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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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13/15

最後の読書会

 

「読書家の君なら、もう結末は分かるだろう」


その一言だけを残して、非通知電話は切れた。わずか数秒。しかし、その短い通話は捜査本部の空気を一変させていた。これまで犯人は、印刷されたメッセージだけで池尻たちを導いてきた。初めて聞いた『声』は、姿の見えない犯人が初めて現実へ一歩踏み出した証でもあった。




翌朝。県警科学捜査研究所では、音声解析が始まっていた。担当技官は録音データを何度も再生し、最新の解析ソフトを用いてノイズを除去していく。声紋、呼吸音、背景音、通信品質。すべてが細かく調べられた。昆陽は腕を組みながら結果を待つ。


「どうや」


技官は申し訳なさそうに首を振った。


「厳しいですね。音声は意図的に抑えて話されています。周囲の生活音も一切入っていません。録音場所は、特定できません。年齢は40代から60代くらいまでは推測できます。ただ、それ以上は断定できません」


昆陽は眉間に皺を寄せた。


「声紋照合は」

「前科者や登録データとも一致しませんでした」


しばらく沈黙が流れる。やがて技官が付け加えた。


「犯人は、こちらが解析することまで計算していたのでしょう」


昆陽は静かに頷く。


「そういう相手や。最初から証拠を残すつもりで、残らん証拠しか置いてへん」






一方、池尻は解析結果にはほとんど興味を示していなかった。彼は研究所の一室で、録音を何度も再生していた。だが、聞いているのは声ではない。言葉だった。再生、停止。再生、停止。昆陽が隣へ来る。


「まだ聞くんか」

「はい」

「何か引っ掛かるか」


池尻は少し考え、録音機を止めた。


「昆陽さん。犯人は、結末を”知っているか”とは聞いていません。“結末は分かるだろう”と言いました」


昆陽は首をかしげる。


「同じようなもんちゃうんか?」

「違います」


池尻は静かに首を振った。


「本を読み終えた人に先生がする質問があります。『結末は分かりましたか』これは、内容を暗記したかではありません。物語を理解できたか、作者の意図まで読めたか。そういう確認なんです」


昆陽はゆっくり息を吐いた。


「つまり、電話は挑発やないと」

「はい」


池尻は迷いなく答えた。


「これは読解問題です。犯人は、僕がどこまで読めたか確認したかった」





その日の午後、昆陽は警察署内の大会議室を丸ごと捜査室へ変更した。


「全部持ってこい」


その一言で、証拠品が次々と運び込まれてくる。30年前の古地図、青葉堂の大学ノート、昭和時代の写真、焼け焦げた児童文学、カセットテープ、火災当時の消防資料、事情聴取記録、名簿、卒業アルバム、少年の手記。そして12通のメッセージ。広い会議室の壁いっぱいに、それらは年代順に貼られていった。まるで1冊の巨大な本を、壁いっぱいに開いたようだった。稲野は思わず呟く。


「ここまで並ぶと……事件じゃなくて、本やな」


昆陽も苦笑した。


「犯人が見たら喜びそうや」


しかし池尻だけは静かだった。壁に沿ってゆっくり歩き、1枚1枚を眺める。立ち止まる。読み返す。また歩き出す。図書館の書架を巡るような自然な足取りだった。やがて池尻は、歴代のメッセージだけが並ぶ場所で足を止めた。


「昆陽さん。気づいたことがあります」

「何や」


池尻は最初の紙を見つめた。


「第1通、誰でも意味が分かります」


次。


「第2通、まだ事件を知らない人でも読めます」


さらに次へ。


「でも第3通から、本、読者、第一章、続きを読む資格、鍵、物語…比喩が少しずつ増えていきます。」


昆陽も壁を見つめる。確かにそうだった。犯人は少しずつ言葉を変えていた。事件を知らない人には意味が分からない文章へ。池尻は静かに続ける。


「もし途中から読む人がいたら、意味が分からない。でも最初から順番に読んできた人だけは、理解できる。つまり…」


壁一面のメッセージを見渡す。


「犯人は証拠を残していたんじゃありません。読者を選別していたんです」


昆陽は腕を組んだまま動かなかった。これまでの違和感が、1つずつ形になっていく。なぜ犯人は証拠を捨てなかったのか。なぜ鍵を残したのか。なぜ地図を送ったのか。すべては『読める者』だけが先へ進めるようにするため。それは捜査への挑戦ではない。1冊の本を最後まで読める読者を探す行為だった。昆陽は苦笑する。


「警察を相手にしとるんやない。読者を探しとったんか」

「はい」


池尻は頷いた。


「そして犯人は、もう読者を見つけました」





夕暮れ。捜査室を出る前、稲野が不安そうに尋ねた。


「池尻くん。これから犯人はどう動くと思う?」


池尻は窓の外を見つめた。サンロード商店街の屋根が夕日に染まり、人々はいつも通り家路を急いでいる。静かな景色だった。だが、その静けさの向こうに、誰かがこちらを見ている気がした。池尻はゆっくりと振り返る。


