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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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9/15

消えた一冊


8月初旬。30年前のカセットテープから「待て!」と「返して!」という2つの声が見つかってから数日が過ぎていた。捜査本部では、音声解析の結果と現場検証を照らし合わせながら、新たな事実の整理が続いていた。少年は追われていて、井戸の陰へ身を隠した可能性が高い。しかし、その後に何が起きたのかは、依然として分からない。誰もが次の一手を探していた、その朝だった。




受付係の女性刑事が、小さく息をついた。


「…またです」


白い封筒、差出人なし、宛名なし、指紋なし。これまでと同じ封筒が、静かに警察署へ届けられていた。昆陽は無言で受け取り、鑑識による確認を終えたあと、封を切る。中には、1枚の白い紙。黒い文字が、簡潔に印字されていた。


『読まれなかった本が、一冊ある』


それだけだった。昆陽は紙を机へ置き、腕を組む。


「また『本』か……」


第3のメッセージ『本は最後の一頁から読んではいけない』。それ以来、犯人はたびたび「本」という言葉を使ってきた。しかし今回は、これまでとは明らかに違っていた。捜査に必要な資料の整理に来ていた池尻は、紙をじっと見つめている。やがて静かに口を開いた。


「今回は、比喩ではない気がします」


昆陽が視線を向ける。


「どういうことや」


池尻は慎重に言葉を選ぶ。


「これまでの『本』は、事件全体を本に例えた表現でした。読む順番、最後の一頁、どれも考え方の話です。でも今回は違います」


紙へ目を落とす。


『読まれなかった本が、一冊ある』


「“一冊”と数えています。もし事件そのものを意味するなら、『事件がある』とか『真実がある』という表現でもよかったはずです」


昆陽も紙を見返した。確かに、不自然なほど具体的だ。


「これは実在する本。あるいは、本の形をした資料。まだ誰にも読まれていないものが存在する。」


昆陽はその言葉を聞き、捜査資料へ目を落とした。


「…探す価値はあるな」





その日の午後、昆陽は捜査本部へ指示を出した。


「30年前の火災に関係する資料を全部洗い直す」


若い刑事が驚く。


「全部ですか」

「ああ。消防、警察、市役所、学校、図書館、保険会社、押収品、証拠品。残っとるもんは全部や」


捜査本部は慌ただしく動き始めた。古い事件簿、消防の出動記録、焼失建物一覧、被害届、保険金請求書、図書館への寄贈記録、焼失した店舗から回収された物品一覧。30年前の資料が次々と机へ積み上げられていく。昆陽は1冊ずつ目を通した。古い紙の匂いが部屋に広がる。だが、『読まれなかった本』に該当するものは見つからない。





一方、池尻は資料ではなく、『本』という言葉そのものについて考えていた。大学図書館。静かな閲覧室で、古書や出版史の本を開いている。『本』とは何か。冊子だけを指すのか。帳簿、日誌、アルバム、大学ノート、手帳。すべて『綴じられたもの』である。読書を重ねる中で池尻が学んできたことの1つは、『本』という言葉は、単に印刷物だけを意味しないということだった。人の記録もまた、1冊の本になり得る。


「もし犯人がそういう意味で使っているなら…」


池尻は独り言のように呟く。探すべきものは図書館の蔵書ではない。30年前から誰にも開かれていない『記録』なのかもしれない。





その頃、稲野は商店街で聞き込みを続けていた。今回のテーマは火災そのものではない。火災の『後』の出来事だった。古くから青果店を営む老婦人が、懐かしそうに話し始める。


「火事の後は大変やったわ。焼け残った物をみんなで分けたりしてな」


稲野は静かに頷く。


「引き取り手がなかった物はありましたか」


老婦人は少し考え込む。


「……そういや、何箱か残っとったな。誰も取りに来ん荷物が」


稲野は身を乗り出した。


「どこの店のですか」

「分からへ。焼けて、名前も読めへんかったし。市の人が持って行ったんや」


稲野は胸が高鳴るのを感じた。


「市役所ですか」

「せや。倉庫みたいな所へ運んどったと思う。」





その夜。稲野は急いで警察署へ向かい、昆陽と池尻へ聞き込みの内容を伝えた。


「誰も引き取らなかった荷物が、市へ運ばれたそうです」


昆陽の表情が変わる。


「保管されとる可能性があるんか」

「はい」

「何箱あったかは分からないそうですが、処分されたとは聞いていないそうです」


昆陽はすぐに市役所の保管記録を取り寄せるよう指示した。もし本当に荷物が残っているなら。その中には、まだ誰にも読まれていない記録が眠っているかもしれない。池尻は静かに第8通目のメッセージを見つめる。


『読まれなかった本が、一冊ある』


犯人は『本がある』とは書かなかった。『読まれなかった』と書いた。つまり、その本は存在していても、誰にも意味を理解されなかったのだ。だから30年間、眠り続けてきた。昆陽は窓の外へ視線を向け、小さく呟く。


