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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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11/15

読書と作者


第10通目のメッセージ。


『ようやく、第一章を読み終えた』


その一文は、捜査本部の空気を大きく変えた。犯人は、警察を挑発しているわけではない。まるで1冊の本を書いた作者が、読者へ語りかけるように、事件を『読ませよう』としている。




そして翌朝。その考えを裏付けるように、新たな封筒が警察署へ届けられた。受付へ置かれた白い封筒は、これまでと変わらない。差出人なし、切手なし、指紋も検出されない。鑑識の確認を終えたあと、昆陽は静かに封を切った。中には、これまでより一回り大きな紙が入っていた。印刷された文章は、一行ではなかった。数行にわたり、黒い文字が整然と並んでいる。昆陽はゆっくり読み上げた。


「『ようこそ、第二章へ。続きを読む資格があるか、試してみよう。本は、順番を間違えると意味を失う。だから私は、一頁ずつ渡している』」


これまでで最も長いメッセージだった。捜査本部は静まり返る。若い刑事が思わず口にした。


「……脅迫状じゃない」


昆陽も頷く。


「ああ。これはもう、手紙や」


誰かへ伝えるために書かれた文章。そこには怒りも、殺意も感じられない。あるのは、読者へ語りかけるような不思議な口調だけだった。しかし、封筒にはもう1つ入っている物があった。折り畳まれた古い紙。昆陽が慎重に広げる。


「……地図か」


それはサンロード商店街周辺の古地図だった。現在とは少し異なる区画。まだ建て替えられる前の店舗配置。火災以前の町並みが、そのまま印刷されている。右下には、小さく発行年が記されていた。しかし文字は擦れて読みにくい。


「池尻」


早朝に呼び出された池尻は、今日も静かにメモを書いていた。昆陽はメモを書いている池尻に地図を差し出す。


「見てくれ」


池尻は机へ白い布を敷き、その上へ地図を広げた。まるで古い本を扱うように、指先だけでゆっくりと紙を押さえる。まず見たのは、書かれている内容ではなかった。紙そのものだった。同じく早朝から呼ばれていた稲野が不思議そうに尋ねる。


「地図を見いへんのか」


池尻は小さく笑った。


「読む前に、本物かどうかを確かめます」


ルーペを取り出し、紙の繊維を観察する。次に折り目、角の摩耗、紙の色、印刷のにじみ。昆陽は黙って見守った。


「どうや」


池尻は慎重に答える。


「複製ではありません。30年前の実物だと思います」

「理由は」

「まず紙質です」


指先で紙を軽くなぞる。


「この頃の商店街案内図によく使われた上質紙です。長い年月で繊維が柔らかく変色しています。最近の紙へ印刷して人工的に古く見せても、この質感は出ません」


さらに折り目を指した。


「何度も開いた跡があります。しかも折り癖が自然です。保管のためではなく、持ち歩いていた折り方です」


昆陽は感心したように息を吐いた。


「本ばっかり読んどると、そんなことまで分かるんか?」

「古書について書かれた本で勉強しました」


池尻は照れくさそうに答えた。


「本は内容だけじゃなく、紙や製本も情報になります」


地図を詳しく見ると、1つだけ不自然な点があった。赤鉛筆で一本の線が引かれている。始点も終点も書かれていない。ただ一本。商店街を横切るように伸びていた。若い刑事が言う。


「逃走経路でしょうか」

「火元までの道かもしれません」


様々な意見が飛ぶ。しかし池尻だけは首を傾げていた。


「違う気がします」

「どこがや」


昆陽が尋ねる。池尻は赤線を見つめたまま答える。


「場所を示すなら、普通は印や丸を書きます。でも、この線は何も説明していません。ただ通っているだけです」


しばらく考え込んだあと、池尻は静かに言った。


「これは場所ではなく、時間を示しているのかもしれません」

「時間?」


昆陽が聞き返す。


「はい。本を読むときも、一行は場所ではなく時間の流れを表すことがあります。この線も同じです。人が歩いた順番、出来事が起きた順番。つまり何があったかではなく、『いつ、どこを通ったか』を読ませようとしている」


昆陽は赤い線を見つめ直した。一本の線が、急に意味を持ち始める。





その夜、昆陽は捜査本部の壁に貼られた証拠を眺めていた。写真、録音、手紙、大学ノート、会議録。そして第11通目の手紙。犯人は毎回、池尻が気づく程度の情報しか与えない。決定的な証拠は渡さない。だが、次へ進むための一頁だけは必ず残していく。昆陽は腕を組み、小さく呟いた。


「ようやく分かった」


近くにいた若い刑事が振り向く。


「何がですか?」


昆陽は第11通目の手紙を見つめたまま答えた。


「犯人は警察へ送っとるんやない。この手紙は…」


一拍置く。


「池尻、お前だけに読ませようとしてる」


その言葉に、部屋は静まり返った。犯人は捜査本部全体ではなく、1人の読書好きの大学生を読者として選んでいた。そして池尻もまた、その物語を最後まで読み切る覚悟を、静かに胸へ刻んでいた。