「もう、証拠だけでは足りません」


昆陽の表情が引き締まる。


「どういう意味や」


池尻は穏やかな声で答えた。


「犯人は、僕が最後まで読んだことを確認しました」


一瞬、部屋が静まり返る。そして池尻は、これまでで最も確信に満ちた口調で言った。


「次は…犯人は、会いに来ます」


その言葉は予想ではなかった。長い物語を読み続けた読書家が、作者の次の一頁を静かに読み切った、その確信だった。池尻が「犯人は次に会いに来ます」と断言した翌日。その予感は、あまりにも静かに現実となった。





朝8時過ぎ。警察署の受付へ、一通の白い封筒が届けられた。差出人の記載はない、切手も消印もない。これまでと同じ上質紙の封筒。受付職員が気づいた時には、すでに誰の姿も見当たらなかったという。昆陽はすぐに鑑識を呼び、封筒は慎重に開封された。中には、白い紙が1枚だけ。印刷された文字は、たった一行だった。


『感想を聞かせてほしい』


会議室が静まり返る。稲野は思わず息をのんだ。


「……これだけ?」


昆陽も紙を見つめたまま、小さく呟く。


「今までで一番短い。せやけど、一番不気味や」


池尻だけは、静かにその紙を見つめ続けていた。『感想』その2文字は、これまで犯人が使ってきたどの言葉とも違っていた。


『知っている者』

『最後の一頁』

『続きを読む資格』

『鍵』


それらはすべて、物語を読む行為を前提としていた。しかし今回は違う。物語を読み終えた者にしか使わない言葉だった。池尻は小さく呟く。


「読み終えた後の質問です」


昆陽が振り向く。


「どういう意味や」

「本を読み終えた人へ、作者が尋ねるんです。」『どうでしたか』『何を感じましたか』つまり…」


池尻はメッセージを見つめた。


「犯人は、初めて僕たちを読者として扱っています」


昆陽は眉をひそめる。


「読者」

「はい。これまでは試験でした。でも今回は違います。感想を求めています。作者が、読者へ」




 


その日の午後、池尻は図書館へ向かった。いつもの窓際の席へ座る。机の上には、これまで集めた資料の写し。そして真っ白な便箋が1枚。しばらくペンを持ったまま動かなかった。昆陽が静かに隣へ腰掛ける。


「まさか、返事を書く気やないやろな」


池尻は頷いた。


「書きます」


昆陽は思わず声を強める。


「相手は連続殺人犯やぞ!居場所を教えるようなもんや、危険すぎる」


しかし池尻は落ち着いた表情のままだった。


「昆陽さん、これは交渉じゃありません。挑発でもありません。」


一度言葉を切る。


「これは、犯人との対話です」


昆陽は黙り込む。池尻は続けた。


「犯人は30年間、1冊の本を書き続けてきました。そして、初めて読者に感想を求めた。返事をしなければ、物語は止まります。」


昆陽は長く息を吐いた。


「…ほんまに、本しか見えとらんのやな」


池尻は少しだけ笑った。


「だから、ここまで来られました」




その夜。池尻は一人、自宅で便箋に向かった。何度も書き直すことはしなかった。考え抜いた言葉を、1文字ずつ丁寧に綴る。感情ではなく、推理でもなく、読者として。作者へ返事を書く。やがて書き終えた便箋には、短い文章だけが残っていた。


『あなたは真実を隠したかったのではなく、最後まで正しく読んでほしかったのでしょう』


それだけだった。余計な言葉はない。責める言葉も、問いかけも、名前も。池尻は便箋を静かに封筒へ入れた。






翌朝。池尻、昆陽、稲野の3人はサンロード商店街へ向かった。まだ店の多くは開店準備中だった。商店街中央の古い掲示板。夏祭りのポスターや自治会のお知らせが貼られている木製の掲示板だ。ここはこれまで何度も事件の舞台となった場所でもある。池尻は画鋲を取り出し、自分の封筒を掲示板の中央へ留めた。昆陽が辺りを見回す。私服警官が数名、商店街へ紛れて警戒している。防犯カメラも追加された。逃げ道も押さえてある。


「これだけ囲めば…もし取りに来たら捕まえられる」


稲野も頷く。


「今度こそ姿を見られるかもしれない」


しかし池尻だけは静かだった。


「犯人は、見つかりません」


昆陽が苦笑する。


「またその確信か」

「はい。でも、返事は必ず読みます」





1日が過ぎた、夕方。封筒はそのまま残っていた。夜、警察が交代で監視を続ける。そして翌朝、3人は再び掲示板へ向かった。昆陽が足を止める。


「……ない」


掲示板には、昨日まで貼られていた封筒だけが消えていた。自治会のお知らせも、商店街の催し物も、防犯ポスターも、1枚も動いていない。持ち去られたのは、池尻の手紙だけだった。画鋲まで元の位置へ丁寧に戻されている。昆陽は思わず周囲を見回した。


