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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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14/15

最後の一冊


第14通目のメッセージは、それまでで最も短く、それまでで最も重い一文だった。


『最終章で待つ』


池尻は何度もその紙を読み返していた。文字数はわずか6文字。しかし、その6文字の中には、犯人が30年間かけて積み上げてきたすべてが詰まっているように思えた。



図書館の静かな閲覧室。窓から差し込む午後の光が、机の上に広げられた資料を照らしている。大学ノート、焼け焦げた児童文学、少年の手記、カセットテープの解析結果、古地図。そして、14通のメッセージ。池尻はそれらを順番に並べ、1枚ずつ静かに眺めた。やがて、最後のメッセージへ視線を戻す。


「最終章……」


その言葉を小さく口にすると、隣にいた昆陽が尋ねた。


「何か分かったんか」


池尻は少し考え、ゆっくり首を横へ振った。


「最初は場所を示していると思いました。でも違います。場所ではありません。」

「じゃあ何や」

「物語です」


昆陽は腕を組む。


「また本の話か」


池尻は小さく笑った。


「はい。でも今回は、本当に本なんです。」


彼は最初のメッセージから順番に指でなぞっていく。


「『次は、本当に知っている者が死ぬ』『本は最後の一頁から読んではいけない』『ようやく、第一章を読み終えた』『続きを読む資格があるか、試してみよう』『最終章で待つ』」


 一つひとつの言葉を並べると、それは事件ではなく、一冊の本を読むための案内になっていた。


「犯人はずっと、事件を本として読ませようとしていました。だから…最終章とは、最後の場所ではありません。最後の一頁です」


昆陽は静かに頷いた。


「つまり、事件が終わる場所やな」

「はい。真実が全部そろう場所です」





その日の午後。3人は再び写真を広げていた。30年前の夏祭り。笑顔の少年。その背後に立つ、顔の半分を提灯の影に隠した人物。池尻はルーペを手に、背景を丹念に観察していた。


「人物じゃないんです」


そう言って、彼は写真の左端を指差した。


「見てください」


昆陽が顔を近づける。


「提灯か」

「はい。この提灯、夏祭りだけに飾られる特注品です」


池尻は商店街の古い写真集を取り出した。そこには祭りごとの飾り付けが記録されている。


「昭和59年だけ、提灯はこの並び方でした」


さらに古地図を重ねる。


「そして、この角度から撮影できる場所は一か所しかありません」


昆陽の目が細くなる。


「火災現場か」

「正確には…」


池尻は静かに答えた。


「火災現場になる前の場所です。つまり30年前、事件が始まる直前に、少年が最後に笑っていた場所」


部屋が静まり返った。偶然ではない。犯人は最初から、その場所へ導いていたのだ。



捜査本部は慌ただしく動き始めた。夕方までに警察官が集められ、周辺道路は封鎖される。私服警官、機動隊、狙撃位置の確認、逃走経路の封鎖。現場周辺には目立たぬよう警察車両が配置された。昆陽は現場指揮官へ指示を飛ばす。


「包囲は広めに取れ。一般人は絶対に近づけるな。犯人を見つけても勝手に動くな」


緊張した空気が流れる。その中で池尻だけは落ち着いていた。昆陽が近づく。


「こんだけ囲めば、さすがに逃げられへん」


池尻はゆっくり首を振る。


「逃げません」

「何?」

「犯人は、もう逃げる必要がありません。ここまで僕たちを導いた人です。最後だけ逃げる理由がありません」


昆陽はしばらく池尻を見つめた。


「信じとるんか、犯人を」


池尻は少しだけ考えた。


「信じてはいません。でも、約束は守る人です」


昆陽は苦笑した。


「最後まで読書家やな」





午後7時、夕暮れがゆっくりと夜へ変わり始める。30年前、文房具店が建っていた場所。そして火災が起きた跡地、今は小さな広場になっている。風に揺れる夏祭りの飾りだけが、静かな音を立てていた。池尻、昆陽、稲野はゆっくりと歩いていく。周囲には警察官が配置されているが、その姿は目立たない。広場の中央まで来た時だった。稲野が足を止める。


