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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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4/15

消えた写真


青葉堂店主・青柳文蔵が殺害されてから2日。


警察署鑑識課では、青葉堂の床下から見つかったブリキ箱の再鑑定が進められていた。古い写真、商店街の地図、そして『あの日、本当にあったこと』と題された大学ノート。どれも30年前の火災を知る上で、重要な資料であることは間違いなかった。しかし、昆陽は1つだけ腑に落ちないことがあった。


「犯人は、何を探していたんや」


資料を眺めながら呟く。青柳は殺され、店の床下の存在を知る者はほとんどいなかった。にもかかわらず、犯人はまるで最初からそこに何が隠されているかを知っていたかのように行動している。偶然では説明できない。そこへ鑑識主任が一枚の報告書を持って入ってきた。


「昆陽さん、写真の鑑定結果です」

「何か分かったか」

「ええ」


主任はブリキ箱から出てきた写真を机へ並べた。20枚程の写真。すべて同じ大きさで、年代順に整理されている。


「最初は気付きませんでしたが、写真の角をご覧ください」


昆陽は1枚を手に取った。四隅には、アルバムへ貼っていた古い接着剤の跡が残っている。


「普通の写真やな」

「はい」


主任は別の写真を差し出した。


「では、この写真はどうですか?」


昆陽は目を細めた。そこだけ接着剤の色が新しい。さらに、紙の端にはごく新しい擦れ跡がある。


「最近、抜き差しされた跡です。つまり…1枚だけ、誰かが取り出した可能性があります」


主任は静かに続けた。


「アルバムへ貼られていた写真は全部で25枚。しかし、現在残っているのは24枚。1枚だけありません」


昆陽は腕を組んだ。犯人が持ち去ったのは、現金でも貴重な古書でもない。1枚の古い写真。そこに、この事件の核心が隠されている。




その日の午後。池尻は警察署の会議室で、昆陽から写真の閲覧を許可されていた。


「持ち出しは禁止や」

「もちろんです」


池尻は白い手袋を着け、1枚ずつ丁寧に写真を並べていく。


夏祭り

餅つき大会

商店街の福引き

子ども神輿


そこには30年前の日常が写っていた。昆陽は隣で人物の名前を書き出している。


「あ、この人は魚屋の先代。こっちは時計店の主人や」


しかし池尻は、人の顔を見ていなかった。写真全体を眺め、何かを探している。


「…顔じゃないのか?」


昆陽が尋ねる。


「はい」

「じゃあ何を…」


池尻は少し考えてから答えた。


「写っているものではありません。写っていないものです」


昆陽は首をかしげた。池尻は写真を3枚並べる。


「この写真も、この写真も、この写真も、祭りの日ですよね」

「そうや」

「なのに、ある人だけ一度も写っていません」

「誰や」


池尻は答えず、写真をさらに見比べる。商店街のほぼ全員が、どこかの写真には写っている。


店先

神輿

記念撮影

笑顔

子どもたち


「……」


1人だけ、どこにも姿がない。


「偶然かもしれません」


池尻はそう前置きした。


「でも、商店街の規模を考えると不自然です」


昆陽は写真を見返した。確かに、小さな商店街だ。祭りの日なら、ほとんどの店主が顔を出している。1人だけ全く写っていないのは妙だった。


「写真を撮った人が避けたのか。あるいは………」


池尻は静かに言う。


「その人自身が写らないようにしていたのかもしれません」





一方その頃、稲野は商店街で聞き込みを続けていた。容疑は晴れつつあったが、自分にできることをしたかった。八百屋の前で掃除をしていた老人へ声を掛ける。


「昔の火災のこと、覚えてますか」


老人は竹ぼうきを止めた。


「忘れられるか…大変やった」


稲野はさらに尋ねる。


「何か変わったことは…」


老人はしばらく考え込む。


「そう言えば……一軒だけ、店を閉めとったな」

「火事の日ですか?」

「ああ、昼からずっと閉まっとった。」

「珍しいことなんですか?」

「もちろんや。祭りの前日やったからな」


老人は首をひねる。


「病気や言う話も聞いたけど、誰も姿を見とらん」

「どこの店ですか?」


老人は商店街の北側を指差した。


「今はもう閉店してもうた。昔、文房具屋やった場所や」


稲野はその言葉をすぐにメモへ書き留めた。火災の日だけ閉まっていた店。偶然なのか、それとも…。





