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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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10/15

閉じられたページ


市の保管倉庫で発見された焼け焦げた会議録と、その中から見つかった1通の手紙。火災前日の七月二十六日付、文房具店の店印。そして、焼け残っていた一文。


『もし僕に何かあったら——』


その続きを知ることができれば、30年前の真実へ近づけるかもしれない。警察は手紙を科学捜査研究所へ送り、画像解析による文字の復元を依頼した。





一週間後。昆陽、池尻、稲野の3人は、科学捜査研究所の解析室を訪れていた。大型モニターには、高解像度で撮影された手紙の画像が映し出されている。担当研究員が説明を始めた。


「熱で炭化した部分は読めません。しかし、インクが紙の繊維へ染み込んだ痕跡は、特殊な波長で撮影すると残っている場合があります」


モニターの画像が切り替わる。白黒だった紙面に、薄く青い文字が浮かび上がった。


「まだ断片的ですが、判読できる箇所があります」


部屋の空気が張り詰める。ゆっくりと、1文字ずつ文字が現れていく。


「もし僕に何かあったら」


その下に、さらに別の行。


「この手紙を読んでください」


池尻は静かに息をのんだ。研究員はさらに画像を拡大する。文字はところどころ欠けている。しかし、次の一文だけは比較的鮮明だった。


「あの人は火をつけていません」


誰も言葉を発しなかった。たった一文。しかし、それまでの捜査の前提を揺るがすには十分な重さを持っていた。



警察署へ戻る車中でも、3人はしばらく無言だった。最初に口を開いたのは昆陽だった。


「……“あの人”とは誰やと思う」


池尻は窓の外を眺めながら答える。


「まだ分かりません。でも少年は、犯人を告発しようとしていたわけではないと思います」


昆陽が視線を向ける。


「どういう意味や」


池尻は手紙の写しを開いた。


「もし犯人を書き残したいなら、『火をつけたのは誰か』を書けばいいはずです。けれど、この手紙には違います」


指先で一文をなぞる。


「『あの人は火をつけていません』最初に伝えようとしているのは、誰かの無実です。つまり少年は犯人を責めたかったのではなく、間違って疑われる人を残したくなかった」


稲野が静かに言った。


「……その人を守ろうとしたのか」


池尻は少し考えてから首を横に振る。


「守ろうとした、というより……事実を書き残そうとしたのだと思います。読書をしていると、証言と感情が混ざった文章をたくさん見ます。でも、この手紙は違います。『あの人は火をつけていません』という文章には、感情より事実を伝えようという意思を感じます」


昆陽はその言葉を静かに受け止めた。少年は誰かをかばったのではない。自分が見た事実を書き残そうとした。その可能性が、これまでの証拠とも矛盾しなかった。




その日の午後、昆陽は資料室へ向かった。30年前の火災事件、当時の捜査資料は段ボール数箱分に及ぶ。変色した調書を1冊ずつ開いていく。火災原因、現場写真、事情聴取、新聞記事、参考人名簿。ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。やがて、1枚の調書で昆陽の手が止まった。


「……これか」


調書の右上には赤いスタンプで《重要参考人》と押印されている。名前の欄には、1人の男性の氏名が記されていた。火災直後、一時的に放火の疑いをかけられた人物だった。調書を読み進める。証拠不十分、目撃証言なし、火災との直接的な関係は確認できず。それでも、商店街では長く噂だけが残ったと記録されている。昆陽は眉をひそめた。


「そういうことやったか…」


もし手紙の「あの人」が、この人物なら…少年は30年前から、その人物が犯人ではないことを知っていたことになる。




昆陽はすぐに住民記録や戸籍の附票、当時の転出記録を照会した。数時間後、若い刑事が資料を持って戻ってくる。


「警部、分かりました」


昆陽は資料を受け取った。そこには簡潔な記録だけが残っていた。火災発生から二週間後、その人物は商店街を離れ市外へ転出。さらに数年後には住民登録も移され、その後の足取りは途絶えていた。現在の居住地、勤務先、家族構成、どれも確認できない。


「消息不明です」


若い刑事の報告に、昆陽は深く息を吐いた。


「30年間…」


誰かに追われたのか、噂から逃げたのか。あるいは、自ら姿を消したのか。まだ分からない。だが1つだけ、確かなことがあった。火災のあと、最初に疑われた人物がいた。そして火災前日に書かれた手紙には、その人物と思われる誰かについて…『あの人は火をつけていません』と記されていた。昆陽は静かに資料を閉じる。事件はまた1枚、閉じられていたページを開こうとしていた。


だが、その先には新たな謎が待っている。無実と書き残された『あの人』は、なぜ30年間、誰にも見つからないまま姿を消したのか。その答えは、まだ誰の手にも届いていなかった。火災前日に書かれた手紙から判読された一文。