第十一通目の手紙。

『ようこそ、第二章へ。続きを読む資格があるか、試してみよう』


その言葉は、池尻の頭から離れなかった。犯人は、事件を隠そうとしているのか。それとも、真実を伝えようとしているのか。その答えは、まだ見えていない。しかし1つだけ確かなことがあった。犯人は、『読む』という行為を強く意識している。





翌日。池尻は大学の講義を終えると、いつものように図書館へ向かった。地下書庫から何冊もの本を抱えて閲覧席へ戻る。積み上げられたのは、推理小説ばかりではない。古典文学、物語論、読書論。、文学批評。さらには物語構造について書かれた専門書まで並んでいた。会社が休みで池尻に会いに来た稲野が、驚いたように尋ねる。


「事件を調べるんじゃなくて、本を読むんか?」


池尻は笑った。


「犯人は、僕たちに本の読み方を使って考えろと言っています。だったら…まず、本がどう作られているかを思い出したいんです」


ページをゆっくりとめくる。どの本にも共通していることがある。作者は、最初からすべてを書かない。読者が理解できる順番で、少しずつ情報を渡していく。伏線、誤解、回収、驚き。それらは決して偶然ではなく、読者の視線を導くために配置されている。池尻はノートへ静かに書いた。


「作者は、読者が読む順番を設計する」


その一文を見た瞬間、胸の奥で何かがつながった。





夕方、池尻はこれまで犯人から届いたすべてのメッセージを机へ並べ始めた。第1通、第2通、第3通…そして第十一通まで。池尻に呼ばれてやってきた昆陽も隣へ座る。


「何を始めた」

「順番を確認します」


池尻は1枚ずつ並べていく。最初の脅迫状。


「次は、本当に知っている者が死ぬ」


次の紙。


「知っていたから、消した」


さらに。


「本は最後の一頁から読んではいけない」

「名前は、人を隠すためにも使える」

「名前を失えば、過去は誰のものでもなくなる」

「次は、声を聞け」

「偶然は、ときどき真実を書く」

「読まれなかった本が、一冊ある」

「疑われた人ほど、真実から遠い」

「ようやく、第一章を読み終えた」


そして。


「続きを読む資格があるか、試してみよう」


池尻は、それらを見つめ続けた。しばらくして、小さく呟く。


「やっぱり……章立てです」


昆陽が眉をひそめる。


「章立て?」

「はい」


池尻は一枚目を指した。


「最初は事件の始まり」


次に二枚目。


「証人が消される」


三枚目。


「読み方を示す」


四枚目。


「名前」


五枚目。


「過去」


六枚目。


「声」


七枚目。


「偶然」


八枚目。


「本」


九枚目。


「思い込み」


十枚目。


「第一章」


十一枚目。


「第二章」


池尻はゆっくり顔を上げた。


「犯人は、その場その場で思いついて手紙を書いているんじゃありません。最初から全部、順番を決めています」


昆陽は腕を組みながら考え込んだ。


「つまりは証拠を隠しとるわけやない、と。」

「はい」


池尻は頷いた。


「むしろ逆です。犯人は、証拠を少しずつ渡しています。ただし読む順番だけは、自分で決めている」


昆陽は深く息を吐いた。


「俺には分からん。犯人は真相を隠したいんか。それとも伝えたいんかが」


その問いに、池尻は少しだけ考えた。図書館の窓から夕日が差し込み、本の背表紙を赤く染めている。静かな空気の中で、池尻はゆっくりと言葉を選んだ。


「犯人は、真実を知ってほしいんです」


その声は穏やかだった。昆陽は黙って聞く。


「でも、自分の方法でしか読ませたくない」


「作者が読者へ、『この順番で読んでください』と本を差し出すように。犯人は事件そのものを、1冊の物語として読ませようとしている」


昆陽は苦笑した。


「厄介な作者やな」

「はい。」


池尻も小さく笑う。


「でも…どんな作者でも、書いた以上は矛盾を隠せません。物語は必ず、自分自身の中に答えを持っています」





その夜。昆陽たちは、第11通目に同封されていた古地図を再び広げていた。池尻は赤鉛筆の線を、これまでの証拠写真や現場地図へ重ねていく。文房具店跡、井戸、録音テープが見つかった場所、火災現場。それぞれへ印を付ける。そして、透明なシートを重ねた瞬間だった。赤い線が、すべての地点を一本につないだ。稲野が思わず声を上げる。


「これ……」


昆陽も息を呑む。池尻は静かに頷いた。


「間違いありません。この赤線は地図の目印ではありません。」


指先で一本の線をなぞる。


「30年前のあの日、少年が走った経路です。」


部屋に静寂が訪れる。犯人は30年前の足取りを、一本の赤線として残していた。それは次の真実へ続く、新たな一頁の始まりだった。





翌朝、まだ商店街が開店準備を始める前の静かな時間。サンロード商店街には、池尻、昆陽、そして稲野の3人の姿があった。池尻の手には、第11通目の手紙に同封されていた古地図。そこには一本の赤鉛筆の線が引かれている。昆陽は腕時計を見ながら言った。