「市の倉庫か…」


その一言に、捜査本部の空気が静かに変わる。30年間閉ざされていた扉が、ようやく開こうとしていた。




翌朝。昆陽、池尻、稲野の3人は、市役所の管理課職員に案内され、市が管理する保管倉庫を訪れていた。市街地から少し離れた古い倉庫は、長年使われなくなった備品や災害資料を保管するための建物だった。鉄製の扉がゆっくり開く。湿った空気と、古い紙の匂いが流れ出した。


「30年前の火災関係資料でしたら、この区画です」


職員が棚の一角を指さす。そこには色褪せた段ボール箱が十数箱、整然と積まれていた。側面には消えかかった文字で、


『昭和五十九年 サンロード火災 遺留品』


と記されている。昆陽は思わず息を吐いた。


「残っとったか……」


30年間、誰にも開けられることなく眠っていた箱だった。鑑識立ち会いのもと、1箱ずつ慎重に開封が始まる。中から現れたのは、焼け焦げた生活用品だった。溶けた時計、焦げた茶碗、黒く炭化した写真立て、焼けた文房具。そして何冊もの本。百科事典、家計簿、料理本、児童書、大学ノート。焼け跡から回収された本だけでも10冊以上あった。稲野は静かに呟く。


「こんなに残っていたんですね……」

「持ち主が分からない物や、引き取り手がいなかった物は、そのまま保管されたそうです」


市の職員が説明した。昆陽は本を1冊手に取る。表紙は炭化し、ページは熱で波打っている。どれも火災の激しさを物語っていた。池尻は本を読むように、1冊1冊を丁寧に観察していた。文字ではない。本そのものを見ている。表紙、紙の変色、焼け跡、煤の付き方。指先でページの硬さまで確かめていく。昆陽が尋ねた。


「何を見とる」


池尻は顔を上げずに答える。


「焼け方です」

「焼け方?」

「はい」


池尻は最初の1冊を机へ置いた。


「火災で焼けた本は、高温に長時間さらされます。紙の端から均一に炭化し、ページ全体が熱で縮みます」


次の1冊を開く。


「それに煤が入り込みます。ページの間にも細かく付着しています」


昆陽も覗き込む。確かに、黒い煤は紙の隙間まで入り込んでいた。池尻はさらに数冊を比較する。


「この本も、この本も。同じ特徴があります。」


そして最後に、1冊だけ別に置いた。黒い布張りの本だった。一見すると、他の本と同じように焼けている。しかし池尻は首を横に振る。


「これだけ違います」


昆陽が眉をひそめる。


「どこがや」


池尻はゆっくりページをめくる。


「煤が表面にしか付いていません。中のページには、ほとんど入り込んでいない。つまり、閉じた状態で短時間だけ焼かれています」


さらに背を見せた。


「熱で紙は焦げていますが、接着剤の溶け方が違います。火災現場の高温なら、背表紙の糊はもっと深く劣化するはずです」


昆陽は黙って聞いている。池尻は続けた。


「読書が好きになってから、本の修復や製本について書かれた本も何冊か読みました。火災で焼けた本と、あとから火で炙られた本では、傷み方が違います。この本は、火災の最中ではなく、その後に焼かれた可能性があります」


倉庫の空気が静まり返る。若い刑事が思わず言った。


「あとから焼いた…」


昆陽はゆっくり本を持ち上げる。


「誰かが、証拠を隠すために…わざわざ焼いた可能性があるいうことか」

「可能性です」


池尻は慎重に答える。


「断定はできません。でも、他の本と同じ火災で焼けたとは考えにくい状態です」


昆陽は本を見つめた。30年前、誰かがこの本だけを取り出し、内容を隠すために焼いた。そして再び遺留品へ紛れ込ませた。もしそうなら…この本には、他の本にはない何かが記されていたことになる。




鑑識が慎重にクリーニングを始めた。柔らかな刷毛で煤を払い、保存液を使って表紙を少しずつ整えていく。作業は1時間以上続いた。誰も急かさない。焦れば、紙は崩れてしまう。やがて…


「昆陽警部」


鑑識員が静かに呼んだ。


「見えてきました」


3人が身を寄せる。黒く焼けた背表紙。その煤が落ちた部分から、かすかに金色の文字が浮かび上がっていた。最初は1文字、次にもう1文字。完全ではない。だが、確かに読める。


『…録』


さらに慎重に煤を払う。もう一1文字。


『会…録』


池尻は息を呑んだ。


「……会議録」


昆陽も目を見開く。背表紙には焼け残った文字が、わずかに並んでいた。


『商店街 会…録』


30年前の商店街で作られた、会議録。それは誰にも読まれることなく、30年間眠り続けていた「1冊」なのかもしれなかった。そして、その本を誰かは火災のあとで焼き、内容を隠そうとした。3人は無言のまま、その焼け焦げた背表紙を見つめ続けていた。ついに、30年前『読まれなかった本』が、ゆっくりとその正体を現し始めていた。