『あの人は火をつけていません』


その短い言葉は、30年前の火災事件をもう一度最初から読み直す必要があることを示していた。昆陽は捜査本部に新たな方針を伝える。


「30年前に放火を疑われた人物の足取りを追う。事故か事件かを考える前に、この人物が何を見て、なぜ姿を消したのかを調べ直す」


若い刑事たちは一斉に動き始めた。住民票の除票、戸籍の附票、転出記録、運転免許の更新履歴、税務資料、健康保険、年金記録。確認できる限りの公的資料を洗い直した。しかし、調査は思うように進まない。火災から2週間後、その人物は商店街…町を離れた。転居先では数年間生活していた形跡があるものの、その後の記録は途絶えている。


「名前を変えた可能性もあります」


若い刑事が報告する。昆陽は腕を組んだ。


「可能性だけでは追えん」


新たな情報が出たと呼ばれた池尻は、資料を静かに眺めていた。並べられた記録には、確かに「人」が存在していた痕跡がある。しかし途中から、その人生だけが本棚から1冊抜き取られたように消えていた。


「……誰かが消したか」


思わず口にすると、昆陽が首を振る。


「まだそこまでは言えへん。自分から姿を消した可能性もある」

「はい」


池尻は素直に頷いた。


「今言えるのは、『途中から追えなくなった』という事実だけです」


その慎重さが、昆陽には心地よかった。池尻は決して結論を急がない。読書で培ったのは推理ではなく、「書かれていること」と「書かれていないこと」を区別する姿勢だった。




一方、稲野はいつものように商店街を歩いていた。派手な聞き込みではない。世間話を重ね、その中から記憶を拾い集めていく。昔から理髪店を営む80代の男性が、椅子へ腰掛けながら話し始めた。


「例の人のことか……」

「ええ」


稲野は静かに頷いた。


「火事のあと、疑われた人です」


老人は遠くを見るような目をした。


「あの人はな、最後まで同じことしか言わんかった。」

「なんとおっしゃっていましたか」


老人は、ゆっくりその言葉を口にした。


「『自分じゃない。』警察にも、近所の人にも、何度聞かれても…それだけやった」


稲野は尋ねる。


「怒っていましたか」

「いや。怒るより、悲しそうやった。誰も信じてくれへんいう顔や」


その証言は、池尻たちへすぐ伝えられた。





夕方。池尻は図書館の閲覧室で、1枚の大きな模造紙を机いっぱいに広げていた。写真、大学ノート、カセットテープ、会議録、焼け残った手紙、脅迫状。それぞれを書いた付箋を時系列順に並べていく。昆陽が隣へ立った。


「何を整理しとる」

「事実だけです」


池尻は1本の線を引く。時系列を呟きながら。


「7月26日、少年が手紙を書く。同じ日、夏祭りの写真が撮影される。7月27日、祭りの録音。『返して!』という声。追いかける男。井戸へ隠れた可能性。その後、火災。」


さらに赤い線を引く。


「火災後、一人の人物が疑われる。しかし『あの人は火をつけていません』この文章を書いた少年は、その人をかばったわけではないと思います」


昆陽が目を細める。


「理由は」

「文章です」


池尻は手紙を見つめる。


「もし感情で書くなら『あの人を信じてください』『あの人は悪くありません』そう書いてもおかしくありません。でも、少年は事実だけを書いています。『火をつけていません』これは意見ではありません。」見たことを書き残そうとしています」


昆陽はゆっくり頷いた。


「少年は誰かを守ったんやない」

「はい」

「見た事実を未来へ残そうとしたんやな」

「はい。だからこそ、この手紙を守ろうとしたのだと思います」





その夜。警察署の受付へ、また1通の封筒が届けられた。差出人なし、指紋なし、これまでと同じ白い封筒。昆陽は静かに封を切る。中には1枚の紙。黒い文字が、いつものように一行だけ印字されていた。


『疑われた人ほど、真実から遠い』


室内が静まり返る。昆陽は紙を池尻へ渡した。池尻は何度も読み返す。そして小さく息を吐いた。


「犯人は…僕たちに、思い込みを捨てろと言っています。」


昆陽は視線を向ける。


「思い込み…」

「はい。僕たちは『疑われた人』というだけで、その人を事件の中心に置いてしまう。でも、この手紙も、録音も、会議録も…どれも、その人を犯人とは言っていません」


池尻は第9通目のメッセージを机へ置いた。


「本を読むとき、一度思い込むと、その後の文章まで都合よく読んでしまうことがあります。事件も同じです。最初の思い込みが、その後の事実の見え方を変えてしまう」


昆陽は腕を組み、ゆっくり頷いた。


「犯人は……池尻、お前と勝負しとるんやな」


池尻は少しだけ笑った。


「ええ。でも、勝負しているのは推理ではありません。『どう読めば事実に近づけるか』を、試されているんです」


その言葉を聞いた昆陽は、第9通目のメッセージを壁の証拠写真の横へ静かに貼り付けた。犯人はまた一歩先で待っている。しかし池尻もまた、本のページをめくるように、少しずつ真実へ近づいていた。



