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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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15/15

エピローグ 最後の読者


あの事件から1年が過ぎた。


季節は再び七月を迎え、サンロード商店街には色とりどりの吹き流しが風に揺れていた。30年間途絶えていた夏祭りは、昨年の復活をきっかけに恒例行事となり、今年も多くの人で賑わっている。子どもたちが短冊を手に走り回り、商店主たちは笑顔で屋台の準備を進めていた。どこからか焼きそばの香りが漂い、遠くでは夏祭りの飾りを結ぶ子どもの笑い声が聞こえる。かつて事件の記憶に覆われていたこの商店街は、ようやく「普通の日常」を取り戻していた。その商店街の一角。かつて古本屋・青葉堂があった場所には、小さな木の看板が立っている。


ー青葉堂読書スペースー


事件で亡くなった店主を忘れないため、そして「本を読む場所を残したい」という商店街の人々の願いから作られた、小さな読書室だった。大きな図書館のような蔵書はない。けれど、地域の人々が持ち寄った本が整然と並び、窓際には木製の机と椅子が置かれている。休日になると、子どもたちが宿題をしたり、高齢者が新聞を読んだり、本好きが静かにページをめくったりする。誰にでも開かれた、優しい場所になっていた。




「池尻くん、こっちの棚お願い」


声を掛けたのは稲野だった。1年前とは見違えるほど明るい表情で、段ボールいっぱいの寄贈本を運んできている。


「はい」


池尻は笑顔で頷き、本を受け取った。大学卒業を目前に控えた彼は、休日になると読書スペースの整理を手伝うのが習慣になっていた。分類を考え、本棚を整え、傷んだ本を補修する。その作業は事件の捜査とは違い、誰かを疑う必要のない穏やかな時間だった。数人の子どもたちが近づいてくる。


「池尻先生!」


池尻は苦笑する。


「先生じゃないよ」

「でも本読んで!」

「今日は何がいい?」


子どもたちは口々に好きな本を挙げ始めた。


「冒険!」

「恐竜!」

「探偵!」


その言葉に池尻は少し笑う。


「探偵は人気なんだね。」

「うん!」

「池尻先生みたいになりたい!」


周囲の大人たちが思わず笑った。池尻は少し照れながら、本棚から児童向けの推理小説を1冊取り出した。


「じゃあ今日は、この本にしよう」


子どもたちは椅子へ集まり、目を輝かせる。池尻は静かに読み聞かせを始めた。本を読む声だけが、読書スペースへ穏やかに響いていく。



「相変わらず人気者やな」


聞き慣れた声がした。振り返ると、昆陽が入口に立っていた。今日は仕事帰りなのか、軽装のまま缶コーヒーを片手に笑っている。


「昆陽さん」

「久しぶり。最近どうや」


池尻は本を閉じて答える。


「平和です。それが一番ですね」


昆陽は肩をすくめた。


「せやけど、事件がないと刑事は退屈や。最近は迷い猫と財布の落とし物ばっかりや」


稲野が笑いながら口を挟む。


「平和になった証拠やないですか。文句言わんといてください」

「それはそうなんやけどな」


昆陽も笑った。


「でも、たまには池尻の推理が聞きたくなるわ」

「僕は事件がないほうが好きです。読書だけして暮らせたら十分です」

「それもお前らしいわ」


3人は顔を見合わせ、小さく笑った。あの事件を共に乗り越えたからこその、穏やかな空気だった。





夕方になり、読書スペースの利用者も少なくなった。池尻は寄贈された本を1冊ずつ分類しながら、本棚の奥まで丁寧に整理していく。百科事典、児童文学、歴史書、図鑑。棚の一番奥へ手を伸ばした、その時だった。


「……あれ」


1冊だけ、ほこりをかぶった古い本が残っていた。貸出カードを見る。真っ白だった。一度も借りられた記録がない。池尻は本を取り出す。茶色く色褪せた布張りの表紙。角は擦り切れ、長い年月を感じさせる。その瞬間、池尻は小さく息をのんだ。


「これ……」


見覚えがあった。地下保管庫の古いロッカーにあった、少年が大切に保管していた児童文学。その本とまったく同じ版だった。もちろん、あの本は資料として保管されている。これは別の1冊だ。だが、装丁も出版社も発行年も同じだった。


「どうした?」


昆陽が近づいてくる。


「同じ本です。文房具店の息子さんが読んでいた本と」


昆陽も静かに表紙を見つめた。


「偶然か」

「たぶん。でも…本って、不思議ですね。同じ物語でも、何冊も誰かの人生に寄り添う。」


池尻はそっと表紙をなでる。


「この本も、誰かに大切に読まれていたんでしょうね」


ゆっくりと本を開く。古い紙の香りが、静かに漂った。ページをめくる。1枚、また1枚。すると、途中で小さな音がした。


ーさらりー


薄い紙片がページの間から机へ滑り落ちる。池尻はそっと拾い上げた。細長い紙。手作りらしい質感。時間を経て少し黄ばんでいる。…栞だった。何の模様もなく、何も書かれていないように見える。しかし、紙の繊維は古く、どこか見覚えがある。池尻は首をかしげた。