夕方、池尻と昆陽は再び会議室で写真を見比べていた。昆陽は30年前の商店街名簿を広げる。古びた帳簿には、当時営業していた店の名前と店主の氏名が並んでいる。


「魚屋」

「写真あり」

「和菓子屋」

「写真あり」

「履物店」

「写真あり」


一軒ずつ照合していく。池尻も静かに確認を続けた。そのときだった。


「昆陽さん」

「どうした?」


池尻は1枚の写真を机の中央へ置いた。商店街の入り口で撮られた集合写真だった。


「これを見てください」


昆陽は写真を覗き込む。


「時計?」


写真の奥に時計店の壁掛け時計がわずかに写っていた。針は午後3時10分を指している。


「火災は夕方だった。そう記録されています。でも…」


池尻は静かに続けた。


「この写真が火災当日に撮られたとすると、不自然なんです」

「どういうことや」

「見てください」


池尻は写真の人々を指差す。子どもたちは浴衣姿で笑っている。店先には祭りの飾り付け。空はまだ明るく、誰1人慌てた様子がない。


「火災が起きる数時間前とは思えません」


昆陽は写真を見つめた。確かに違和感がある。火災前なら、祭りの準備で慌ただしいはずだ。しかし、この写真には穏やかな時間だけが流れていた。池尻はページをめくるように、写真をもう一度見返した。


「もしかすると」


彼は静かに言った。


「この写真は、火災当日ではありません」


昆陽が目を上げる。


「前日…あるいは別の日に撮影された可能性があります」


その瞬間、昆陽の脳裏で1つの考えがつながった。もし写真の日付そのものが間違っているとしたら―…。事件の出発点として信じてきた「30年前の記録」そのものが、誰かによって書き換えられているのかもしれなかった。


警察署の会議室には、30年前の写真が一面に並べられていた。ブリキ箱から見つかった24枚。夏祭り、商店街の朝、市場の賑わい、子どもたちの笑顔―…。一見すれば、ごく平凡な昭和の風景でしかない。だが池尻は、それらを「思い出の写真」として見てはいなかった。まるで1冊の本を読むように、1枚1枚を丁寧に読み解いていた。





「昆陽さん、この写真を見てもらえますか」


池尻は一枚を机の中央へ置いた。時計店の前で撮られた集合写真だった。


「時計を見とったな」

「はい。でも今日は時計じゃありません」


池尻は窓の外から差し込む光を利用し、定規を写真へ当てた。


「影です」


人物の足元から伸びる影。商店街のアーケードがまだ設置される前の写真だからこそ、太陽の位置がはっきりと分かる。


「影は西北西へ伸びています」


昆陽は写真を覗き込む。


「つまり、太陽は東南東」


池尻は静かに続けた。


「時計は午後3時10分を指しています。でも、この影なら午前中の光です」


昆陽は目を細めた。


「時計が止まっとった可能性は」

「あります」


池尻は即座に否定しない。


「でも別の写真も見てください」


次に並べた2枚にも、同じ時計店の時計が写っていた。1枚は午後3時15分。もう1枚は午後3時12分。


「全部、時計はほとんど同じ時刻です」

「……」

「止まっていたなら説明できます。でも影は3枚とも違う」


つまり時計は動いていた。写真が撮られた日時だけが異なる。


「写真の説明が間違っている。火災当日の写真ではない」


昆陽は小さく呟いた。池尻は頷いた。


「少なくとも、全部が同じ日ではありません」


さらに池尻は写真を1枚取り上げた。


「もう1つ」


背景には酒屋の看板が写っている。そこには、『七夕大売出し 七月二十七日より』という文字がかすかに読めた。


「火災は7月28日でした」

「そうや」

「でも、売出し準備中の札が出ています」


池尻は看板を指差す。昆陽も気付いた。売出しが始まっているなら、「開催中」と書かれているはずだ。しかし写真では、まだ準備の段階だった。


「つまり、この写真は7月27日以前…火災前日か、それより前です」


昆陽は腕を組んだ。30年間「火災当日の写真」とされてきたものが、実は違う日だった。誰がそう説明したのか。なぜ誰も疑わなかったのか。写真は嘘をつかない。だが、人は写真に嘘の説明を添えることができる。






その頃、昆陽は資料室へ向かっていた。30年前の消防本部の記録を取り寄せるためだった。古い段ボール箱から運ばれてきた分厚い記録簿。慎重にページをめくっていく。


火災発生

出動記録

鎮火時刻

現場図


その中の1枚で、昆陽の手が止まった。


「……これは」


消防隊到着時刻、午後5時42分。これは警察記録と一致している。しかし、その下にある「第一通報受理時刻」は午後5時36分だった。昆陽は別の資料を取り出す。警察が保管していた事件概要。そこには……『午後五時四十分ごろ火災発生』と記されていた。


