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4通目の匿名メッセージが届いた翌朝。警察署捜査本部には、不思議な静けさが漂っていた。壁には事件関係図が貼られ、その中央には赤い文字で1つの言葉が書き加えられている。
ー消された名前ー
第一の被害者、大槻恒一
第二の被害者、青葉堂店主・青柳文蔵
三十年前の火災
そして、商店街名簿に赤線で消された一人の人物
昆陽は、その文字を見つめながら口を開いた。
「この人物を見つける」
若い刑事が首をかしげる。
「でも、名前が分からないんですよね」
「だから探すんや」
昆陽は振り返る。
「名前が消されとるいうことは、消す理由があったいうことや」
その横で池尻は静かに頷いた。
「理由があるなら、痕跡も残ります。人は名前を消せても、存在そのものは簡単には消せません。」
昆陽は小さく笑った。
「本ばっかり読んどる学生とは思えん台詞やな」
「本から教わりました」
池尻は少し照れくさそうに答えた。
「人の痕跡は、意外なところに残ると」
池尻たちはサンロード商店街の北側へ向かった。かつて文房具店があった場所。現在は2階建ての新しい建物になり、小さな雑貨店が営業している。昔の面影はほとんど残っていない。店主に事情を説明し、敷地の外周を見せてもらう。昆陽は建物を見回した。
「全部建て替えられとるな」
「はい」
池尻は地面へ視線を落とす。建物は新しく、外壁も基礎も最近の工法だ。しかし建物の裏へ回った瞬間、彼の足が止まった。
「昆陽さん」
「どうした」
池尻は植え込みの下を指差した。コンクリートの一部だけ、色が違う。新しい基礎の横に、古い石積みがわずかに残されていた。長い年月で角が丸くなった石、昭和の建物に使われていた基礎だった。
「ここだけ残っています」
昆陽もしゃがみ込む。
「建て替える時に全部撤去せんかったんやな」
池尻は石に触れないよう注意しながら観察する。
「違います」
「え?」
「全部取り除けなかったんです。基礎の一部が地中へ深く続いています。」
昆陽は頷いた。確かに、新しい建物は古い土台の上へ建てられているようだった。池尻は静かに言う。
「つまり…場所だけは、30年前と変わっていません」
その言葉に、昆陽は古い地図を思い出した。火災現場、青葉堂…そして文房具店。1本の線で結ばれた場所。偶然ではない。そんな思いが胸をよぎる。
一方、稲野は商店街で聞き込みを続けていた。古くから住む人々なら、文房具店について何か覚えているかもしれない。そう考えたのである。最初に声を掛けたのは、クリーニング店の老店主だった。
「文房具屋さんですか…」
老人は懐かしそうに目を細めた。
「優しいご夫婦やった。子どももいたな…男の子が1人」
稲野は思わず身を乗り出した。
「何歳くらいですか」
「小学校高学年やったかな。祭りの日も、よう走り回っとった」
稲野は急いでメモを取る。
「名前は覚えていますか」
老人の表情が止まった。
「名前……。」
しばらく考え込む。
「いや……顔は思い出せる。背も高かった。眼鏡は掛けてへんかった。でも…なんでやろう……名前だけ思い出せん」
2人目、3人目、4人目…誰もが同じだった。
「息子さんはいました」
「よく知っています」
「優しい子でした」
「でも…名前だけが出てこない」
稲野は背筋が寒くなるのを感じた。顔も声も性格も覚えている。それなのに、名前だけがない。そんなことが本当にあるのだろうか。
夕方、3人は再び警察署へ集まった。稲野は聞き込みの結果を報告する。
「全員、1人息子がいたことは覚えています。でも、名前だけ思い出せません」
昆陽は腕を組んだ。
「昨日までの証言と同じや。記憶の一部だけが消えとる」
池尻は静かにメモ帳を開く。そこには聞き込み内容が整理されていた。存在は覚えている、顔も覚えている、性格も覚えている…でも名前だけがない。池尻はしばらく考え込み、ゆっくり口を開いた。
「忘れた…とは少し違う気がします」
昆陽が視線を向ける。
「どういうことや」
