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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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8/15

残された声


警察署鑑識課。修復作業を終えた1本のカセットテープが、静かに再生機へとセットされた。30年前、サンロード商店街の共同井戸跡に埋められていたブリキ箱から見つかった録音テープである。磁気テープは経年劣化が進んでいたものの、専門の技術員によるクリーニングと補修によって、再生できる状態まで回復していた。部屋には昆陽、池尻、稲野、鑑識担当者、そして音声解析の技術員が集まっている。誰も言葉を発しない。技術員が再生ボタンへ指を添えた。


「途中で音が途切れる可能性があります。無理な再生はしません」


昆陽が静かに頷く。


「頼む」


カチッという小さな音が響き、30年間眠っていた時間が、ゆっくりと動き始めた。最初に聞こえたのは、ザーッという古いテープ特有のノイズだった。一定のリズムで続く磁気音。誰もが耳を澄ませる。やがて、その向こうから小さな音が浮かび上がってきた。


―いらっしゃい!

―焼きそばできたよ!

―輪投げ1回100円!


祭りの呼び込みだった。続いて子どもたちの笑い声、走り回る足音、鈴の音、どこかで流れる盆踊りの音楽。飾りが風に揺れるような、夏祭り特有の賑わいが録音されている。稲野は思わず呟いた。


「……昔のサンロードですね」


その声には懐かしさが滲んでいた。昆陽は黙って聞き続ける。この音は事件の証拠である前に、30年前の商店街の日常そのものだった。数分間、祭りの賑わいが続いた。子どもたちが笑う、屋台の店主が客を呼ぶ、誰かが「暑いなあ」と笑う。火災など想像もしていない、平穏な時間。しかし、その空気が突然変わる。


ーガサッ


何かがマイクへぶつかったような音。録音機が持ち上げられたような雑音。そしてー…。


ータッ、タッ、タッ、タッ―


速い足音が聞こえ始めた。子どものものと思われる軽い足音。そのすぐ後ろから、もう1つ…重い足音が重なる。部屋の全員が身を乗り出した。祭りの音が遠ざかり、走る音だけが鮮明になっていく。その瞬間だった、男の声が響いた。


「待て!」


低く、鋭い叫び。命令するような口調だった。稲野が息を呑む。


「今の……」


昆陽は片手を上げ、静かに続きを促す。足音は止まらない。さらに数秒後、今度は少年の声が聞こえた。短く、切羽詰まった声だった。


「返して!」


部屋の空気が凍りつく。誰も言葉を発しない。少年は何を返してほしかったのか、何を持って逃げていたのか、まだ分からない。しかし、その一言には恐怖だけではない。必死な思いが込められていた。テープはなおも数秒だけ続く。荒い息遣い、足音、何か硬いものが地面へ落ちるような音、そして…。


ープツッー


録音は途切れた。ザーッというノイズだけが部屋に流れ続ける。技術員はゆっくり停止ボタンを押した。


「以上です」


誰も動かなかった。30年間、誰にも聞かれることなく眠っていた声。それは、ほんの数十秒だった。しかし、その短い録音は、これまで積み重ねてきた仮説を大きく前へ進めるものだった。しばらく沈黙が続いた後、昆陽が口を開いた。


「火事の音は入っとらんな」


池尻は頷く。


「はい。煙や爆発音もありません」


彼はノートを開き、聞き取れた音を1つずつ整理していく。


1、祭りの賑わい

2、録音機が動いたような雑音

3、子どもの足音

4、大人の足音

5、「待て!」という男性の声

6、「返して!」という少年の声

7、録音終了


書き終えると、池尻は静かに顔を上げた。


「これは…」


一度言葉を区切る。


「火災そのものを録音したテープではありません」


昆陽が続きを促す。


「じゃあ、何や」

「火災の直前です。祭りが続いています。火災が起きていれば、人の悲鳴や避難の声が入るはずです。でも録音にはありません」


池尻は冷静に事実だけを積み重ねていく。


「つまり…この録音は、火災が始まる前。少年が逃げていた時間だけを記録しています。」


昆陽は、現場で見つかった大学ノートを思い出していた。そこにはこう書かれていた。『あの子は、何かを抱えて走っていた』。そして消防団員・坂口が証言した。『火災の前、少年が何かを抱えて逃げていた』。文字による記録と目撃証言。そして音の証言。3つの証拠が、1つの事実を指し示していた。昆陽は静かに息を吐く。


「追われとった」


誰へ言うでもなく呟く。その声は小さいが、確信に満ちていた。


「少年は追われていたことが、音でも証明された」


池尻はゆっくり頷く。だが、彼の視線はまだ録音機に向けられたままだった。聞こえた声だけではない。聞こえなかった音にも、まだ意味がある。そんな予感が、静かに胸の中で膨らみ始めていた。その時、誰もまだ知らなかった。この数十秒の録音には、もう1つの重大な手がかりが隠されていることを。それは、「声」ではなく、「沈黙」の中に残されていた。