「40分……」


昆陽は低く呟く。通報が5時36分。火災発生が5時40分。通報が火災より4分早い…そんなことはあり得ない。時計の誤差では説明できないほど、不自然な記録だった。


「どちらかが書き換えられとる」


資料室には昆陽の声だけが響いた。






夕方、警察署へ一通の白い封筒が届いた。差出人はない。指紋もない。中には、これまでと同じコピー用紙が1枚。昆陽は手袋を着けて封を開く。印字された文章は、わずか1行だった。


『本は最後の一頁から読んではいけない』


若い刑事が顔をしかめる。


「また挑発ですか?」


昆陽は答えなかった。その紙を証拠袋へ入れ、すぐに池尻を呼ぶよう指示した。





1時間後、池尻はメッセージの写真を見つめていた。昆陽が尋ねる。


「どう思う」


池尻はしばらく黙っていた。やがて、小さく首を振る。


「これは脅迫じゃありません」

「…何?」

「もちろん事件には関係しています。でも…」


池尻はメモ帳を開いた。


「犯人は、ずっと同じことをしています」


ページにはこれまでの文章が並ぶ。


『次は、本当に知っている者が死ぬ』

『知っていたから、消した』

『本は最後の一頁から読んではいけない』


「最初は未来。2つ目は過去。そして今回は読み方です」


昆陽は黙って聞いている。


「これは犯人の感情ではありません。事件を読む順番を示しています」


池尻は静かに言った。


「犯人は、『最後の結果だけ見ても真実は分からない』と言っているんです」

「だから三十年前から読め、と?」

「いいえ」


池尻は首を横に振る。


「それも違います。犯人は”順番を間違えるな”と言っている。僕たちは今、最後のページだけを読んでいる。だから真相へたどり着けない」


昆陽は初めて、その文章が挑発には思えなくなった。むしろ、誰かが本の読み方を教えているようだった。昆陽は窓の外を見つめながら、小さく呟いた。


「……池尻」

「はい」

「もしかしたら…」


昆陽はゆっくり振り返る。


「犯人は、お前を見とる」


会議室が静まり返る。


「警察への挑発なら、こんな回りくどい文章は書かん。もっと直接脅す。でも今回は、本の話や」


昆陽は証拠袋を見つめた。


「読書家にしか響かん言葉を選んどる」


池尻は何も答えなかった。胸の奥に、小さな違和感が生まれていた。もし昆陽の言う通りなら…犯人は事件を起こす前から、自分という存在を知っていたことになる。



その夜、池尻は自室の本棚を前に立ち尽くしていた。並んだ本の背表紙を見つめながら、ふと1冊の推理小説を手に取る。そして、犯人の残した言葉を静かに口の中で繰り返した。


「本は最後の一頁から読んではいけない……」


その瞬間、池尻の脳裏に、1つの疑問が浮かぶ。


「もしかして…」


犯人が読ませようとしている”最初のページ”は、30年前の火災ですらないのではないか―…。






青葉堂店主・青柳文蔵の殺害から4日目。


警察署捜査本部では、事件の流れを整理するため、商店街周辺の防犯カメラ映像が再び集められていた。机の上には、商店街組合、防犯灯、銀行、コンビニエンスストア、駐車場など、20台を超える防犯カメラの映像が並ぶ。昆陽は若い刑事たちとともに、何度も映像を見返していた。


「青柳さんが殺害された推定時刻は午後8時から9時、その前後1時間を中心に確認します」


映像は次々と切り替わる。


会社帰りの会社員

買い物帰りの主婦

犬の散歩をする老人

自転車で帰宅する学生


しかし、誰1人として犯人らしい人物は映っていない。昆陽は眉をひそめた。


「おかしいな…」


商店街を出入りするには、少なくとも1台はカメラの前を通るはずだった。それなのに、犯人と思われる人物は一度も映らない。偶然では済まされない。






翌日、昆陽は池尻を警察署へ呼んだ。会議室の大型モニターには、商店街全体の地図と防犯カメラの設置位置が表示されている。


「見てくれるか」

「はい」


池尻は映像を見る前に、まず地図へ目を向けた。赤い丸で示されたカメラの位置。矢印で示された撮影方向。そして、人が通れる路地。しばらく黙って見つめたあと、池尻はゆっくり口を開いた。


