最後まで読んではいけない
青葉堂の床下から見つかった大学ノートは、これまでの捜査の流れを変えた重要な証拠だった。表紙には、ただ一言。
『あの日、本当にあったこと』
その内容は30年前の火災を記録したものであり、「少年が誰かから逃げていた」という可能性を初めて示した資料でもある。しかし、肝心な数ページだけが破り取られていた。当初は、30年前に誰かが証拠隠滅のために破ったものだと考えられていた。だが、その前提は大きく揺らぐことになる。
警察署鑑識課。池尻と昆陽は、鑑識担当の刑事から分析結果を聞いていた。机の上には大学ノートと、電子顕微鏡で撮影した破断面の写真が並べられている。
「詳しく調べた結果ですが」
鑑識担当は写真を指差した。
「このページは、火災当時に破られたものではありません」
昆陽が顔を上げる。
「どういうことや」
「紙の繊維に付着していた埃や酸化の状態が一致しません。残っているページは30年間、同じ環境で保管されていました。ですが、破断面だけは劣化の進み方が違います」
池尻は静かに耳を傾ける。
「つまり、このページは比較的最近になって破り取られた可能性が極めて高い、ということです」
会議室が静まり返る。30年前ではない。『最近』その言葉の重みを、誰もが理解していた。
部署へ戻る途中、昆陽は低い声で言った。
「青葉堂で見つかる前に、誰かがノートを開いた」
「そう考えるのが自然ですね」
池尻も頷く。
「しかも、内容を読んだ上で必要なページだけを抜いています」
昆陽は腕を組んだ。
「偶然破れたわけやない」
「ええ。読む価値のあるページを知っていた人です。」
その言葉は、犯人像をまた1つ変えていた。これまで犯人は証拠を消す人物だと思われていた。しかし実際には。、証拠を読んでから選んでいる。
その日の午後、池尻は大学図書館の静かな閲覧室で、複写した大学ノートを最初から読み返していた。1ページずつ、1文ずつ。焦らず、飛ばさず。まるで初めて読む本のように。隣には事件ノートが置かれ、気づいたことを短く書き留めていく。やがて、ある箇所で鉛筆が止まった。
「……おかしい」
その部分には、こう書かれている。『祭りが終わったあと、あの子は何度も後ろを振り返っていた』、そして次のページでは『気づけば商店街は炎に包まれていた。』…池尻はしばらくその2つの文章を見比べた。
「つながっていない」
普通の日記なら、あるいは回想録なら、その間には何かがあるはずだった。なぜ少年は振り返ったのか。何を見たのか。何を抱えていたのか。それらが一切なく、いきなり火災の場面へ飛んでいる。まるで物語の真ん中だけが切り落とされたようだった。
夕方、池尻はその違和感を昆陽へ伝えた。会議室のホワイトボードに、ノートの内容を書き出していく。
1、祭りの準備
2、少年の様子
3、破り取られたページ
4、火災
5、避難
6、後日の記録
昆陽は腕を組む。
「1枚抜けただけやないんか」
池尻は首を横へ振った。
「読書をしていると、ときどき乱丁本に出会います」
「ページの印刷ミスか」
「はい」
「1枚なくなるだけでも読みにくくなります。でも、このノートは違います」
「違う?」
「文章そのものの流れが変わっています」
池尻は静かに続けた。
「欠けているのは、1枚ではありません。1つの章です」
昆陽は眉をひそめた。
「章?」
「はい。書き手は、祭りの日から火災までを、1つの出来事として書いていたはずです。それなのに、途中だけが丸ごと消えています。つまり犯人はページではなく、『一番読まれたくない章』を抜いたんです」
昆陽は窓の外を見つめながら考え込んだ。
「もしそうなら、犯人はノートを最初から最後まで読んだことになる」
「はい。内容を理解し、どこを抜けば意味が変わるかも知っていた」
昆陽は静かに頷いた。
「犯人はノートを読んでからページを抜いた」