「人は長い年月で名前を忘れることはあります。でも、全員が同じ名前だけ忘れるでしょうか」
会議室が静まり返る。池尻は慎重に続ける。
「もちろん断定はできません。ただ……語られなくなった名前は、少しずつ記憶から薄れていきます」
「語られなくなった……」
昆陽が繰り返す。
「はい。忘れたのではありません。30年間、誰もその名前を口にしなかった。だから思い出せなくなった可能性があります」
昆陽は静かに息を吐いた。また「言葉」だった。同じ証言、同じ物語、そして今度は、語られない名前。誰かが30年間、商店街で語る言葉を選び続けてきたのだろうか。
その夜、池尻は市立図書館の郷土資料室を訪れていた。司書の案内で、30年以上前の卒業アルバムを閲覧する。
「昭和59年度ですね」
「はい」
白い手袋を着け、慎重にページをめくる。六年一組、二組、三組。子どもたちの笑顔が並ぶ。そして、1枚のページで池尻の手が止まった。
「……」
集合写真の端。文房具店の前で見た少年によく似た顔が写っている。聞き込みで聞いた特徴とも一致する。
「この子だ…」
しかし、写真の下にあるはずの名前へ目を向けた瞬間、池尻は息をのんだ。そこだけ、長方形に切り取られている。名前の欄だけが、鋭利な刃物で丁寧に切り抜かれていた。周囲の紙は年月で黄ばんでいる。だが切り口だけは、不気味なほど真っ直ぐだった。池尻はしばらくその跡を見つめたまま動かなかった。誰かが少年の名前だけを、この世から消そうとしたかのように―…。静まり返った郷土資料室で、ページをめくる音だけが静かに響いていた。
郷土資料室で見つかった卒業アルバムは、その日のうちに警察署へ持ち込まれた。もちろん証拠品ではない。図書館から正式な許可を得て、高精細で複写した画像を池尻と昆陽が確認することになった。会議室の机には、拡大印刷された卒業アルバムのページが広げられている。
文房具店の息子と思われる少年
柔らかな笑顔
少し日に焼けた顔
同級生たちと肩を並べて写る、ごく普通の1人の小学生だった。しかし、その写真の下だけが、不自然に切り取られている。名前は、そこにはなかった。昆陽は写真を見つめながら言った。
「誰かが後から切ったんやろ」
「普通なら、そう考えます。」
池尻は静かに答えた。だが、その声には少しだけ迷いがあった。彼は定規と虫眼鏡を取り出し、写真を細かく観察し始める。紙の繊維、印刷のずれ、切断面、そしてページの端。読書好きの池尻は、本を読むだけではない。古書店を巡るうちに、紙や製本についての本も数多く読んできた。その知識が、今目の前のアルバムに向けられていた。
「昆陽さん」
「何や」
「ここを見てください」
池尻が指差したのは、ページの右下だった。小さく印刷されているページ番号。その数字の端も、わずかに欠けている。
「ページ番号まで切れてるな」
「はい」
池尻は慎重に続ける。
「でも、不思議なんです」
「何がや」
「もし名前だけを消したかったなら、この位置でページ番号まで削る必要はありません」
昆陽は写真へ顔を近づける。確かに、切り取る範囲としては少し広すぎる。
「失敗しただけやないか」
「可能性はあります」
池尻は頷く。
「でも、紙の繊維がほとんど毛羽立っていません」
「それがどうした」
「普通に刃物で切れば、30年前の紙でももう少し繊維が乱れます」
池尻は別の本を机へ置いた。製本技術について書かれた専門書だった。
「出版された本は、印刷・断裁・製本という順番で作られます。もし断裁の段階で加工されていたなら…最初からこの形だった可能性があります」
昆陽は思わず顔を上げた。
「つまり、後から誰かが切ったとは限りません。卒業アルバムそのものが、最初からこの状態だった可能性があります」
会議室に静かな緊張が走る。もしそうだとすれば名前を消したのは、1人の犯人ではない。卒業アルバムが作られた時点で、誰かが少年の存在を隠そうとしていたことになる。
昆陽は学校や市役所の記録を調べ直していた。
卒業名簿
学級名簿
住民登録
転出届
学齢簿
文房具店の家族について調べるたび、同じ壁へぶつかる。
「…また、ない」