「今日は、この線を最初から最後まで歩く。三十年前の少年が見た景色を、できる限り同じ順番で見てみるんや」


池尻は静かに頷いた。


「犯人は、『読む順番』を大切にしています。なら僕たちも、順番を変えずに読まなければいけません」




3人は赤線の始点と考えられる場所へ立った。今は駐車場になっているその場所には、30年前まで文房具店が建っていた。舗装された地面の隅にだけ、古い石の土台がわずかに残っている。池尻はしゃがみ込み、その石へ静かに手を添えた。


「ここから始まった」


誰に言うでもない独り言だった。稲野が尋ねる。


「少年は、ここから逃げたんやろか?」


池尻は少し考えてから答える。


「まだ断定はできません。でも、ここが最初のページだったことは間違いないと思います」


3人は歩き始めた。古地図の赤線をたどるように、一歩ずつ。最初の角を曲がる。今は新しい喫茶店になっている場所。30年前は小さな履物店だった。さらに進む。古い薬局、和菓子店、時計店。建物は変わっても、道幅だけは当時のままだった。池尻は何度も立ち止まり、周囲を見渡した。決して推測では語らない。目に映る事実だけを拾い集める。


「この道は、見通しがいいですね」


昆陽が頷く。


「ああ。後ろから来る人間はすぐ分かる。」


「逆に…」


池尻は前方を見つめる。


「逃げる場所は少ない」


少年が走っていたとしたら、追う者から姿を隠すには不向きな道だった。それでも、この道を選んでいる。そこに意味があるはずだった。


やがて3人は、古い井戸跡へ着いた。現在は埋め立てられ、小さな花壇になっている。ここから録音用カセットテープが見つかった。足音が途切れた場所、少年が身を潜めた可能性がある場所。池尻は花壇を見つめた。


「ここで終わりではない」


昆陽が振り返る。


「どういうことや」

「もし少年が逃げるだけなら、井戸へ隠れて終わりです。でも赤線は、この先まで続いています」


古地図を見る。赤線は井戸を通り過ぎ、さらに商店街の奥へ伸びていた。3人は再び歩き始める。赤線の終点は、30年前に火災が起きた場所だった。現在は小さな広場になっている。子どもたちが遊ぶ声が聞こえ、事件の面影はほとんど残っていない。池尻は広場の中央へ立った。そして、文房具店からここまでの道を静かに振り返る。文房具店、井戸、火災現場、3つの場所が一本の線で結ばれる。その瞬間、池尻の中で、これまで別々だった事実が1つにつながった。


「……違う」


昆陽が顔を上げる。


「何がや」


池尻は火災現場を見つめたまま言った。


「僕たちは今まで、少年は誰かから逃げていたと思っていました。でも…この線は、逃げるための道には見えません。」


昆陽は黙って耳を傾ける。


「逃げるなら、もっと細い路地があります。途中で身を隠せる場所もある。なのに少年は、1番見つかりやすい道を通っています」


稲野が小さく呟く。


「じゃあ、どうして…」


池尻は静かに焼け残った手紙の写しを取り出した。そこには、あの一文が記されている。


『もし僕に何かあったら、この手紙を読んでください』


池尻はゆっくり顔を上げた。


「少年は、逃げていたんじゃない。この手紙を誰かへ届けようとしていたんです」


昆陽は目を閉じ、これまでの証拠を思い返す。手紙、録音、大学ノート、赤線。どれも、その仮説と矛盾しない。やがて静かに頷いた。


「……その可能性はある。いや今、一番自然に説明できる」


初めて昆陽は、池尻の新たな仮説を正面から認めた。3人が広場を離れようとした、その時だった。稲野が商店街の古い掲示板の前で足を止めた。


「昆陽さん。これ、見てください」


掲示板は木製で、長年雨風にさらされていた。修理のため裏板が少し浮いている。稲野がそっと板を持ち上げると、その裏に小さな布袋が挟まっていた。昆陽が慎重に取り出す。中から現れたのは、古びた真鍮の鍵だった。手のひらに収まるほどの、小さな鍵。柄の部分には、かすかに数字が刻まれている。


『27』


池尻は鍵を見つめ、静かに息をのんだ。


「また、次のページです」





その頃、警察署の受付では、1通の白い封筒が届けられていた。鑑識が確認し、封を切る。中には、いつものように1枚の紙。印刷された文字は、短かった。


『次の一冊は、鍵が開ける』


昆陽の携帯電話が鳴る。警察署からだった。


「警部、また届きました」


昆陽は静かに空を見上げる。犯人は、3人が鍵を見つけることを知っていた。いや、見つけるように導いていた。作者は、次の一章を用意して待っている。そして池尻という読者は、その本を最後まで読み切る覚悟を、改めて胸に刻むのだった。



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