「あ……」


そこに、1の老人が立っていた。白い半袖シャツ、灰色の帽子、少し曲がった背中。両手を杖へ添え、静かに3人を見つめている。逃げる様子はない。隠れる様子もない。まるで、待ち合わせの相手を待っていただけのようだった。昆陽が一歩前へ出る。


「動くな」


しかし老人は穏やかに笑った。


「分かっています。今日は逃げません」


その声を聞いた瞬間。池尻は確信した。非通知電話で聞いた声だった。わずか数秒。それでも忘れることのない声。池尻は老人の前まで歩み寄る。2人の間には数歩の距離しかない。夕日が老人の横顔を赤く染めていた。池尻は静かに頭を下げる。


「あなたが…」


一呼吸置く。


「この物語の作者ですね」


老人は目を細めた。その表情には安堵と、どこか寂しさが入り混じっていた。そして、長い年月を終えた人だけが浮かべる穏やかな微笑みとともに、小さく頷く。


「ええ」


静かな声だった。


「よく……」


老人は池尻を真っすぐ見つめる。


「最後まで読んでくれました」


その言葉とともに、30年間閉じられていた物語の最後の扉が、ゆっくりと開き始めた。夕暮れの風が、夏祭りの飾りを静かに揺らしていた。30年前、文房具店が建っていた場所。そして、すべてが始まった場所。老人は杖に両手を添えたまま、池尻たちを静かに見つめていた。まるで長い物語を書き終えた作家が、最後の一頁を読み終えた読者を待っていたかのようだった。昆陽が一歩前へ出る。


「名前を聞いても」


老人は小さく首を振った。


「もう名前に意味はありません」


その言葉に、池尻はわずかに目を伏せる。第6通目のメッセージ。


『名前を失えば、過去は誰のものでもなくなる』


あの言葉は、老人自身の覚悟でもあったのだ。老人は池尻へ視線を向ける。


「あなたは、最後まで読めましたか」


池尻は静かに首を横に振った。


「まだ、1枚だけ足りません。最後のページです」


老人は穏やかに笑った。


「その通りです。だから今日は、その続きを話しましょう」


老人はゆっくりと語り始めた。


「30年前のあの日。商店街で死んだのは、火だけではありませんでした」


誰も口を挟まない。


「祭りの準備が終わった夕方。文房具店の息子は、届け物を頼まれて商店街の裏通りへ行きました。そこで…」


老人は静かに目を閉じる。


「人が殺される瞬間を見てしまったのです」


稲野が思わず息をのむ。


「殺人…」

「ええ」


老人は続ける。


「少年は火事を見たのではありません。火事より先に、殺人を見たのです。」


昆陽の表情が変わる。30年間「火災事故」とされてきた事件。その始まりは火ではなく、人の死だった。老人の声は静かだった。感情を押し殺すでもなく、美化するでもない。ただ事実だけを語る口調は、どこか池尻に似ていた。


