最後の栞
第12通目のメッセージ。
『次の一冊は、鍵が開ける』
その短い一文とともに、商店街の古い掲示板の裏から見つかった小さな真鍮の鍵。これまで犯人が残してきた手紙や地図と同じように、それもまた『次のページ』を読むための手掛かりだった。
池尻は警察署の会議室で、白い布の上に鍵をそっと置く。昆陽と稲野も、その小さな鍵を見つめていた。
「さて」
昆陽が腕を組む。
「これは何を開ける鍵なんや?」
若い刑事たちは、「貸金庫では」「古い家の鍵では」と意見を出し合う。しかし池尻は、すぐには答えなかった。鍵そのものを静かに観察し始める。ルーペを取り出し、柄の部分を覗き込む。鍵には細かな傷がいくつも刻まれていた。歯の部分は片側だけが擦り減っている。池尻は指先で慎重になぞりながら言った。
「……少し、借りてもいいですか?」
昆陽は頷いた。
「もちろんや」
池尻は鍵を光へかざす。真鍮は長い年月を経て落ち着いた飴色へ変わっている。しかし不思議なことに、持ち手の輪だけは比較的新しい擦れ方をしていた。稲野が首を傾げる。
「何か分かるか?」
池尻は少し考えながら答えた。
「まず、住宅の鍵ではないと思います」
昆陽が興味深そうに聞く。
「理由は」
「住宅の玄関鍵なら…毎日使うので、持ち手全体が均等に摩耗します。でも、この鍵は違います」
歯の部分だけが繰り返し使われています。
「頻繁には使われていない。必要な時だけ開ける鍵です」
さらに鍵を裏返す。
「それに長さが短い。この形状は、古いロッカーや保管庫でよく使われていました」
昆陽は思わず笑った。
「また本の知識か」
「はい」
池尻も少し照れたように笑う。
「古い図書館や書庫の本を読んでいて、昔の収納設備の写真を見たことがあります。本には、意外と物の形も載っています」
その日の午後、3人は市立図書館の郷土資料室を訪れていた。目的は、30年前の商店街資料。設備図面、建築記録、改修工事の申請書。閲覧室へ分厚い製本資料が何冊も運ばれてくる。池尻は手袋をはめ、1冊ずつ丁寧にページをめくった。古い図面には、現在は存在しない施設まで細かく記されている。
昭和59年当時のサンロード商店街。店舗配置、電気配線、共同倉庫、荷捌き場。その中で、1枚の図面を見た池尻の手が止まった。
「昆陽さん、これです」
昆陽が隣へ来る。図面の隅に、小さな四角がいくつも並んでいる。説明にはこう書かれていた。
《共同保管庫 貸しロッカー 二十四区画》
昆陽が目を見開く。
「ロッカー……」
池尻は図面を指差した。
「商店街の店主たちが帳簿や貴重品を保管するための共同設備だったようです。火災後の改修で廃止で、地上部分は取り壊されています」
稲野が図面をのぞき込む。
「じゃあ、この鍵は…」
「その可能性があります」
池尻は静かに頷いた。
「まだ断定はできません。でも、鍵の大きさも形も一致しています。」
昆陽はすぐに市役所へ連絡し、古い建築資料を追加で取り寄せた。1時間後。地下設備の断面図が机へ広げられる。図面には赤い文字で、改修工事の内容が記されていた。
《地上倉庫撤去》
しかし、その下に小さく一文がある。
《地下保管庫 埋設保存》
昆陽は思わず声を上げた。
「残っとる。地下は壊されとらん」
若い刑事が言う。
「入口さえ見つかれば……」
池尻は静かに地図へ目を落とした。
「犯人は鍵だけ渡しました。…開けられる場所は、まだ残っているはずです。」
夕方、3人は図面を片手に商店街を歩いていた。現在の舗装、新しい店舗、昔とは変わった町並み。しかし図面と見比べると、建物の配置から地下構造のおおよその位置は推測できた。商店街の一番奥。現在は使われなくなった小さな広場。かつて共同倉庫が建っていた場所だった。雑草の間を歩いていた稲野が、不意に足を止める。
「……ここ」
地面の一角だけ、コンクリートの色が違っていた。昆陽がしゃがみ込む。土を払いのける。現れたのは、錆びた鉄製の取っ手。四角い鉄板が地面へ埋め込まれている。池尻は息をのんだ。
「点検口や…」
昆陽が力を込める。重い音を立てながら、鉄板がゆっくりと持ち上がった。湿った空気が、3人の前へ流れ出す。暗闇の下へ続く、古いコンクリート階段。懐中電灯で照らすと、その先へ細い通路が伸びていた。昆陽は静かに呟く。
「30年間、誰にも読まれんかったページが……」
池尻は真鍮の鍵を握りしめる。その先にあるものが、犯人の残した『次の1冊』なのだと確信しながら、3人はゆっくりと地下保管庫への第一歩を踏み出した。地下保管庫へと続く階段は、長い年月を忘れたように静まり返っていた。懐中電灯の光が、湿ったコンクリートの壁を照らす。足音だけが低く反響し、3人はゆっくりと階段を下りていく。先頭を歩く昆陽が足を止めた。
「……残っとる」
