとこちらを見ている。
白目はなく、濁ったガラス玉みたいだった。
まばたきをしない。
口は、耳元まで裂けていた。
笑っているようにも見えた。
泣きながら歯を食いしばっているようにも見えた。
体のあちこちが、不自然に膨らんでいた。
皮膚の下に、何か小さく硬いものがいくつも埋まっているようだった。
それが動くたびに、こつ、こつ、と内側でぶつかる音がした。
黒いものが、首を傾けた。
骨が鳴る。
ぎし、と。
「お前」
裂けた口が動いた。
「持ってる」
レンは一歩下がった。
靴の裏が、湿った地面を擦る。
「なんだよ……」
黒いものが、レンを見た。
大きすぎる目が、顔ではなく、制服、鞄、ポケット、手、靴を順番に見ていく。
「きれいな服」
「鞄」
「靴」
「あたたかい匂い」
レンの喉が詰まった。
「持ってる」
黒いものが言った。
「全部、持ってる」
声が震えた。
怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
「うらやましい」
一歩、近づく。
「うらやましい」
長い指が、コンクリートを引っ掻いた。
「うらやましい」
その声が、路地の壁に反響した。
レンは走ろうとした。
足が滑った。
湿った地面に靴底を取られ、体が横に傾く。
その時、知らない男の声が飛んだ。
「伏せろ!」
考えるより先に、黒い影がレンの横を抜けた。
犬だった。
毛並みのない、影そのものみたいな黒い犬。
首には古い金属の首輪がある。
その首輪から伸びる黒い鎖は、地面ではなく、後ろに立つ男の影へ沈んでいた。
黒い犬が、路地の奥へ飛ぶ。
同時に、黒いものも跳んでいた。
跳び方が、人間ではなかった。
両腕を地面につき、背中を折り曲げ、四つ足の獣みたいに壁を蹴る。
細い体が、信じられない速さでこちらへ迫る。
黒い犬が、その肩に噛みついた。
牙が沈む。
怪物の体が壁に叩きつけられる。
レンは遅れてしゃがみ込んだ。
黒い爪が、さっきまでレンの喉があった場所を通り抜ける。
壁のコンクリートが削れた。
白い粉が散る。
「逃げろ」
黒いスーツの男が、レンと怪物の間に立っていた。
細いネクタイ。
乱れていない髪。
二十歳を少し過ぎたくらいに見える。
男はこちらを振り向かなかった。
「今すぐだ」
声は低かった。
冷静だった。
でも、余裕があるわけではなかった。
レンは立ち上がろうとした。
足が震えている。
膝に力が入らない。
男は怪物へ踏み込んだ。
黒い犬が肩を噛み、男が反対側から腕を押さえる。
男は腰の刀に手を伸ばした。
鞘から少しだけ刃が覗く。
そのまま怪物の膝へ、鞘ごと叩き込んだ。
乾いた音がした。
脚が、不自然な角度で折れる。
それでも、怪物は倒れなかった。
「うらやましい」
怪物が言った。
黒い犬がさらに噛み込む。
男が短く命じる。
「離すな」
首輪から伸びた黒い鎖が、影の中を走った。
地面の影が伸びる。
怪物の足元に絡みつく。
男は怪物の背中へ回り、首を押さえ込む。
怪物の骨が、ぎしぎしと鳴った。
人間なら、もう動けない。
でも、怪物は止まらなかった。
怪物は、自分の肩を見た。
犬に噛まれている肩。
次の瞬間、自分の腕を歯で噛み千切った。
ぶち、と湿った音がした。
レンの喉が詰まる。
怪物は千切れた腕を捨てると、鎖から抜けた。
痛がる様子はなかった。
ただ、レンだけを見ていた。
「うらやましい」
怪物が地面を這った。
速い。
男が前に出る。
黒い犬も追う。
男は怪物の横腹を蹴った。
怪物の体が壁に当たる。
だが、怪物は壁を蹴った。
狭い路地の右壁から左壁へ、虫みたいに跳ねる。
目で追えない。
レンは後ずさった。
背中が壁に当たった。
逃げ場がない。
怪物の裂けた口が、目の前に来た。
「うらやましい」
左肩に、熱い痛みが走った。
噛まれた。
制服ごと、肉を持っていかれた。
「ああああっ!」
レンの声が、路地に反響した。
痛い。
熱い。
何かが体から剥がれた。
そう思った次の瞬間、右の脇腹に爪が入った。
息が止まる。
レンの体は壁に叩きつけられた。
右頬がコンクリートにぶつかる。
口の中に、血の味が広がった。
怪物の顔が目の前にある。
大きすぎる目が、レンを見ていた。
「うらやましい」
怪物の爪が、もう一度右脇腹に食い込む。