それは、これまでの捜査を一歩進める推理だった。犯人は衝動的に証拠を隠したのではない。文章を読み、構成を理解し、意図的に物語を書き換えた。それはまるで編集者のような行為だった。
夜、警察署の屋上。池尻と昆陽は街の灯りを見下ろしていた。アーケードの照明が一直線に伸び、その先には30年前の火災現場がある。
「池尻」
「はい」
「犯人は真実を隠したかったんやろか」
池尻は少し考え、首を横へ振った。
「違う気がします」
「どういうことや」
「もし本当に真実を隠したいなら、ノートごと処分したはずです」
「……確かにな」
「でも犯人はそうしませんでした」
「…残した」
「はい。残した…読むことは許した。ただ…」
池尻は静かに夜空を見上げる。
「読む順番だけを変えたかったのかもしれません」
昆陽はその言葉を反芻した。読む順番。本の結末だけを先に読めば、物語の印象は変わる。重要な章を抜けば、同じ文章でも意味はまるで違う。犯人は証拠を壊したのではない。物語の読み方そのものを操作していたのだ。そして、その「読み方」に最初に気づいたのは、本を読むことを何より愛する池尻だった。夜風が静かに吹き抜ける。誰かが30年前に閉じた1冊の物語は、まだ本当の順番では読まれていない。池尻はそのことを、誰よりも強く感じていた。
大学ノートの破り取られたページが「比較的最近」抜き取られたものだと判明した翌日。警察署捜査本部には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。事件関係図の横には、これまで犯人から届いた5通のメッセージが時系列に並べられている。
1通目
『次は、本当に知っている者が死ぬ』
2通目
『知っていたから、消した』
3通目
『本は最後の一頁から読んではいけない』
4通目
『名前は、人を隠すためにも使える』
5通目
『名前を失えば、過去は誰のものでもなくなる』
どれも事件の進行とともに意味を変え、池尻たちを真相へ導くような内容だった。そして、その日、6通目が届いた。
白い封筒に宛名なし、差出人なし、指紋なし。これまでとまったく同じだった。昆陽は慎重に開封し、中の紙を取り出す。そこには、短く印字されていた。
『七月二十七日 午後七時 最初の場所へ』
会議室に沈黙が落ちる。若い刑事が思わず口を開いた。
「…最初の場所?」
「火災現場でしょうか。」
「それとも第一の殺人現場か。」
意見が飛び交う。しかし昆陽は何も言わず、その紙を池尻へ渡した。
「どう読む」
池尻はメッセージを受け取り、すぐには答えなかった。代わりに鞄から1冊のノートを取り出す。そこには、これまで犯人から届いた5通の文章がすべて書き写されていた。昆陽が少し驚く。
「全部まとめとったんか」
「はい。言葉は、一度並べてみないと見えないことがあります」
池尻は静かに1ページずつめくる。そして、6通のメッセージを横に並べた。
「まず、共通点があります」
「何や」
「命令形が少ないんです」
昆陽は紙を見返した。確かにそうだった。『知っていたから、消した』『名前は、人を隠すためにも使える』どれも説明文のような言い回しだった。池尻は続ける。
「3通目だけは『本は最後の一頁から読んではいけない』これは助言のようにも読めます。そして今回…」
新しい紙へ目を落とす。
「『七月二十七日 午後七時 最初の場所へ』脅迫の言葉がありません」
「殺す、とも書いてへんな」
昆陽が頷く。
「はい。『来なければどうなる』とも書いていません」
「つまり?」
池尻は静かに結論を口にした。
「これは脅迫ではありません。日時を指定した招待状です」
会議室の空気が変わった。
「招待状……」
若い刑事が首をかしげる。
「犯人が警察を招待するんですか。普通は考えられません」
池尻は素直に認める。
「でも…これまでのメッセージも、僕たちを事件から遠ざける内容ではありませんでした。読む順番、名前、記憶。全部、事件の見方を示していました
