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エモーション・イーター  作者: 磯辺


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1/4

君を殺しに来た

最初にわかったのは、手首が動かないことだった。


 金属が鳴った。


 両手首と両足首に手錠がかけられている。


 背中は硬い椅子に押しつけられている。胸と腹には太いベルトが回されていて、体を前に倒すこともできなかった。


 視界は真っ暗だ。


 布のようなものが、目の上にきつく巻かれている。


 息を吸う。


 そのたびに、右の脇腹が痛んだ。


 深く吸うと、肋骨の奥に鈍い痛みが走る。

 左肩は熱を持っていて、少し力を入れただけで痺れた。

 右頬は腫れている。口を開けようとすると、頬の内側に血の味がした。

 膝の皮膚は擦れている。

 手首は手錠の内側で擦れて、動かすたびに焼けるように痛んだ。


 何があったのかは、わからない。


 思い出そうとしても、頭の奥に白い膜が張っている。


 声を出そうとした。


 喉が引っかかった。


 乾いている。


 音にならない息だけが漏れた。


「こんにちは、灰崎レンくん」


 女の声がした。


 正面。


 抑揚のないやわらかい声だった。


 しかし、そのやわらかさにどこか怖さを感じた。


 俺は答えようとした。


 けれど、喉が動かない。


「いきなりこんな状態だと、びっくりするよね」


 靴音が近づいた。


 一歩。


 また一歩。


 正面から、まっすぐ近づいてくる。


 俺は反射的に手首を引いた。


 手錠が鳴る。


「ミナトさん、危ないですよ」


 男の声がした。


 右側。


 女は足を止めなかった。


「まだ捕食反応が残っている可能性があります。距離を取ってください」


「大丈夫」


 女は言った。


 男の声には警戒があった。

 けれど女の声には、警戒も、緊張もなかった。


 目の前にいる俺が危険かどうかなんて、最初から問題にしていないみたいだった。


 布に指がかかる。


「目隠し、外すね」


 次の瞬間、視界に光が入った。


 白い光が目に刺さる。


 俺は反射的に顔を背けた。拘束された体はほとんど動かない。


 最初は、何も見えなかった。


 ただ、白い。

 白い光の塊だけが、目の前で滲んでいる。

 涙が勝手に浮かんだ。

 まぶたを閉じても、まぶたの裏まで白かった。


 何度か瞬きをする。


 ぼやけた輪郭が、ゆっくり形を持ちはじめる。


 白い壁。

 床に固定された椅子。

 自分の手首につながる手錠。

 右手の甲に巻かれた包帯。

 監視カメラ。


 右側には、若い男が立っていた。


 黒いスーツに、細いネクタイ。

 髪も服も乱れていない。

 二十歳を少し過ぎたくらいに見える。


 男はこちらではなく、女を見ていた。


 止めたいのに、止められない。

 そんな顔だった。


 そして、目の前の女。


 美人だった。


 赤みを帯びた長い髪を、後ろでゆるくまとめている。

 前髪の隙間から、淡い色の目がこちらを見ていた。

 白い肌。

 整いすぎているほどの顔。

 黒いスーツ。

 白いシャツ。

 細い腰。


 最初に頭に浮かんだのは、好き、だった。


 喉はまだ乾いている。

 脇腹も痛い。

 自分が何をしたのかもわからない。


 なのに、俺は彼女の目元ばかり見ていた。


 綺麗だと思った。


 優しそうにも見えた。


 でも、その優しさが俺に向いているのか、そういう顔をしているだけなのかはわからなかった。


 女は、俺の顔を覗き込むように少しだけ身をかがめた。


「君が、どうしてここにいるか覚えてる?」


 俺は喉を動かした。


 声は出なかった。


 昨晩。


 何があった。


 学校に行った。

 授業を受けた。

 放課後、帰ろうとした。


 そこから先がない。


 思い出そうとすると、頭の奥が白く濁る。


 俺は小さく首を振った。


 女は少しだけ頷いた。


「そっか」


 責めるでもなく、慰めるでもなく。


 ただ、そう確認した。


 女は少し考えるように、俺を見た。


 それから言った。


「そうだ、自己紹介がまだだったね」


 女は、変わらない声で続ける。


「私は警視庁感情災害対策特別課・課長の神楽ミナト」


 神楽ミナト。


 その名前を、俺は知らなかった。


 けれど、なぜか一度聞いただけで忘れない気がした。


 ミナトは俺の目を見る。


 優しい目だった。


 それなのに、何も映していない目だった。


「灰崎レンくん」


 名前を呼ばれる。


 俺は何も返せなかった。


 ミナトは静かに言った。


「君を殺しに来た」

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