夕暮れの図書館は静かだった。利用者もまばらになった閲覧室の一角で、池尻は大きな机いっぱいに資料を並べていた。30年前から現在まで集めてきた、事件の断片。古い写真、大学ノート、録音用カセットテープ、商店街の会議録、焼け残った手紙、商店街名簿、脅迫状。そして、これまで昆陽から見せてもらった現場写真や鑑識資料の写し。どれも1つだけでは意味を持たない。しかし、1冊の本の章のように並べ直せば、物語は違う姿を見せ始める。池尻は深く息をつき、白紙へ1本の線を引いた。


時間軸だった。昭和59年7月26日。夏祭り、写真、少年が手紙を書く。7月27日、祭りの録音。「返して!」追いかける男。井戸の近くで途切れる足音。その後の火災。火災直後、文房具店の息子が消息を絶つ。1人の男性が放火を疑われる。30年後、青葉堂店主の殺害。脅迫状、連続殺人、資料は1本の線の上に、静かに並んでいった。


池尻は何度も見返した。大学ノートを読む、録音を思い返す、写真を見つめる、手紙の文章をなぞる。そのたびに、違和感が1つだけ残る。


「順番が……違う」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。火災が起きた…だから真実が失われた。これまで、誰もがそう考えてきた。しかし資料は、そう語ってはいない。少年は火災の前日に手紙を書いている。録音には、火災より前の追跡が残っている。少年は何かを抱えて逃げていた。会議録には封筒が隠されていた。そのすべては、火災以前に始まっている。池尻は大学ノートの一節を読み返した。


―少年は誰かから逃げていたー


その一文へ、静かに指を置く。


「……そうか」


ようやく、1つの仮説が形になった。





夜になり、昆陽が図書館を訪れた。池尻は机の上をそのまま見せる。


「全部、並べ終わりました」


昆陽は資料を見回す。


「何が見えた」


池尻は答えを急がなかった。1枚ずつ資料へ目を向ける。


「僕たちは今まで、事件は火災から始まったと思っていました。でも、これは火災の前日に書かれています」


録音テープを指す。


「少年は火災の前から追われています」


会議録を指す。


「隠された封筒も、火災より前に存在していました」


最後に写真を置く。静かな声で結論を口にする。


「つまり、事件は火災から始まったのではありません」


昆陽は黙って聞いていた。池尻はゆっくり続ける。


「火災は、事件を隠すために起きた」


図書館の静寂が、さらに深くなる。昆陽は腕を組んだまま、長い時間動かなかった。その仮説は大胆だった。しかし、今まで集めた証拠とは不思議なほど矛盾しない。火災は始まりではなく、隠蔽。もしそうなら、焼かれたのは建物だけではない。証拠も、記録も、人々の記憶さえも、炎の中へ消されたことになる。





翌朝、昆陽は捜査本部の会議室へ入った。机には、現場資料と鑑識結果が並ぶ。若い刑事たちが席に着く中、昆陽はホワイトボードへ時系列を書き始めた。


「まず確認する。少年は火災前に追われていた。火災前日に手紙を書いている。手紙には『あの人は火をつけていません』とある。そして会議録は、火災後に焼かれた可能性が高い」


会議室は静まり返る。昆陽は1人ひとりを見回した。


「以上を踏まえた現時点での捜査本部の見解や」


一拍置く。


「火災は事故とは限らん。さらに火災そのものが、先に起きた事件を隠すために利用された可能性がある」


若い刑事の一人が息を呑む。


「それって、つまり……」


昆陽は力強く頷いた。


「捜査方針を変更する」


その言葉が会議室に響いた。


「本件を30年前の火災事故ではなく、30年前に発生した殺人事件、および現在まで続く連続殺人事件として再構成し、捜査を進める」


その瞬間、30年間変わらなかった事件の扱いが、大きく覆された。




その夜、図書館では池尻が最後の資料を読み終えていた。机の上には、整然と並んだ資料。まるで、1冊の長編小説を読み終えたあと、本を閉じる直前のようだった。池尻は静かに大学ノートを閉じる。ぱたり、と乾いた音が響く。その瞬間…図書館の外で、1人の職員が近づいてきて封筒を渡してきた。


「池尻さん、落ちてましたよ」


白い封筒だった。差出人はない。しかし池尻の近くに落ちていた封筒。ゆっくり封を開く。中には、いつものように1枚だけ紙が入っていた。印刷された黒い文字。それを読んだ池尻は、しばらく何も言わなかった。



やがて連絡した昆陽も図書館へ駆け込み、その紙へ目を落とす。そこには、たった一行だけ記されていた。


『ようやく、第一章を読み終えた』


池尻は静かに紙を見つめる。その言葉は挑発ではなかった。まるで、この事件という1冊の本を誰よりも早く読み終えた読者が、次のページをめくるよう促しているかのようだった。そして2人は気づく。これまで追ってきた30年前の真実は、まだ序章にすぎなかったのだと。物語は、いま本当の『第二章』へ入り始めようとしていた。



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