「……」


もう一度、本を見返す。記憶をたどる。地下保管庫で発見された少年の愛読書、最後のページ、隠し封筒。あの時、この本には栞など挟まっていなかったはずだ。池尻は静かに栞を光へかざす。そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。


「……この栞、前はなかった」


読書スペースの窓から差し込む夕暮れの光が、机の上を淡く照らしていた。池尻は、その細長い栞を両手でそっと持ち上げる。古い紙特有の柔らかな手触り。何度も本に挟まれ、年月を重ねてきたことが分かる質感だった。昆陽が隣から覗き込む。


「何か書いてあるんか」


池尻は静かに首を横へ振った。


「今は、何も見えません」


稲野も近寄ってくる。


「真っ白やな」

「はい」

「でも…」


池尻は栞を裏返し、表へ戻し、ゆっくりと指先で縁をなぞった。


「真っ白ではありません。紙そのものが違います」


池尻は机の引き出しから白い手袋を取り出し、慎重に栞を持ち直した。


「見てください」


2人へ静かに差し出す。


「この紙、今の栞に使われる紙ではありません」


昆陽は首をかしげる。


「分かるんか」

「はい。繊維の入り方が違います」


池尻は紙の端を指差した。


「これは機械で大量生産された紙ではなく、昔の書籍によく使われていた紙です。少しだけ木材の繊維が粗い。だから時間が経つほど色が柔らかく変わります」


稲野が感心したように息をつく。


「そこまで分かるんやね」


池尻は少し照れたように笑う。


「本を読むだけじゃなくて、本そのものについて書かれた本も好きなので」


昆陽は苦笑した。


「ほんま、お前は何でも本から覚えるな」

「はい。たぶん…今回も、本が教えてくれると思います」


池尻は栞を窓際へ運んだ。強い光ではなく、障子越しの柔らかな夕日。その中で角度を少しずつ変えていく。


「何しとる」


昆陽が尋ねる。


「鉛筆です」

「鉛筆?」

「昔の鉛筆は、時間が経つと紙へ少しずつなじみます。普段は見えなくても、光の角度で跡だけ浮かぶことがあります」


栞をゆっくり傾ける。何も見えない。さらに角度を変える。その時だった…。


「……」


池尻の目が止まった。


「見えました」

「何や」

「線です」


ほんのわずかな筆圧。光を受けて、紙の上へ細い文字が浮かび始めていた。3人は机を囲む。池尻は息を整え、1文字ずつ読んでいく。かすれている。それでも、確かに誰かの筆跡だった。


「……ぼ……く……は」


少しずつ、少しずつ文字が現れる。まるで30年という時間が、ゆっくり紙の上から剥がれていくようだった。やがて文章になった。池尻は静かに読み上げる。


「本を読むと……」


一度言葉を切る。


「知らない人の気持ちが……少しだけ分かる」


稲野は思わず胸へ手を当てた。少年らしい、まっすぐな言葉だった。池尻は続きを読む。


「だから…みんな……最後まで読んでほしい」


その場に静かな沈黙が流れた。昆陽は帽子を外し、小さく息を吐く。


「最後まで読む、か」


その言葉は、この事件そのものだった。誰も最後まで読まなかった。だから30年間、真実へたどり着けなかった。そして1人の少年だけが、最後まで読んでほしいと願い続けていた。池尻は栞を見つめたまま、小さく微笑んだ。


「少年は、最後まで本が好きだったんですね」


昆陽が静かに頷く。


「そうやな。最後まで、人も信じとった」


池尻はゆっくりと言葉を続ける。


「誰かを責める言葉ではなく、誰かを理解したいという言葉を書き残している。それは、本を好きな人らしい文章です」


稲野が目を潤ませる。


「こんな優しい子だったんやな」

「はい」


池尻は栞を大切そうに両手で包んだ。


「だから最後のページにも『誰も憎まないでください。』…あの言葉を書けたんだと思います」


3人はしばらく何も話さなかった。読書スペースには、本棚を渡る風の音だけが響いている。やがて池尻は、もう一度栞を裏返した。


「……あ」


小さく声が漏れる。昆陽が身を乗り出す。


「どうした」


池尻は裏面を光へ向ける。


「まだあります」

「まだ?」

「はい。文字です」


裏側にも、ごく薄い筆圧が残っていた。しかし、こちらは途中までしか浮かび上がらない。一行だけ。何かが書かれている。それでも今は読めない。池尻は静かに栞を机へ置いた。