」
昆陽は腕を組みながら考え込む。確かにその通りだった。犯人は証拠を完全に消してはいない。挑発しながらも、少しずつ真実へ近づく道を示してきた。昆陽が低く言う。
「なら…今度は現場へ来い、いうことか」
午後、捜査会議が開かれた。
「罠の可能性は高いです」
刑事の一人が言う。
「待ち伏せかもしれません」
「爆発物の危険もあります」
「警察を誘い出す作戦でしょう」
次々と慎重論が出る。昆陽は黙って全員の意見を聞いていた。やがて立ち上がる。
「確かに罠かもしれん。せやけど…」
事件関係図へ目を向ける。
「今まで犯人は、一度も無意味なことをしてへん。全部、事件を一歩進める行動や」
会議室が静かになる。
「指定された場所へ行く。もちろん警戒は最大限や。鑑識も機動隊も配置する。それでも…」
昆陽ははっきりと言った。
「俺は行く」
誰も反対しなかった。
夕方、警察署を出た池尻と昆陽は、商店街で待っていた稲野と合流した。稲野は6通目の内容を聞き、不安そうな顔をする。
「本当に行くんですか」
「ああ」
昆陽が答える。
「でも」
稲野は言葉を続けた。
「犯人は……本当に僕たちと会うつもりなんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。これまで犯人は姿を現していない。監視カメラも避け、証拠も残さない。そんな人物が、自ら日時まで指定して呼び出す。常識では考えにくい。池尻は静かに商店街のアーケードを見上げた。夕暮れの光が屋根を赤く染めている。
「会うことが目的じゃないのかもしれません」
稲野が振り返る。
「え?」
「犯人は…」
池尻はゆっくりと言葉を選ぶ。
「僕たちに、同じ場所を見せたいんです。同じ景色を、同じ時間に」
昆陽はその言葉に頷いた。犯人は、証拠よりも「見方」を伝えようとしている。そんな気がしてならなかった。
夜、池尻は自宅で、昆陽と電話をしていた。招待された日時について話し合っていた。池尻は、これまで届いた6通のメッセージをもう一度並べる。文章、日付、紙質、余白、句読点。1つひとつを丁寧に見直していく。やがてノートを閉じ、小さく息をつく。窓の外では、静かな夜風が木々を揺らしていた。昆陽が電話で尋ねる。
「何か気づいたか」
少しだけ間を置き、池尻は穏やかな声で答えた。
「犯人は…僕たちより先に、答えを読んでいる人です」
昆陽は黙ってその言葉を受け止めた。読者より先に結末を知る者。だからこそ、ページを抜き、読む順番を変え、必要な場所へ導いている。犯人はまた1枚、新しいページをめくらせようとしていた。その日、池尻は眠ることができなかった。新しい1ページが気になって。
7月27日、午後6時30分
夕暮れの空が茜色から群青へと変わり始める頃、サンロード商店街には普段とは違う緊張が漂っていた。買い物客の姿は少なく、商店街の一角には私服警察官が自然に配置されている。
アーケードの屋根の上
路地の角
空き店舗の前
誰にも気づかれないよう、それぞれが持ち場につき、無線で連絡を取り合っていた。昆陽は腕時計を見つめる。
午後6時55分
「配置は完了しました」
若い刑事が報告する。
「監視カメラもすべて確認済みです」
「よし」
昆陽は短く頷いた。その隣には池尻、そして稲野が立っている。3人の視線の先には、30年前の火災現場跡があった。現在は小さな広場として整備され、石畳の中央には1本の若い欅が植えられている。火災の痕跡は、もうほとんど残っていない。しかし池尻には、この場所だけ空気が違って感じられた。事件の始まりも、30年前の悲劇も、すべてここから続いている。
午後7時、商店街に設置された時計が、静かに時を告げた。その瞬間、全員が周囲へ視線を走らせる。路地、屋根、人影、物音。何1つ見逃さないよう神経を研ぎ澄ませる。だが……。
5分
…10分
……15分
誰も現れなかった。無線だけが静かに響く。