担当職員が首をかしげた。
「店主夫婦の記録はあります。でも、お子さんの資料だけが見当たりません」
昆陽は別の棚も探した。
古い学級通信
運動会の名簿
遠足の参加者一覧
どれにも、少年の名前だけが存在しない。いや、存在しないのではない。存在していた痕跡だけが残り、名前だけが抜け落ちている。昆陽は静かに拳を握った。
「ここまで徹底して消すか…」
その日の夕方、捜査本部へ5通目の封筒が届けられた。白い封筒、差出人なし、指紋なし…これまでと同じだった。昆陽は証拠袋へ入れたまま、池尻へ差し出す。紙には、たった1行だけ印字されていた。
『名前を失えば、過去は誰のものでもなくなる』
若い刑事が呟く。
「また意味不明ですね」
しかし昆陽は、もうそうは思わなかった。
「池尻、どう読む?」
池尻は紙をじっと見つめる。何度も読み返す。そして静かに口を開いた。
「名前が消えると、人を探せなくなります」
「そうやな」
「でも、それだけじゃありません」
池尻は言葉を選びながら続けた。
「人は、名前があるから1人の人物として記憶されます。名前を失えば、その人は『誰か』になります。つまり、過去が誰の出来事だったのか分からなくなる」
昆陽は黙って聞いている。池尻はメッセージをそっと机へ置いた。
「犯人は…僕たちに人物を追うな、と言っているのかもしれません」
「人物?」
「はい。名前ではなく、その人が事件の中で、どんな役割だったのかを見ろ、と」
「役割……」
「逃げた少年、火災を目撃した人、真実を書き残した人、名前がなくても、その役割は消えません」
昆陽は静かに息を吐いた。これまで犯人のメッセージは挑発だと思っていた。警察をからかい、捜査を混乱させるためのものだと。だが違う。犯人は毎回、『どこを見れば真実へ近づけるのか』を示している。もちろん、真相をすべて教えているわけではない。しかし、読むべき方向だけは間違いなく示している。
夜、警察署を出る池尻と昆陽は、静かな商店街を歩いていた。昼間の賑わいはなく、街灯だけが路面を照らしている。昆陽がぽつりと口を開いた。
「池尻…俺は最初、犯人は警察を馬鹿にしとるんやと思っとった」
池尻は黙って耳を傾ける。
「せやけど、今は少し違う。」
昆陽は夜空を見上げた。
「犯人は、俺らを真相から遠ざけとるんやない。真相へ導こうとしとる」
その言葉に、池尻はすぐには答えなかった。やがて静かに頷く。
「ただ…その道は、とても遠回りです」
「そうやな」
「きっと…」
池尻は商店街の奥を見つめた。
「犯人は、真実を知ることと、真実を理解することは違う、と考えているんでしょう」
2人の前には、30年前と変わらずサンロード商店街のアーケードが続いていた。まるで、1冊の本のまだ誰も読んでいない最初のページへ続く道のように。
翌朝、警察署。昆陽は30年前の消防記録をもう一度読み返していた。
火災発生時刻
出動時刻
鎮火時刻
消防車の配置
どれも何度も確認した資料だった。しかし、1枚だけ今まで見落としていた書類があった。
現場到着隊員一覧
そこには、消防署員だけでなく、当時出動した消防団員の名前も記されていた。その中の1人に、昆陽の目が止まる。
坂口 恒一 消防団第三分団
備考欄には、こう書かれていた。
「現場へ最初に到着」
昆陽はすぐに住民記録を照会した。坂口は現在も市内で暮らしていた。83歳、引退後は一人暮らし。
「池尻」
「はい」
「会いに行くぞ」
2人が坂口の家を訪ねたのは、その日の午後だった。古い平屋の玄関先には、色あせた消防団の法被が大切そうに飾られている。呼び鈴を鳴らすと、白髪の老人がゆっくりと姿を現した。昆陽は警察手帳を見せ、静かに頭を下げる。
「警察……ですか」
「30年前の火災について、お話を伺いたいんです」
老人の表情がわずかに曇る。
「……もう話すことはありません。当時も全部話しました」
そう言って扉を閉めようとする。昆陽は無理に引き止めなかった。
「分かりました。ただ、一つだけ……青葉堂の店主が殺されました」
老人の動きが止まる。
「さらに、大槻恒一さんも命を落としました。30年前と関係があると考えています。」
