君を殺しに来た
最初にわかったのは、手首が動かないことだった。
金属が鳴った。
両手首と両足首に手錠がかけられている。
背中は硬い椅子に押しつけられている。胸と腹には太いベルトが回されていて、体を前に倒すこともできなかった。
視界は真っ暗だ。
布のようなものが、目の上にきつく巻かれている。
息を吸う。
そのたびに、右の脇腹が痛んだ。
深く吸うと、肋骨の奥に鈍い痛みが走る。
左肩は熱を持っていて、少し力を入れただけで痺れた。
右頬は腫れている。口を開けようとすると、頬の内側に血の味がした。
膝の皮膚は擦れている。
手首は手錠の内側で擦れて、動かすたびに焼けるように痛んだ。
何があったのかは、わからない。
思い出そうとしても、頭の奥に白い膜が張っている。
声を出そうとした。
喉が引っかかった。
乾いている。
音にならない息だけが漏れた。
「こんにちは、灰崎レンくん」
女の声がした。
正面。
抑揚のないやわらかい声だった。
しかし、そのやわらかさにどこか怖さを感じた。
俺は答えようとした。
けれど、喉が動かない。
「いきなりこんな状態だと、びっくりするよね」
靴音が近づいた。
一歩。
また一歩。
正面から、まっすぐ近づいてくる。
俺は反射的に手首を引いた。
手錠が鳴る。
「ミナトさん、危ないですよ」
男の声がした。
右側。
女は足を止めなかった。
「まだ捕食反応が残っている可能性があります。距離を取ってください」
「大丈夫」
女は言った。
男の声には警戒があった。
けれど女の声には、警戒も、緊張もなかった。
目の前にいる俺が危険かどうかなんて、最初から問題にしていないみたいだった。
布に指がかかる。
「目隠し、外すね」
次の瞬間、視界に光が入った。
白い光が目に刺さる。
俺は反射的に顔を背けた。拘束された体はほとんど動かない。
最初は、何も見えなかった。
ただ、白い。
白い光の塊だけが、目の前で滲んでいる。
涙が勝手に浮かんだ。
まぶたを閉じても、まぶたの裏まで白かった。
何度か瞬きをする。
ぼやけた輪郭が、ゆっくり形を持ちはじめる。
白い壁。
床に固定された椅子。
自分の手首につながる手錠。
右手の甲に巻かれた包帯。
監視カメラ。
右側には、若い男が立っていた。
黒いスーツに、細いネクタイ。
髪も服も乱れていない。
二十歳を少し過ぎたくらいに見える。
男はこちらではなく、女を見ていた。
止めたいのに、止められない。
そんな顔だった。
そして、目の前の女。
美人だった。
赤みを帯びた長い髪を、後ろでゆるくまとめている。
前髪の隙間から、淡い色の目がこちらを見ていた。
白い肌。
整いすぎているほどの顔。
黒いスーツ。
白いシャツ。
細い腰。
最初に頭に浮かんだのは、好き、だった。
喉はまだ乾いている。
脇腹も痛い。
自分が何をしたのかもわからない。
なのに、俺は彼女の目元ばかり見ていた。
綺麗だと思った。
優しそうにも見えた。
でも、その優しさが俺に向いているのか、そういう顔をしているだけなのかはわからなかった。
女は、俺の顔を覗き込むように少しだけ身をかがめた。
「君が、どうしてここにいるか覚えてる?」
俺は喉を動かした。
声は出なかった。
昨晩。
何があった。
学校に行った。
授業を受けた。
放課後、帰ろうとした。
そこから先がない。
思い出そうとすると、頭の奥が白く濁る。
俺は小さく首を振った。
女は少しだけ頷いた。
「そっか」
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そう確認した。
女は少し考えるように、俺を見た。
それから言った。
「そうだ、自己紹介がまだだったね」
女は、変わらない声で続ける。
「私は警視庁感情災害対策特別課・課長の神楽ミナト」
神楽ミナト。
その名前を、俺は知らなかった。
けれど、なぜか一度聞いただけで忘れない気がした。
ミナトは俺の目を見る。
優しい目だった。
それなのに、何も映していない目だった。
「灰崎レンくん」
名前を呼ばれる。
俺は何も返せなかった。
ミナトは静かに言った。
「君を殺しに来た」