レンの喉から、声にならない音が漏れた。
体が折れたみたいだった。
右手をついて逃げようとする。
その甲を、怪物の爪が掠めた。
熱い線が走る。
膝が地面に擦れた。
湿ったコンクリートに、血が混じる。
黒い怪物は、何度もレンへ覆いかぶさった。
食うというより、奪うように。
制服を裂く。
鞄の紐を引き裂く。
肩に歯を立てる。
脇腹を抉る。
怪物の口元が、レンの血で濡れていく。
レンは地面に倒れた。
湿ったコンクリートに頬がぶつかる。
血の匂いがした。
排水溝の腐った匂いと混ざった。
死ぬ。
直感でわかった。
俺は、もうすぐ死ぬ。
頭が妙に冷えていた。
死ぬ時って、こんなものなのか。
もっと怖いと思っていた。
もっと泣き叫ぶものだと思っていた。
でも、実際には、体のどこが痛いのかもよくわからない。
音が遠い。
視界の端が暗い。
路地の上に、細く切られた空が見えた。
青かった。
こんなに青かったのか、と思った。
母ちゃんのカレー、もっと食いたかったな。
甘口になってたら嫌だな。
中辛がよかったな。
父さんの変なスタンプ、また来るんだろうな。
妹、俺が帰らなかったら何て言うんだろうな。
誰かと付き合ったこともない。
大人にもなってない。
何もしてない。
っていうか。
巨乳のねーちゃんのおっぱいだって、一度も揉んでねえのに。
なんで俺が、こんなところで。
嫌だ。
嫌だ。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
「離れろ!」
男が叫んだ。
黒い犬が、怪物の背中に噛みつく。
男が怪物の腕を掴む。
「噛め!」
犬がさらに牙を立てた。
怪物が暴れる。
犬の脇腹が裂ける。
同時に、男の横腹から血が流れた。
それでも、男は手を離さなかった。
「意識を落とすな!」
レンにはもう、ほとんど聞こえていなかった。
怪物の顔が、レンの首元へ近づく。
意識が、白く飛びかけた。
その時。
腹の奥で、何かが鳴った。
ぐう。
レンの口が、勝手に開いた。
目の前に、怪物の首があった。
黒くただれた皮膚。
食べたくない。
気持ち悪い。
こんなもの、食べたくない。
なのに、喉の奥が鳴った。
レンは怪物に噛みついた。
歯が、黒い皮膚に沈む。
肉ではなかった。
どろりとしたものが口の中に流れ込んでくる。
まずい。
苦い。
甘い。
熱い。
気持ち悪い。
吐きたい。
けれど、乾いていた喉が、それを飲み込んだ。
空っぽだった腹に、黒いものが落ちていく。
嫌なのに。
体が、それを求めていた。
もう一度、噛んだ。
怪物が震えた。
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
レンは聞いていなかった。
噛む。
飲む。
喰らう。
怪物の体が崩れていく。
黒い皮膚が煙のようにほどける。
長い腕が消える。
膨らんでいた皮膚の下から、硬いものが地面に落ちる。
こつ。
こつ。
それが何なのか、レンにはもう見えなかった。
レンの頭の中に、知らない景色が流れ込む。
狭い部屋。
ひとり分の食卓。
通知の来ないスマホ。
暗い玄関。
誰にも呼ばれない名前。
閉まったままのカーテン。
誰かの人生。
誰かの嫉妬。
誰かの劣等感。
誰かの恨み。
お前だけ。
お前だけ。
お前だけ。
その声ごと、奥へ落ちていく。
最後に、怪物の大きな目だけが残った。
それがレンを見た。
「うらやましい」
声は、そこでかすれた。
黒い皮膚がほどける。
長い腕が崩れる。
大きすぎる目が、煙のように薄くなる。
湿った地面に、黒い染みだけが残った。
路地が静かになった。
レンは倒れたまま、動かなかった。
血が、制服の下からゆっくり広がっていく。
「おい」
男が近づいた。
刀を下げたまま、レンの顔を覗き込む。
「聞こえるか」
返事はない。
レンのまぶたは半分開いていた。
瞳は動かない。
男が息を呑む。
その時、レンの指が動いた。
一本。
また一本。
折れた虫の脚みたいに、地面を掻いた。
男が一歩下がる。
レンの肩が跳ねた。
血まみれの体が、ゆっくり起き上がる。
首が、がくん、と横へ倒れた。
口元から血が垂れている。
なのに、笑っていた。
レンの顔で。
黒く濁った目で。
「たりない」
喉から声が漏れた。
低い声。
高い声。
かすれた声。
泣いているような声。