「急がなくても大丈夫です。この栞は、30年間待っていてくれました。だから、あと少し待ってくれると思います」


窓から吹いた夏の風が、本棚のページを静かに揺らした。栞はその風を受けながら、まるで最後の一行だけを大切に隠し続けるように、机の上で静かに眠っていた。





数日後。栞は専門家による保存処理を終え、再び青葉堂読書スペースへ戻ってきた。傷んだ紙を補強し、これ以上劣化しないよう丁寧に保護された栞は、小さな透明ケースへ収められている。事件の証拠品ではない。1人の少年が未来へ託した、大切な読書の記憶として。池尻は窓際の机に腰を下ろし、その栞を静かに取り出した。夏の日差しは柔らかく、窓から吹き込む風が本棚を優しく揺らしている。


栞を光へかざす。


数日前には読めなかった最後の一行が、今ははっきりと浮かび上がっていた。池尻はゆっくりと、その文字を読む。そこに書かれていたのは、事件の秘密でも、犯人の名でもなかった。少年らしい、穏やかな文字だった。


『最後まで読んでくれて、ありがとう』


池尻はしばらく、その言葉を見つめていた。自然と頬がゆるむ。あの少年は最後まで変わらなかった。誰かを責めるよりも、誰かへ感謝を伝えることを選んだ。30年前、火災の中で必死に守ろうとした手紙も、本も、そして栞も。すべては「誰かが最後まで読んでくれる日」を信じて残されたものだった。


「…読めたよ」


誰へ向けるでもなく、池尻は小さく呟いた。


「ちゃんと、最後まで」


返事はない。けれど、窓から吹き抜けた夏風が、本のページをさらりと鳴らした。それはまるで、少年が静かに笑ったようにも思えた。池尻は栞をそっと児童文学のページへ戻した。あの日、少年が最後に挟んだであろう場所へ。静かに本を閉じる。もう、この本を証拠品として読む人はいない。これからは、1冊の物語として読まれていく。それでいいのだと、池尻は思った。




さらに数日後。夏休みに入った読書スペースには、朝から子どもたちの笑い声が響いていた。窓際では小学生が図鑑を広げ、隣では姉妹が童話を読み比べている。奥の席では高校生が受験参考書と格闘し、近所のお年寄りは新聞を静かにめくっていた。誰もが思い思いの時間を過ごしている。青葉堂が大切にしていた「本のある日常」は、確かに受け継がれていた。池尻は今日も、本棚の整理を終えると、子どもたちの輪の中へ腰を下ろした。読み終えた本を抱えた一人の男の子が、ふと尋ねる。


「池尻さん」

「どうしたの」

「本って、どうして読むの?」


子どもらしい、まっすぐな質問だった。池尻は少しだけ考える。事件のこと、少年のこと、老人のこと、昆陽や稲野と歩いた長い時間。そして、自分がこれまで読んできた数え切れない本のこと。そのすべてが胸に浮かび、やがて1つの答えになった。池尻は優しく微笑む。


「本はね、誰かの気持ちを知るために読むんだ」


子どもたちは静かに耳を傾ける。


「嬉しかったことも、悲しかったことも、後悔したことも、自分では経験できないことを、本は教えてくれる」


そして池尻は、ゆっくりと言葉を続けた。


「最後まで読むとね、その人が本当に伝えたかったことが分かるから」


子どもたちは顔を見合わせ、小さく頷いた。


「じゃあ、最後まで読む!」

「うん」


池尻は嬉しそうに笑う。


「それが一番大事だよ」


子どもたちはそれぞれの席へ戻り、再び本を開いた。読書スペースには、ページをめくる優しい音だけが流れていく。池尻は窓際へ歩き、夏空を見上げた。色とりどりの夏祭り飾りが、風に揺れている。商店街には、子どもたちの笑い声。店先から聞こえる「いらっしゃい」という元気な声。あの日失われた日常は、多くの人の願いによって、もう一度この場所へ帰ってきた。


ふと、一陣の風が読書スペースへ吹き込む。本棚に置かれた児童文学のページが、ぱらりと1枚だけ自然にめくれた。池尻は静かに近づく。そのページには、1枚の古い栞が挟まれていた。少年の、小さな文字。


『最後まで読んでくれて、ありがとう』


池尻はその言葉をもう一度胸に刻む。そして、そっと本を閉じた。時計の針が静かに時を刻む。窓の外では七夕飾りがさらさらと音を立て、サンロード商店街には変わらぬ笑い声が響いていた。本棚には、誰かが読み終えた本と、これから誰かが読む本が、静かに並んでいる。


事件は終わった。


けれど、人の思いは、本を通して受け継がれていく。読書スペースに流れる穏やかな時間は、これからも変わらない。誰かが本を開くたびに。誰かが最後のページへたどり着くたびに。そして、誰かの心へ、新しい物語が届くたびに。物語は終わる。けれど、本はまた、誰かに開かれる。



読んでいただき、ありがとうございました。

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