30年前のカセットテープが再生された翌日。警察署鑑識課では、音声解析が始まっていた。録音時間は、およそ7分40秒。その大半は七夕祭りの賑わいで占められ、事件に直接関係すると考えられる音声は、最後の40秒ほどだった。わずかな記録。しかし、その40秒を何度も聞き返すことで、新たな事実が見えてくる可能性があった。音声解析室では、波形が大型モニターに映し出されている。技術員が音量を細かく調整しながら説明した。


「男性の声は一人です。『待て!』という発声だけですが、成人男性である可能性が高いと考えられます。」


昆陽が腕を組む。


「年齢までは分かるか」

「正確には無理ですが、声帯の特徴から10代後半や子どもではありません。」


次に、少年の声が再生される。


『返して!』


短い一言。それでも技術員は慎重に分析を続けた。


「こちらは変声期前後、小学校高学年から中学生くらいと思われます」


池尻は静かにメモを取っていた。


「足音は」

「少なくとも2人分確認できます」

「録音状態が悪いため断定はできませんが、3人以上いた可能性も否定できません」


昆陽はホワイトボードへ書き込む。


少年

成人男性

不明の人物1名


事件は少なくとも2人だけではなかった可能性が浮かび上がってきた。






一方その頃、稲野は商店街で聞き込みを続けていた。長年暮らす古老たちなら、祭りの様子を覚えているかもしれない。そんな期待があった。和菓子店の店先で腰掛ける老人に声をかける。


「昔の夏祭りで、録音していた人をご存じありませんか」


老人は少し首をかしげた。


「録音?そういや……」


しばらく考え込んだあと、小さく頷く。


「おったな!毎年、大きなラジカセ持って歩いとった」


稲野は思わず身を乗り出した。


「どなたですか」

「写真屋の前田まえださんや。祭りの音を残すんが好きでな、毎年録っとった」


その証言は、すぐに別の古老からも得られた。


「前田さんや。祭りの終わりには子どもらへ聞かせたりしてな」


何人もの証言が一致した。祭りを毎年録音していた人物がいた。




その日の夕方、稲野は急いで警察署へ向かった。


「昆陽さん!録音していた人が分かりました!!」


昆陽は顔を上げる。


「誰や」

「前田さんという写真店のご主人です。毎年祭りを録音していたそうです」


昆陽はすぐに住民記録を調べる。しかし、数分後、静かに資料を閉じた。


「……亡くなっとる」


前田は15年前に病死していた。家族もすでに市外へ転居している。当時の録音について詳しく聞くことはできなかった。稲野は肩を落とす。


「もう少し早く聞けていたら…」

「いや」


昆陽は首を横に振る。


「祭りを録音しとった人物がおった。それだけでも大きな収穫や」





その夜、池尻は大学図書館で、30年前の録音機材について調べていた。古い家電雑誌、録音機材のカタログ、図書館の視聴覚資料。机には何冊もの本が積み重なっている。


「……これだ」


池尻は1冊の製品カタログを開いた。30年前に普及していた携帯型ラジカセ。乾電池で動く録音機。録音時間、マイク性能、テープの仕様。細かな説明が載っている。


 



翌日、池尻はその資料を昆陽へ見せた。


「この機種だと仮定します」

「ああ」

「録音ボタンを押したまま持ち歩くことができます。祭り全体を録音する目的なら、不自然ではありません。」


昆陽は資料へ目を落とした。


「つまり、事件を録ろうとしたんやないってことか」

「はい」


池尻は静かに頷く。


「祭りを録音していただけです。偶然、その途中で事件が起きた。だから逃げる足音も、『待て!』という声も、少年の叫びも録音された。」


池尻は一呼吸置く。


「このテープは、事件を記録するための証拠ではありません。日常を残そうとして、偶然、事件を記録してしまったものです。」


昆陽はその言葉を聞き、静かに目を閉じた。事件はいつも、特別な場所で起きるわけではない。平穏な日常のすぐ隣で起きる。だからこそ、その日常を記録したテープが、30年後に最も重要な証拠になったのだ。




その日の午後。警察署受付へ、また1通の白い封筒が届けられた。差出人なし、指紋なし、これまでと同じ封筒だった。昆陽は静かに開封する。紙には1行だけ印字されている。


『偶然は、ときどき真実を書く』


誰も言葉を発しなかった。池尻はその文章を何度も読み返す。そして、小さく頷く。


「犯人は、この録音が偶然残されたものだと知っています」


昆陽は紙を見つめたまま呟く。


「偶然が真実を書く……か」


池尻は窓の外の商店街へ視線を向けた。本は人が書く。日記も、人が書く。だが、ときには誰かが書こうとしなかったものが、最も真実を残していることがある。祭りの楽しさを記録するために回された1本のカセットテープ。そこには誰も意図しなかった30年前の「真実」が、静かに録音されていた。そして池尻は、そのテープにはまだ読み解かれていない”空白”があることに、薄々気づき始めていた。