市の保管倉庫で見つかった焼け焦げた「商店街会議録」は、その日のうちに鑑識課の資料保存室へ運び込まれた。通常の証拠品とは異なり、30年という歳月を経た紙は、わずかな力でも崩れてしまうほど脆くなっている。修復は、文化財の保存に携わる専門家の助言を受けながら慎重に進められることになった。昆陽、池尻、稲野の3人は、ガラス越しにその様子を見守っていた。


「1枚めくるだけでも時間がかかります」


修復担当の鑑識員が静かに説明する。


「焦って開けば、中の紙まで砕けてしまいます」


池尻は小さく頷いた。


「本も、人も同じですね。長い時間を抱えてきたものほど、丁寧に向き合わないと、本当の姿は見えてきません」


昆陽は何も言わず、その言葉を胸に刻んだ。作業は数時間に及んだ。焼けて貼り付いたページを少しずつ湿度で戻し、専用の薄いへらで慎重にはがしていく。会議録の多くは熱で黒く変色し、文字もほとんど判読できない。それでも修復担当者は諦めず、1枚ずつページを開いていった。そして、会議録の中央付近まで進んだときだった。


「……止めてください」


担当者が手を止めた。ページの間から、紙とは違う厚みが見えている。ピンセットで慎重に取り出す。折り畳まれた、小さな封筒だった。昆陽が思わず身を乗り出す。


「封筒……?」


焼け跡の中に隠されるように挟まれていたその封筒は、会議録が盾になったためか、奇跡的に原形を保っていた。鑑識員は封筒の表面を丁寧に掃除する。煤が落ちるにつれ、赤い印が浮かび上がった。


「印があります」


池尻はガラス越しに目を凝らした。円形の店印。かすれてはいるが、文字は読める。


『伊丹サンロード 青雲堂文房具店』


稲野が小さく息をのむ。


「文房具店…」


それは存在を消されていた、あの文房具店だった。さらに封筒の右上には、青いインクの日付。


『昭和五十九年七月二十六日』


火災の前日、夏祭りの写真が撮られた日でもある。昆陽は静かに呟いた。


「火事の前日に書かれたもんや……」


封筒は慎重に開封された。中には便箋が1枚だけ入っている。しかし熱と湿気の影響で、多くの文字は滲み、読めなくなっていた。特殊な撮影や画像補正を試みても、判読できる部分はごくわずかだった。部屋中が静まり返る。やがて鑑識員が顔を上げた。


「読める箇所があります」


大型モニターに拡大画像が映し出される。そこに残っていたのは、ほんの1文だけだった。


『もし僕に何かあったら—…』


その先は黒く焼け、途切れている。誰も声を出さなかった。たったそれだけの文章。しかし、その短い書き出しが持つ重みは計り知れなかった。火災の前日、まだ事件が起きる前に書かれた手紙。


ーもし僕に何かあったらー


それは偶然書かれた文章とは思えなかった。昆陽は静かに椅子へ腰掛ける。


「……予感しとったんか」


危険が迫っていることを。あるいは、誰かに狙われていることを。まだ断定はできない。しかし少年は、自分の身に何か起こる可能性を考えていた。池尻は焼けた会議録と封筒を交互に見つめる。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「カセットテープでは、少年は『返して』と言っていました」


昆陽が頷く。


「ああ」

「そして…」


池尻はノートを開き、これまでの証拠を並べていく。大学ノート、写真、名簿、録音テープ、会議録、封筒。


「少年は何かを抱えて逃げていたという証言があります。この封筒は、会議録の中に隠されていました。もし…」


一呼吸置く。昆陽はその続きを待つ。


「少年が会議録の中へこの手紙を入れたのだとしたら……守ろうとしたのは、この手紙だったのかもしれません」


静かな声だった。だが、その一言は捜査本部の誰もの心に響いた。少年は、自分の命よりも守りたかったものがあった。だから追われても走った。だから「返して」と叫んだ。その可能性が、1本の線となってつながり始めていた。




夜も更け、捜査本部には昆陽だけが残っていた。壁一面の事件関係図。そこには30年前から現在までの出来事が、赤い糸で結ばれている。文房具店、火災、逃げる少年、青葉堂店主、脅迫状、会議録、手紙。昆陽は1つずつ見つめながら、ゆっくりと考えを整理した。これまで自分たちは、文房具店の息子を火災の犠牲者として考えてきた。しかし…違うのではないかと。あの少年は、ただ巻き込まれた被害者ではない。火災の前に何かを見た。誰かを見たから、手紙を書いた。だから何かを守ろうとした。そして追われた。昆陽は静かにホワイトボードへ、新しい1文を書き加えた。


『文房具店の息子=最初の証人』


書き終えた文字を見つめながら、小さく息を吐く。


「……そういうことやったんか」


事件は30年前の火災から始まったのではない。もっと前から動き始めていた。そして、すべてを最初に見てしまった1人の少年がいた。彼こそが、この長い事件の『最初の証人』だったのである。その事実は、まだ真犯人の正体を明かしてはいなかった。だが、30年間閉ざされていた物語は、ようやく最初の一章を読み終えようとしていた。


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