「昆陽さん」

「どうした」

「犯人は映らなかったんじゃありません。映らない道を選んでいます」


昆陽は腕を組む。


「死角だけ歩いたいうことか」

「はい」


池尻は地図に鉛筆で1本の線を引いた。


「この細い路地、裏口、空き店舗の通路、神社の横。ここを通れば、一度も映りません」


線は見事に、すべての防犯カメラの撮影範囲を避けていた。若い刑事が感心したように言う。


「こんな経路があったのか…」


しかし池尻は首を横に振った。


「誰でも思いつくことではありません」

「どういう意味や」


昆陽が尋ねる。池尻は慎重に言葉を選んだ。


「犯人は、ただ商店街に詳しいだけではないと思います。警察がどの順番で防犯カメラを調べるかまで理解しています」


会議室が静まり返る。


「事件が起きるたび、警察は現場から近いカメラを優先して確認します。次に出入口、最後に周辺。犯人は、その手順を前提に行動しています」


「つまり……」


昆陽は低い声で続けた。


「警察の捜査方法を知っとるってことか」

「可能性があります」


池尻は断定しない。あくまで事実から積み上げた仮説だけを話す。それが彼のやり方だった。





その日の夕方、昆陽は1人、捜査本部の窓際に立っていた。街は夕暮れに染まり始めている。


「警察の捜査を知っとる人間…」


頭に浮かぶのは、元警察官、警備会社、防犯設備業者。あるいは事件捜査を間近で見てきた人物。そして、もう1つ。


「内部から情報が漏れとる可能性もある」


その言葉を口にした瞬間、自分でも嫌な気分になった。長年警察官として働いてきた。仲間を疑うことほど苦しいことはない。しかし、可能性を捨てることはできない。昆陽は若い刑事を呼んだ。


「今後の捜査情報は最小限で共有する。外部への持ち出しも禁止や」

「はい」

「誰も疑いたくはない。」


昆陽は静かに続けた。


「せやけど、可能性は全部つぶす」





一方、鑑識課ではブリキ箱から見つかった写真の保存作業が続いていた。写真を1枚ずつ保護フィルムへ移し替える。すると、1人の鑑識員が声を上げた。


「あれ……」

「どうした」

「この写真だけ、裏に何か書いてあります」


肉眼では見えないほど薄い。長い年月で消えかけた鉛筆の文字だった。鑑識員は特殊な斜光を当てる。すると文字が少しずつ浮かび上がった。昆陽も池尻も、息をのんで見守る。やがて読めるようになった文字は、わずか2行。


『サンロード 七夕祭り』

『昭和五十九年七月二十七日』


昆陽は思わず立ち上がった。


「27日……」


火災は翌28日。つまりこの写真は、事件当日ではなく前日に撮影されたものだった。池尻の推理が、初めて客観的な証拠によって裏付けられた瞬間だった。


「写真は嘘をついていません」


池尻は静かに言う。


「嘘をついていたのは、写真の説明です」


昆陽はゆっくり頷いた。30年間、多くの人が「火災当日の写真」だと信じてきた。だが、それは誰かが作った思い込みだった。事実はずっと写真の裏に書かれていた。誰も読まなかっただけなのだ。





夜、警察署を出た池尻は、大学図書館へ立ち寄っていた。静かな閲覧室。机の上には、複写した写真が何枚も並んでいる。池尻は1枚の集合写真をじっと見つめていた。


祭りを楽しむ人々

笑顔

提灯

子どもたち


誰もが、ごくありふれた夏の思い出として写っている。しかし池尻の視線は、人ではなく背景へ向いていた。


写真の隅


ほとんど誰も気に留めない場所。そこに、小さく写る一本の路地。その路地は30年後、大槻恒一が遺体で発見された場所へと続いていた。さらに反対側へ目を移す。その延長線上には、青葉堂。そして30年前の火災現場。1本の線が、過去と現在を静かにつないでいる。池尻は写真をそっと机へ置き、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「犯人は、証拠を隠しているんじゃない」


少し間を置き、視線を写真から外さず続ける。


「僕たちが、正しい順番で真実を読めるかどうかを試している」


その言葉は、静まり返った図書館の空気へ静かに溶けていった。同じ頃、どこかでその様子を知っているかのように、1人の人物が新しい紙をプリンターへ差し込んでいた。印字が始まる。紙に浮かび上がる新たな一文は、まだ誰も知る由がなかった。


ー読める者だけが、真実へ辿り着くー


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