地下には細い通路が1本だけ伸び、その先に鉄製のロッカーが整然と並んでいた。30年前の共同保管庫。埃をかぶりながらも、その姿は当時のまま残されている。番号札はほとんど錆びついて読めない。しかし、1つだけ。真鍮の数字が比較的きれいに残っているロッカーがあった。
『27』
池尻は思わず、自分の手の中にある鍵へ目を落とした。鍵の持ち手にも刻まれていた数字。同じ『27』昆陽が静かに言う。
「試してみよや」
池尻は頷き、真鍮の鍵を鍵穴へ差し込んだ。ゆっくり回す。長年動かなかった金属が、ぎしりと音を立てる。一度、二度。そして…。
ーカチリー
小さな音とともに、鍵が開いた。誰も言葉を発しない。昆陽が慎重に扉を開く。中には、埃一つない空間が広がっていた。ロッカーの中には、1冊だけ本が置かれていた。ほかには何もない。帳簿も、現金も、写真も。ただ1冊の本だけが、大切に包まれるように布へくるまれている。池尻は白い手袋をはめ、その布をゆっくりほどいた。現れたのは、古びた児童文学の本だった。表紙は色あせ、角は丸く擦れている。しかし何度も読み返されたことが分かるほど、大切に扱われていた。見返しには、小さな文字で名前が書かれていた。だが、その部分だけが丁寧に切り取られている。稲野が小さく息をのむ。
「またや……」
池尻は静かに頷いた。
「名前だけが消されています。今までと同じです」
昆陽は本を見つめながら呟く。
「この本、誰のものや」
池尻はページをめくる。紙の擦れ方、書き込み、折れ跡。それらを1つひとつ確かめながら言った。
「文房具店の息子が読んでいた本だと思います。子どもの頃から何度も読んでいます。でも最後まで、大切に残そうとしていた。」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。池尻は慎重にページをめくっていく。途中で指が止まった。1枚の栞が挟まれている。紙ではない。厚手の画用紙を細く切った、手作りの栞だった。表には、小さな花が色鉛筆で描かれている。裏返す。そこには鉛筆で、幼い字が残されていた。
『ここまで読めたら、本当のことを知ってください』
部屋が静まり返る。昆陽は、その文字を何度も見つめた。
「……少年が書いたんか?」
池尻はゆっくり頷く。
「たぶん。筆圧も、文字の揺れも、子どものものです」
そして、その文章をもう一度読む。
「『ここまで読めたら、本当のことを知ってください』」
まるで30年後の誰かへ向けて書かれた言葉だった。いや読んでくれる人を信じて、未来へ残した文章なのかもしれない。本をさらに読み進める。物語は終盤へ近づく、そのときだった。池尻の指先が、本の裏表紙にわずかな違和感を覚えた。
「……昆陽さん。少し、見てもらえますか」
裏表紙を軽く押す。紙がわずかに浮いた。昆陽が慎重に観察する。
「隠しポケットや」
製本の内側へ、小さな封筒が収められていた。誰にも気づかれないよう、丁寧に貼り付けられている。池尻は封筒を取り出した。封はされていない。中から現れたのは、数枚の原稿用紙だった。鉛筆で書かれた文章。幼いながらも、1文字1文字を大切に書いた跡が残っている。池尻は静かに読み始めた。夏祭りの日、商店街で見たこと、大人たちの言い争い、何かを拾ったこと、そして…。
「『だから、ぼくは手紙を書きました』」
という一文までが記されていた。昆陽は息をのむ。
「本人の手記……」
「そうです。」
池尻は静かに答える。
「今までで初めての…少年自身の言葉です」
しかし最後のページをめくろうとした、その瞬間だった。池尻の指先が止まる。
「……ありません」
昆陽が顔を上げる。
「どうした」
池尻は原稿用紙を数えた。1枚、2枚、3枚、そして最後。紙は途中で終わっている。破られた跡が、きれいに残っていた。最後の1枚だけが抜き取られている。それは現在で見つかった大学ノートと同じだった。誰かが、最も重要な部分だけを持ち去っている。池尻は破断面を静かに見つめる。焦らず、感情に流されず、ただ事実だけを受け止める。
「また……」
小さく呟く。
「最後のページだけが、読めない」
地下保管庫には沈黙が流れた。30年間守られ続けた一冊の本。ようやく開くことができたその物語もまた、結末だけが誰かの手によって閉じられていた。地下保管庫の空気は、ひんやりと肌にまとわりついていた。ロッカーから見つかった児童文学。その裏表紙に隠されていた封筒。そして、文房具店の息子が残した手記。30年という時間を越え、ようやく本人の言葉が池尻たちの前に現れた。池尻は深く息を整え、1枚目の原稿用紙を静かに読み始める。昆陽と稲野も、その横で耳を澄ませた。そこには、幼いながらも丁寧な字で、こんな書き出しがあった。
―七月二十六日ー
―ぼくは、お父さんのお店の手伝いをしていましたー