坂口は黙ったまま俯いた。しかし、首を横に振る。
「…もう終わったことです」
「終わっていません」
昆陽は静かに答えた。
「だから人が死んでいます」
それでも老人は口を閉ざしたままだった。その時だった。これまで黙っていた池尻が、一歩前へ出た。
「坂口さん」
老人はゆっくり顔を上げる。池尻は深く頭を下げた。
「お願いがあります。私は犯人を決めつけたいわけではありません。誰かを責めたいわけでもありません。ただ……」
一度言葉を切る。
「真実が知りたい。事実だけを教えてください」
その一言に、坂口の表情が変わった。
「事実…」
「はい。思い込みでも、噂でもありません。坂口さんが見たことだけで構いません」
長い沈黙が流れる。風鈴が小さく鳴った。やがて坂口は静かに扉を開けた。
「……中へ」
居間には古い柱時計が時を刻んでいた。坂口は湯飲みにお茶を注ぎながら、小さく笑う。
「警察さんは、みんな『犯人は誰や』と聞いた。君だけや…見たことを教えてくれ、と言うたのは」
池尻は黙って頭を下げた。
「わしにも分からんことは話せん。でも、見たことなら話せる」
坂口は遠くを見るような目になった。
「火事の日…いや……」
少し考え直す。
「火事が起きる少し前や、商店街の北側を見回っとった。」
池尻は黙ってメモを取る。
「その時、一人の子どもが走ってきた。」
池尻の鉛筆が止まる。
「少年ですか?」
「ああ、小学校高学年くらいや。慌てとった。逃げるように走っとった。」
「誰かに追われていたんですか?」
坂口は首を振る。
「そこまでは分からん。後ろを何度も振り返っとった。それだけや」
「少年は何か持っていましたか?」
池尻が静かに尋ねる。坂口は目を閉じ、記憶をたどる。
「……抱えとった」
「え?」
「両腕で何かを抱えとった。大きくはない…箱みたいなもんやった気がする」
昆陽と池尻は顔を見合わせた。箱、大学ノート、ブリキ箱、様々な言葉が頭をよぎる。
「その後は…」
昆陽が促す。坂口はゆっくり息を吸う。
「少年が角を曲がって、見えなくなった。それから、ほんの数分後や。煙が上がった。火事や…そう叫ぶ声が聞こえた」
居間が静まり返る。池尻は鞄から複写した大学ノートを取り出した。現場で見つかった「あの日、本当にあったこと」、破り取られたページの前後には、こんな1文が残されていた。
『あの子は何かを抱えて走っていた。誰にも見つからないように逃げていた』
池尻はノートを坂口へ見せた。
「この記述と一致しています」
坂口は静かに頷いた。
「そうか……やっぱり見間違いやなかったんや」
昆陽は拳を握る。30年間、事故だと考えられてきた火災。しかし、その直前に少年が何かを抱え、逃げるように走っていた。大学ノートと目撃証言が一致したことで、1つの仮説が大きく現実味を帯びる。あの少年は、火災から逃げていたのではない。誰かから逃げていた。
坂口の家を出る頃には、空は茜色に染まっていた。帰り道、2人はしばらく無言で歩いた。商店街の入口まで来たところで、昆陽が立ち止まる。
「池尻」
「はい」
「今日の証言は大きい。30年間、初めて事故やない可能性が証言で裏付けられた」
池尻は商店街の奥を静かに見つめた。古いアーケード、夕暮れの路地、30年前…少年が駆け抜けたであろう道。その先には、火災現場がある。これまで自分たちは、焼け跡から事件を読み始めていた。だから分からなかった。読むべき最初のページは、その少し前にあったのだ。池尻は静かに息を吸い、昆陽へ視線を向けた。
「僕たちは―…」
穏やかな声で続ける。
「ようやく最初のページを開いたんですね」
昆陽はゆっくりと頷いた。その言葉とともに、30年間閉ざされていた物語は、ようやく本当の始まりを迎えようとしていた。
そしてその頃、どこか暗い部屋の中で、1枚の古い写真がライターの炎にかざされる。写っていた少年の顔が、ゆっくりと炎に包まれていく。写真が灰になるまで、その人物は何も言わず見つめ続けていた。まるで、池尻が最初のページを開いたことを知っているかのように。