何人分もの声が、ひとつの喉から出ていた。
「たりない」
「たりない」
「たりない」
男の指が、腰の刀にかかった。
さっきまで浅く上下していた呼吸が、止まる。
黒い犬が、男の足元で低く身を沈めた。
「止まれ」
男が言った。
レンは首を傾けた。
ぎし、と骨が鳴る。
笑い声が漏れた。
「ひ、ひひ」
「いいなあ」
「震えてる」
「うまそうだなあ」
男は刀を抜いた。
鞘から刃が滑る音が、路地に細く響いた。
奥歯が、小さく鳴った。
刀を握る指が白くなる。
それでも、刃先は下がらなかった。
「……処分する」
黒い犬が飛ぶ。
レンの体は避けなかった。
犬の牙が腕に食い込む。
それでも、倒れない。
レンの手が、犬の首へ伸びる。
掴む。
喰おうとする。
男が踏み込んだ。
刀が横に走る。
刃はレンの首を狙っていた。
黒い犬がレンの腕を引きずり、刃の軌道がわずかにずれる。
刀は首を外れ、右頬をかすめた。
熱い線が走る。
血が散る。
それでも、レンの体は止まらなかった。
「ひ、ひひひ」
路地の入口で、悲鳴がした。
会社帰りらしい女が、買い物袋を落として立ちすくんでいた。
レンの首が、ゆっくりそちらへ向く。
黒い犬を掴んでいた手が離れる。
血まみれの指が、女へ伸びた。
「逃げろ!」
男が叫んだ。
女は動けなかった。
膝が抜けたように、その場に座り込む。
レンの体が、女へ向かって踏み出した。
男が前に割り込む。
刀を横に構え、レンの胸を押し返す。
黒い犬が足に噛みつく。
それでも、レンの体は少しずつ前へ進む。
「くそ……!」
男の額に汗が滲んだ。
その時だった。
コツ、と靴音がした。
コツ。
コツ。
路地の入口に、女が立っていた。
神楽ミナト。
赤みを帯びた長い髪を、後ろでゆるくまとめている。
黒いスーツ。
白いシャツ。
白い肌。
淡い色の目。
ミナトは、座り込んだ通行人を一度見た。
次に、血まみれのレンを見る。
最後に、刀を構えた男を見た。
「ソウマ」
やわらかい声だった。
でも、呼ばれた男の肩がわずかに強張った。
「状況は?」
男はレンから目を離さずに答えた。
「野良個体を追っていました。被害者は一般人です」
「続けて」
「野良に食い千切られた後、逆に喰いました。直後に暴走。制止不能です」
レンの体が、ミナトの方を向いた。
口元が裂けるように上がる。
ソウマは刀を握り直した。
「この場で斬ります」
ミナトはレンを見た。
淡い目が、血まみれの顔を静かに追う。
レンの体が跳ねた。
黒い犬が吠える。
「ミナトさん、下がってください!」
レンの腕が伸びる。
ミナトの喉へ。
ミナトは動かなかった。
白いシャツが、レンの目に入った。
黒いスーツ。
細い腰。
赤みを帯びた髪。
淡い色の目。
それから、胸元。
白いシャツの布が、呼吸に合わせてわずかに動いた。
喰え。
頭の奥で、黒い声がした。
違う。
レンの指が止まった。
「きょ……」
喉が、ひゅう、と鳴る。
「……にゅう」
ミナトが、レンを見ていた。
レンは口を開いた。
「巨乳の……ねーちゃん……」
黒い笑い声が止まった。
レンの目に、少しだけ光が戻る。
「おっぱい……」
その直後、体が崩れた。
膝が折れる。
伸ばしていた手が落ちる。
レンは、血の上に倒れた。
ソウマは一瞬だけ固まった。
刀を握る指に力が入る。
唇が、かすかに歪んだ。
けれど刃は下がらなかった。
「処分します」
倒れたレンの首へ、刃が落ちる。
「待って」
ミナトの声がした。
刀が止まった。
刃は、レンの首筋のすぐ上にあった。
ミナトはしゃがんだ。
白いシャツの袖口が、血だまりの近くまで下りる。
それでも眉ひとつ動かさなかった。
レンの顔を覗き込む。
淡い目が、まぶたの震えと、浅い呼吸を確かめる。
「この子は回収します。処分は、私が判断します」
ソウマがミナトを見る。
「危険です」
「ええ」
ミナトはレンから目を離さなかった。
「さっき、人を襲おうとしました」
「見ていました」
「次は止められる保証がありません」
「それでも連れて帰ります」
ミナトは立ち上がった。
声は変わらない。
やわらかいまま。
けれど、そこで話は終わっていた。
「これは命令です」
ソウマの刀の切っ先が、わずかに下がった。
視線だけは、血だまりの中のレンから離れなかった。