文房具店、夏休み前日。夏祭りの準備で商店街は朝から賑わっていたという。色とりどりの飾り、笑い声、子どもたちが走り回る音。その情景が、少年の言葉で素直に綴られていた。しかし、途中から文章の雰囲気が変わる。
―夕方、お店の裏で、大人の人たちが言いあらいをしていましたー
―ぼくは見つからないように見ていましたー
池尻はその一文で目を止めた。
「昆陽さん。この『見ていました』という表現」
「どうした」
「誰かに見せるためではありません。自分が見た事実だけを書いています」
昆陽は頷いた。
「感想がほとんどない。」
「はい。だから信用できます」
池尻は再び読み進める。手記には、少年が目撃した出来事が続いていた。大人たちは何かを激しく言い争っていた。1人が紙を握り締めている。もう1人が、それを奪おうとしている。内容までは分からない。しかし、その紙が非常に大切なものだったことだけは、少年にも伝わっていた。やがて大人たちは別々の方向へ去っていく。少年は、その場に落ちていた1枚の紙を拾う。それが、後に焼けた本から見つかった「あの手紙」だった。稲野が息をのむ。
「じゃあ……手紙は最初から少年が持っていたんやない」
池尻は頷く。
「偶然、拾ったんです。だから、誰にも返せなかった」
昆陽は腕を組み、考え込む。
「そして、その内容を読んだ」
「はい。だから少年は、自分でも手紙を書こうと思った」
次のページには、さらに重要な記述があった。
―ぼくを見ている人がいましたー
―ぼくはこわくなって走りましたー
―「待て」と言われましたー
池尻は思わず昆陽を見た。2人の頭には、同じ記憶が浮かんでいた。30年前のカセットテープ。雑音の中に残されていた、大人の声「待て!」、そして少年の叫び「返して!」音声と手記が、1つにつながった瞬間だった。昆陽は静かに呟く。
「録音は本物やった。少年は本当に追われとった」
池尻は淡々と答える。
「はい。文字と音、別々に残された証拠が一致しました」
それは推測ではない。事実だった。さらに手記は続く。
―だから、ぼくは手紙を書きましたー
―ぼくが見たことを書きましたー
―あの人は、火をつけていませんー
その一文で文章は一度終わる。続きがあるはずだった。しかし。そこには、紙が破り取られた跡だけが残っている。池尻は原稿用紙を裏返し、破断面を静かに見つめた。焦りはなかった。怒りもない。あるのは、積み重ねた事実を整理する冷静さだけだった。
「……分かりました」
昆陽が顔を上げる。
「何がや」
池尻は手記を机へ置き、ゆっくりと言った。
「最後のページは、犯人が持っています」
地下保管庫に沈黙が落ちる。稲野が思わず声を漏らした。
「どうして、そう思うんや」
池尻は1枚ずつ証拠を並べ始める。
「大学ノート。最後が抜かれていました。写真、1枚だけ持ち去られていました。卒業アルバム、名前だけが切り取られていました。そして…」
手記を見つめる。
「これも最後だけがない」
昆陽はゆっくりと息を吐く。
「全部…同じ人間の仕事か」
「そう考えるのが自然です。犯人は、結末だけを持ち去っています」
池尻は静かに続けた。
「犯人は、真実を隠したいんじゃありません。最後だけは、自分の手で読ませたいんです」
昆陽は天井を見上げた。その表情には驚きと、どこか苦さが混じっている。
「つまり犯人は、最後の証拠を持ったまま…30年間、生きてきたということか」
池尻は短く頷いた。
「はい。だから今でも事件を、1冊の本として書き続けている」
昆陽は苦笑する。
「ほんまに厄介な作者や。でも、そろそろ終章やな」
池尻は返事をしなかった。まだ終章ではない。犯人は、まだページをめくらせるつもりでいる。そんな予感がしていた。
地下保管庫を出た頃には、外は夕暮れに染まっていた。商店街には買い物客の姿が戻り、子どもたちの笑い声が響いている。30年前の出来事など知らない人々が、いつもの日常を過ごしていた。池尻は静かに空を見上げる。その時だった、ポケットの中で携帯電話が震えた。画面を見る。
「非通知」
初めてだった。これまで犯人は、決して直接接触してこなかった。昆陽が緊張した声を上げる。
「出るなよ」
しかし池尻は、小さく首を振った。
「……出ます」
通話ボタンを押す。
「もしもし」
数秒間、沈黙が続く。聞こえるのは、かすかな呼吸だけ。そして落ち着いた、低い男の声が響いた。
「読書家の君なら、もう結末は分かるだろう」
それだけだった。通話は切れる。池尻は携帯電話を静かに下ろす。昆陽が尋ねる。
「何て言った?」
池尻はゆっくりと答えた。
「……犯人は、僕を読者ではなく。」
一拍置き、まっすぐ前を見据える。
「最後まで読み切れる相手として、選んだみたいです」
夕暮れの商店街を、一陣の風が吹き抜ける。物語は、いよいよ最後の1冊へとページをめくろうとしていた。