『異常なし』
『南側路地、変化ありません』
『屋上も異常なし』
稲野が不安そうに呟く。
「……来ない」
昆陽も険しい表情で辺りを見回す。
「警察をからかっただけか…」
しかし池尻だけは、火災現場の地面をじっと見つめていた。
「違います」
「え?」
「犯人は来ています」
昆陽が振り返る。
「姿を見せるためじゃありません。何かを見つけさせるために」
池尻はゆっくり歩き始めた。事件資料で何度も見た30年前の地図を頭の中で重ね合わせる。焼失した店舗、路地、文房具店、青葉堂、そして……。
「……ここだ」
欅の木から少し離れた場所で足を止める。池尻は静かに言った。
「昆陽さん。この位置です」
「何がある?」
「30年前の地図では、ここに共同井戸があります」
昆陽は資料を思い出す。確かに、現在の広場になる以前、この場所には商店街の共同井戸があった。火災後に埋められたはずだった。
「掘り返せ」
昆陽の指示で鑑識が慎重に地面を調べ始める。金属探知機がゆっくりと地面をなぞる。その瞬間。
ーピーッー
乾いた電子音が鳴った。全員が息をのむ。
「反応があります」
土を少しずつ取り除いていく。10分ほどすると、古いコンクリートの縁が姿を現した。埋められた井戸だった。さらに慎重に作業を続ける。やがて…。
「ありました!」
鑑識の声が響く。井戸跡の奥から、小さな金属製の箱が姿を現した。錆びついている。しかし形ははっきり分かる。池尻は思わず呟いた。
「……ブリキ箱」
警察署へ運ばれた箱は、証拠品として慎重に開封された。室内には誰も言葉を発しない。昆陽が頷き、鑑識がゆっくり蓋を開く。中には、防水用の古いビニールに包まれた品が2つだけ入っていた。1つは、録音用カセットテープ。もう1つは、小さく折り畳まれた封筒だった。池尻は封筒を見つめる。紙は黄ばんでいる。だが保存状態は驚くほど良かった。鑑識が慎重に開封する。中には、1枚の紙。たった1行だけ、黒いインクで書かれていた。
『次は、声を聞け』
静まり返った会議室で、その文字だけが異様な存在感を放っていた。昆陽は腕を組む。
「またメッセージや」
しかし今回は、これまでとは違う。紙だけではない、隣にはカセットテープが置かれている。30年前の録音媒体。誰が録音したのか、何が録音されているのか。まだ分からない。池尻はテープを見つめながら、小さく微笑んだ。
「どうした」
昆陽が尋ねる。池尻は少し考え、静かに答えた。
「僕たちは、ずっと文字ばかり読んできました」
昆陽は黙って聞いている。
「新聞、写真、名簿、大学ノート、脅迫状。全部、読む証拠でした」
一呼吸置く。池尻はカセットテープへ視線を落とす。
「でも、人は文字だけでは生きていません。声も残します。」
昆陽はゆっくり頷いた。30年前、誰かが残した声。それは文章では伝わらない感情や沈黙までも記録しているかもしれない。犯人は、そのことを知っていた。だから次に読むべきものではなく、『聞くべきもの』を用意したのだ。
鑑識課の一室。古い録音機材が運び込まれ、専門の技術員が慎重にテープを確認していた。
「磁気テープは劣化しています。すぐに再生すると切れる可能性があります。まずクリーニングと補修を行います」
昆陽は焦る気持ちを抑えながら頷いた。
「頼む」
技術員は白い手袋をはめ、ゆっくりとテープを巻き取っていく。部屋中が静まり返る。池尻はガラス越しにその作業を見つめていた。まるで誰かが30年間閉じたままにしていた本を、傷つけないように1ページずつ開いていくようだった。やがて技術員が顔を上げる。
「準備ができました」
再生ボタンの上に指が置かれる。誰も息をしない。30年前から届いた”声”が、今まさに蘇ろうとしていた―…。その瞬間、池尻は静かに目を閉じた。これから聞くのは証言ではない。誰かの息遣いであり、迷いであり、恐怖そのものかもしれない。
再生ボタンが、ゆっくりと押された。