「誰も見てへん。カメラにも映っとらん」


稲野の背中を冷たい汗が流れる。


「いつ…どうやって」


池尻は空になった掲示板を静かに見つめていた。そして、小さく微笑んだ。


「読んでくれました」


昆陽が振り向く。


「何やて」

「返事は届きました」


池尻は穏やかな表情のまま続ける。


「これで…作者は、読者の感想を受け取りました。」


その瞬間、昆陽は理解した。犯人はもう逃げているのではない。池尻との『対話』を、一歩ずつ進めているのだ。そして、その返事はきっと、もう書き始められている―…。


池尻が掲示板へ残した返事は、一夜のうちに姿を消した。監視カメラには何も映っていない。張り込みをしていた警察官も、不審な人物を見ていない。それでも、確かに封筒だけが持ち去られていた。犯人は読んだ。そして、返事を書く番は向こうになった。






二日後の朝。警察署の受付へ、また一通の封筒が届けられた。これまでと同じ、上質な白い封筒。差出人はない、消印もない。鑑識による確認を終えたあと、昆陽は静かに封を切った。中には紙が1枚。印刷された文章は、たった一行だけだった。


『最終章で待つ』


それだけだった。昆陽は思わず息を吐く。


「……とうとう言うたな」


稲野も緊張した面持ちで紙を見つめる。


「最終章って……もう終わりなんや」


池尻は答えず、封筒の中へもう一度目を向けた。


「まだあります」


昆陽も中を覗き込む。1枚の古びた写真が、丁寧に挟まれていた。写真は白黒だった。経年による黄ばみはあるが、保存状態は良い。裏面には何も書かれていない。表には、30年前のサンロード商店街。夏祭りの飾り付け。色鮮やかな吹き流しは白黒写真でも風に揺れている様子が伝わってくる。屋台、浴衣姿の家族、走り回る子どもたち、そして中央には一人の少年。満面の笑みを浮かべ、紙風船を抱えている。誰が見ても分かった。文房具店の息子だった。稲野は静かに呟く。


「こんな笑顔……今まで1枚もなかった」


池尻は頷いた。


「事件の前です。だから、まだ普通の子どもだった頃です」


昆陽は写真を見つめながら言う。


「この数時間後には、運命が変わる」


誰も返事をしなかった。池尻は手袋をはめ、ルーペを取り出した。写真を机へ置き、ゆっくりと観察を始める。人物、背景、屋台の配置、提灯、影、祭りの飾り。細部を1つずつ確かめていく。昆陽はその様子を黙って見守っていた。やがて池尻の視線が、1点で止まる。少年の少し後ろ、屋台の陰。そこには1人の大人が立っていた。背広姿で腕を組み、少年の方を見ている。しかし、ちょうど提灯が顔へ重なり、目元から上が影になっている。表情は分からない。年齢も、顔立ちも、判別できない。池尻は写真をさらに近づける。数分間、言葉を発さなかった。そして静かに顔を上げる。


「昆陽さん、犯人は。」


一拍置く。


「この写真の中にいます」


部屋の空気が張り詰めた。稲野が思わず声を上げる。


「本当か?!」


池尻は冷静だった。


「断定できます」

「理由は」


昆陽が尋ねる。池尻は写真の少年を指差した。


「犯人は30年間、この少年を見続けています。写真、手紙、録音、大学ノート、児童文学、全部。少年を中心に残されていました。つまり犯人自身も、少年を見ていた人物です」


そして、背後の大人へ視線を移す。


「この人だけが、少年を見ています。他の人は、祭りを楽しんでいる。でも、この人だけは違う」


昆陽は写真を見つめた。確かに、周囲の視線は屋台や家族へ向いている。ただ一人だけ。この人物だけが少年を見ていた。



昆陽はすぐに30年前の資料を広げた。写真、名簿、消防記録、祭りの実行委員名簿、当時の新聞。これまで調べ尽くした資料をもう一度並べる。写真の立ち位置、背丈、服装、祭りの担当区域。そして、火災当日の行動記録。1時間以上が過ぎた。やがて昆陽は1枚の名簿へ手を置いた。


「……これやろな」


稲野が息をのむ。


「分かったんですか?」


昆陽は静かに頷いた。


「まだ証拠は足らん。せやけど、候補は一人になった」


部屋が静まり返る。名前はまだ口にしない。今は、その時ではない。犯人自身が、まだ最後のページをめくらせていないからだ。





その夜、池尻は大学図書館を訪れていた。閉館間際の静かな閲覧室。いつもの窓際の席へ座る。目の前には、何冊もの本。事件資料。そして、文房具店の息子が愛読していた児童文学。池尻はその本を静かに開いた。最後まで読むことのできなかった物語。抜き取られた最後の1枚。それは事件そのものと重なっていた。ページをゆっくりと閉じる。窓の外では夕暮れが夜へ変わろうとしていた。池尻は小さく微笑み、誰に聞かせるでもなく呟く。


「次で……」


本の表紙へそっと手を添える。


「この本は終わります」


その静かな言葉とともに、長い物語は、いよいよ最後の一章へとページをめくろうとしていた。



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