30年前のカセットテープは、その後も何度も再生された。音声解析室では雑音を取り除き、周波数を調整し、聞き取れなかった音を少しずつ浮かび上がらせていく。しかし、新しい言葉は増えなかった。


「待て!」

「返して!」


それ以外は、祭りの音と足音だけ。若い刑事が肩を落とす。


「もう手がかりはないんでしょうか」


昆陽は答えなかった。その隣で池尻だけは、ヘッドホンを外そうとしない。同じ40秒を、何十回も聞き返していた。再生、停止、巻き戻し。再生、停止ー…。池尻の机には、1冊のノートが開かれている。聞こえた言葉だけではなく、音の変化まで細かく書き込まれていた。祭りの音、子どもの笑い声、足音、男性の叫び、少年の声、そして—…。


「……ここ」


池尻は鉛筆を止めた。音声波形を見つめる。足音が続いていた波形が、ある場所で急に小さくなっている。完全な無音ではない。祭りの音は遠くで続いている。しかし、少年と男の足音だけが数秒間、ぴたりと消えていた。


「昆陽さん」

「どうした」

「足音が止まっています」


昆陽はヘッドホンを受け取り、その部分を聞く。確かに…走っていた足音が突然消え、その数秒後に再び聞こえ始めていた。


「録音が切れたんやないか」


昆陽が言う。池尻は静かに首を横へ振った。


「違います。祭りの音は続いています。録音機は止まっていません。足音だけが聞こえなくなっています」


昆陽は腕を組んだ。


「つまり…2人とも、音が届きにくい場所へ入った可能性があります」





翌日、昆陽は池尻を連れ、30年前の火災現場跡へ向かった。現在は広場となっているその場所には、共同井戸があった位置が図面によって特定されている。さらに市役所から取り寄せた古い測量図を広げる。


「井戸は直径約1.8メートル。周囲には石積みがあったそうです」


池尻は図面を見つめる。そして、現場へ立った。


「録音機は祭りの方角。少年はこちらから走ってきた」


ゆっくり歩幅を測りながら位置を確認していく。池尻は井戸跡を指差した。


「もし、ここへ身を隠したら」


昆陽はその位置へ移動した。池尻は少し離れた場所から声をかける。


「昆陽さん」

「ああ」

「そのまま動かないでください」


池尻が手を叩くと、乾いた音が響く。しかし井戸跡へ回り込むと、その音は急に弱くなった。石積みを遮ることで音が直接届きにくくなる。昆陽は静かに頷いた。


「なるほど、ここなら…録音機からは足音が聞こえにくい」






警察署へ戻った2人は、音声波形と現場図を照らし合わせた。走る速度、距離、消えた時間、再び足音が聞こえ始める位置、1つずつ検証していく。そして、昆陽が静かに言った。


「一致しとる」


池尻も頷く。


「足音が消えた時間は、およそ3秒。歩幅と速度から考えると、井戸の陰へ入っていた時間と、ほぼ一致します」


昆陽はホワイトボードへ新たな一文を書き加えた。


『少年は井戸へ隠れた可能性』


稲野が息を呑む。


「じゃあ、少年は追いつかれなかったんですか」


池尻は慎重に答える。


「そこまでは分かりません。分かるのは…一度、姿を隠せた可能性が高いという事実だけです」


昆陽も続ける。


「推測はここまでや、証拠が示しとる以上のことは言えん」


池尻は静かに頷いた。それが2人の捜査だった。事実を積み重ね、その先を想像しすぎない。だからこそ、一歩ずつ真相へ近づいていく。しかし、新たな疑問も生まれた。 もし少年が井戸へ身を隠したのなら、なぜ火災が起きたのか。男は少年を見つけたのか。少年が抱えていたものは何だったのか。そして、なぜ…その出来事が30年間も隠され続けたのか。答えは、まだどこにもなかった。



夜。池尻は1人、図書館の閲覧室でカセットテープの書き起こしを読み返していた。聞こえた言葉、聞こえた音。そして、聞こえなかった数秒。本を読むときも同じだった。作者は、すべてを書かない。読者に委ねる余白がある。事件もまた同じなのかもしれない。池尻はノートを閉じ、小さく呟いた。


「声もまた、全部を語るわけではない」


その言葉は静かな閲覧室へ溶けていった。






その頃、どこか暗い部屋。古びたプリンターが低い音を立てて動き始める。1枚の白い紙が、ゆっくりと排紙口から現れた。まだインクの乾いていない文字が、静かに浮かび上がる。その紙を、1人の人物が無言で見つめる。表情は見えない。顔も映らない。やがて、その人物は紙を丁寧に封筒へ入れた。


ー第8通目のメッセージー


それはまだ誰にも届けられていない。だが、その1枚が、池尻たちをさらに真実へ近づける新たな1ページになることだけは、静かな部屋の中で決まっていた。


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