「殺された人は…当時、ある不正を知ってしまいました。商店街の再開発を巡る金の流れ、帳簿、偽装契約、口止め、それを知ったため…命を奪われた」


昆陽は拳を握る。


「そして、その証拠を消すために火を放った」


老人は静かに頷いた。


「はい。火災は事故ではありません。殺人を隠すための放火でした」


夕暮れの空が赤く染まっていく。30年間、事故として扱われた火災。その真実が、ようやく言葉になった。


「少年は逃げました。」


老人は続ける。


「自分が見たことを、誰かへ伝えようとして」


池尻は自然と頷く。古地図、赤い線、少年が走った経路。あれは逃走経路ではなかった。届けるための道だった。


「少年は、無実の人が疑われるのを知っていました。だから手紙を書いた。誰かを告発するためではありません。間違った人を犯人にしないためです」


昆陽は焼け残った手紙の一節を思い出す。


『あの人は火をつけていません。』


あの文章は、犯人を示すためではなく。無実を証明するために書かれていた。池尻は静かに言う。


「少年は…最後まで誰かを守ろうとしていたんですね」


老人は深く頷いた。


「ええ。だから私は、この子だけは…忘れられてはいけないと思いました」


しばらく沈黙が流れた。やがて老人は、胸元の内ポケットへゆっくり手を入れた。昆陽の手が反射的に動く。しかし老人が取り出したのは、古びた茶色の封筒だった。丁寧に折り畳まれ、角は擦り切れている。


「これが…」


老人は封筒を見つめた。


「最後のページです」


池尻は封筒へ視線を向ける。それを見つめる老人の表情には、30年という歳月が刻まれていた。


「なぜ」


池尻が静かに尋ねる。


「30年間、持ち続けたんですか」


老人は苦く笑った。


「怖かったからです。警察も、世間も。誰も真実を見ようとしなかった。このページだけでは、誰も信じてくれないと思いました」


少し間を置く。


「だから、真実を読むことのできる人を待った」


老人は池尻を見つめる。


「証拠だけを見る人ではなく、最後まで読む人を」


昆陽は静かに口を開いた。


「そのために、2人も殺したんか」


老人は目を閉じた。


「はい。青葉堂の店主は、最後のページの存在に気づいていました。もう一人も30年前の真実を知りながら、沈黙を選びました」


老人の声は震えていた。


「私は許せなかった。真実を知りながら何十年も、少年だけを置き去りにした人たちを」


稲野は言葉を失う。昆陽は静かに一歩前へ出た。


「理由は分かった。せやけど…人を殺し裁く権利は、誰にもない」


老人はゆっくり頷いた。


「その通りです。だから、今日は終わりに来ました」


昆陽は真っすぐ老人を見つめた。その声は静かだった。


「あなたを、連続殺人事件及び30年前の放火・殺人事件に関する重要参考人として…」


一度息を吸う。


「逮捕します」


老人は抵抗しなかった。ゆっくりと両手を前へ差し出す。そして、その前に茶色い封筒を池尻へ差し出した。


「読書家の君へ」


池尻は両手で受け取る。封筒は驚くほど軽かった。しかし、その重みは30年分の真実だった。老人は穏やかに微笑む。


「これで物語を…」


一拍置いて、池尻は小さく続けた。


「最後まで読めます」


池尻は静かに封筒を胸に抱いた。それは、少年が命を懸けて守ろうとした、たった1枚の『最後のページ』だった。


夕暮れの光は、ゆっくりと商店街を包み込んでいた。昆陽に逮捕を告げられた老人は、何ひとつ抵抗しなかった。両手を前へ差し出したあと、静かに池尻へ封筒を託した。それは30年間、誰にも読まれることなく守られてきた1枚だった。池尻は両手で受け取る。封筒は古く、紙はすっかり黄ばんでいる。けれど、中に入った最後のページだけは、まるで『この日』を待ち続けていたかのように大切に守られていた。


ゆっくりと封を開く、誰も声を出さない。風の音だけが、夏祭りの飾りを揺らしていた。最後のページには、幼い文字が丁寧に並んでいた。ところどころ震えた筆跡。急いで書いた跡。それでも、1文字1文字に強い意思が宿っていた。池尻は静かに読み始める。


少年は、火災の前に見たことを書き残していた。裏通りで、1人の大人が倒れたこと。誰かが慌てて走り去ったこと。そのあと火が上がったこと。自分は怖くて逃げたこと。そして、自分のせいで別の人が疑われていることを知り、どうしても本当のことを伝えたかったこと。池尻はゆっくりとページを読み進める。昆陽も稲野も、その表情を見守っていた。そして、最後の数行へ視線が届く。池尻の指先が、わずかに震えた。


「……」


そこには、誰も予想していなかった言葉が書かれていた。犯人の名前ではない。告発でもない。恨みでもない。少年が最後に残した一文は、たったそれだけだった。


『誰も憎まないでください』


その場に、深い静寂が降りた。稲野は思わず目を閉じる。昆陽も帽子を取り、静かに頭を下げた。30年間、多くの人が真実を探し続けた。しかし、一番真実に近かった少年は、最後まで誰かを責めることを選ばなかった。池尻は最後まで読み終えると、そっと紙を封筒へ戻した。目には涙が浮かんでいた。それでも涙は流さなかった。本を読み終えた読者のように、静かに息をつき、少年の児童文学を胸へ抱く。そして、ゆっくりと本を閉じた。ぱたり、と小さな音が響く。それは、1冊の長い物語が終わった音だった。


老人は警察官に付き添われ、静かに歩き出した。最後まで一度も振り返らない。その背中を見送りながら、昆陽がぽつりと言った。


「池尻」

「はい」

「お前がおらんかったら…」


昆陽は夕暮れの広場を見渡した。


「この事件は、永遠に事故のままやった」


池尻は少しだけ微笑む。


「僕1人ではありません。昆陽さんが事実を積み重ねてくれた。稲野さんが商店街を信じ続けた。青葉堂の店主も、少年も。みんなが最後のページへつないでくれました」


昆陽は照れくさそうに笑った。


「ほんま、最後まで先生みたいなこと言うな」


2人は小さく笑い合った。





稲野は静かに商店街を見つめていた。30年前。自分は第一発見者となり、疑われた。どれだけ無実を訴えても、不安は消えなかった。だが今、その胸を締めつけ続けていた重荷が、ようやく消えていくのを感じていた。


「終わったんやね」


池尻は頷く。


「はい。ようやく、本当に終わりました」


稲野は空を見上げた。夏祭りの飾りが風に揺れている。30年前には見上げることのできなかった空だった。





夏祭り当日。サンロード商店街には、多くの人が集まっていた。色とりどりの吹き流し、子どもたちの笑い声、屋台から漂う香ばしい匂い。長く中止されていた夏祭りが、30年ぶりに復活したのだ。商店街の人々は笑顔で準備をし、新しい世代の子どもたちが短冊を飾っている。祭りの一角には、小さな木製の看板が立っていた。


ー青葉堂読書スペースー


事件で失われた古本屋を忘れないため、商店街の人々が力を合わせて作った小さな読書の場所だった。本棚には寄贈された本が並び、誰でも自由に読むことができる。窓際の椅子には、1人の青年が静かに腰掛けていた。池尻だった。今日も1冊の本を開き、穏やかな表情でページをめくっている。もう事件の資料ではない。ただ、1冊の物語だった。


そこへ、小さな男の子が近づいてきた。ランドセルを背負い、不思議そうに池尻を見上げる。


「お兄ちゃん」


池尻は顔を上げ、優しく微笑んだ。


「どうしたの」


男の子は池尻の本を指差す。


「その本、おもしろいですか?」


池尻はページへ栞を挟み、静かに本を閉じた。そして少年と同じ目線になるよう腰をかがめ、優しく笑って答えた。


「うん。でも、本は最後のページまで読まないと、本当のおもしろさは分からないよ」


男の子は嬉しそうに頷く。


「じゃあ、ぼくも最後まで読む」

「うん。きっと、そのほうがいい」


夏の風が吹き抜け、夏祭りの飾りがさらさらと音を立てた。商店街には子どもたちの笑い声が響く。もう、この場所に止まった時間はない。悲しみも、秘密も、長い沈黙も、すべては最後のページまで読まれ、1冊の物語となった。


池尻はもう一度、本を開く。新しい物語の最初の一頁をめくるように。その静かな読書の姿を見守るように、サンロード商店街の夏空には、色とりどりの夏祭りの飾りがいつまでも優しく揺れていた。



事件は解決しましたが、よければあと1話お付き合いください。

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