本当にあったこと
翌朝、午前8時。サンロード商店街は、いつもより静かだった。昨日見つかった脅迫状の噂は一晩で広まり、店を開ける人々の表情には不安が色濃く浮かんでいる。通りを歩く人も少なく、シャッターを半分だけ開けて営業する店まであった。その静寂を破ったのは、1人の老人の叫び声だった。
「誰か来てくれ!」
青葉堂の前に集まった人々は、店内を覗き込んだまま言葉を失う。古本屋「青葉堂」の店主・青柳文蔵は、レジの横の椅子にもたれ掛かるようにして座っていた。いや、座っているように見えただけだった。胸には1本のアイスピックが深く突き刺さり、白いワイシャツは赤黒く染まっている。床に広がった血は、すでに乾き始めていた。老人は震える声で言った。
「毎朝、新聞を読みに来るついでに文庫本を1冊買うんや……今日も『おはよう』言うて入ったら返事がなくて……」
彼の名は杉本茂、72歳。10年以上、毎朝青葉堂へ通う常連客だった。店の鍵は開いたまま、店内の照明も昨夜のまま点いていたという。
20分後。サイレンが鳴り響き、再び商店街は規制線に囲まれた。昆陽は店内へ足を踏み入れると、ゆっくりと辺りを見渡した。古い木製の本棚が壁一面に並び、文庫本や全集が整然と収められている。倒れた本は1冊もない。棚にも傷は見当たらない。
「争った形跡は?」
周りに何かないか確認しながら、昆陽が尋ねる。
「ありません」
証拠を逃さないように、視線を向けずに鑑識係が答えた。
「被害者の衣服にも、防御創は確認できません」
昆陽は遺体の前へしゃがみ込む。胸の中央やや左、刺し傷は一か所。致命傷だったことは明らかだ。
「凶器は?」
「アイスピックです」
「店の物か?」
「確認中ですが、事務机の引き出しに同じメーカーのケースがありました」
昆陽は小さく息を吐いた。つまり犯人は店内にあった凶器を使った可能性が高い。計画的なのか、それとも衝動的だったのか。まだ判断はできない。
「昆陽さん」
鑑識係が白い紙を差し出した。
「遺体の横にありました」
透明な証拠袋の中には1枚のコピー用紙。黒い文字が印字されている。
『知っていたから、消した』
昆陽は無言でその文字を見つめた。昨日の脅迫状を思い出す。
『次は、本当に知っている者が死ぬ』
そして今日。脅迫状通りのことが起きた。
『知っていたから、消した。』
偶然ではない。同一犯である可能性が一気に高まった。現場検証が続く中、規制線の外では池尻と稲野が到着していた。稲野は店の様子を見た瞬間、肩を落とした。
「昨日、話したばっかりやったのに……」
池尻は何も言わない。ただ静かに店を見つめている。昆陽が2人に気付き、規制線の近くまで歩いてきた。
「また事件や」
その声には疲労がにじんでいた。
「入れますか?」
池尻が尋ねる。本来なら断るところだ。しかし昆陽は少し考えたあと、小さく頷いた。
「現場は荒らすなよ」
「もちろんです」
池尻は手袋を借り、鑑識の邪魔にならないよう壁際を歩いた。事件現場を見回しても、すぐには何も言わない。歩幅を変えながら、本棚、床、机、窓を順番に観察していく。昆陽はその様子を黙って見ていた。10分ほどして、池尻が口を開く。
「昆陽さん」
「何や」
「3つ、気になることがあります」
「言うてみ」
池尻はまず本棚を見た。
「1つ目、本棚が乱れていません」
昆陽も視線を向ける。確かに、ぎっしり並んだ本はほとんど動いていない。
「もし争いになっていたら、本は倒れるはずです。少なくとも、大きなもみ合いはなかったと思います」
池尻は断定せず、可能性として話す。昆陽は頷いた。自分も同じことを考えていた。
「2つ目」
池尻は机を指差す。そこには急須と湯飲みが置かれていた。湯飲みは2つ、1つは空。もう1つには少しだけお茶が残っている。
「お客様が来ていたと考えられます」
「常連か?」
「分かりません」
「ただ、お茶を出す程度には親しい相手だった可能性があります」
池尻は首を横に振りながら答える。昆陽は湯飲みを見つめた。鑑識がすでに指紋を採取している。結果は後ほど分かるだろう。池尻は遺体へ目を向けた。
「3つ目は、店主は犯人を知っていたのではないでしょうか」
「理由は?」
「店の入り口です」
二人は入口を見る。鍵は壊されていない。ガラスにも傷はない。
「無理に入った形跡がありません。店主は相手を迎え入れ、お茶を出し、普通に話していた。だから、不意を突かれた」
池尻は静かに言った。池尻の考えを聞き、昆陽はゆっくり息を吐いた。その推測は、自分の考えとほぼ一致していたからだ。経験から導いた結論と、この青年が事実を積み重ねて導いた結論が同じ場所へたどり着いた。それが妙に嬉しかった。昆陽は立ち上がり、捜査員たちを見渡す。全員の視線が集まる。
「聞いてくれ…今回は偶発的な殺人やない。」
静かな声だったが、現場にはっきりと響いた。
「犯人は被害者と面識がある可能性が高い。計画的に接触し、警戒されることなく店へ入り、殺害した。そして脅迫状と同じ紙で、わざわざ言葉を残しとる。」
昆陽は遺体の横に置かれた証拠袋へ目を向ける。一拍置いて続けた。
「これは簡単な殺人事件やない。誰かが30年前の何かを隠すために始めた”連続事件”や」
その言葉に、店内の空気がさらに重くなる。そのときだった。店の奥で床を調べていた鑑識係が、突然声を上げた。
「昆陽さん!」
「どうした」
「ここ、床板の高さが違います!」
全員が奥へ駆け寄る。古い絨毯をめくると、1枚だけ新しい木板がはめ込まれていた。昆陽は静かにしゃがみ込み、その板へ手を掛ける。
「……何かを隠しているな」
板がゆっくりと持ち上がる。暗い床下から、古びたブリキ箱の角が姿を現した。床板が静かに持ち上げられると、湿った土の匂いが店内へ流れ込んだ。懐中電灯で照らされた床下には、古びたブリキ箱が1つだけ置かれている。灰色の塗装はところどころ剥がれ、錆が浮いていた。しかし、鍵穴には比較的新しい南京錠が付けられていた形跡があり、最近まで誰かが開け閉めしていたことを思わせる。
「慎重に扱え」
昆陽の指示で鑑識係が手袋を替え、ブリキ箱をゆっくりと持ち上げた。机の上へ運ばれた箱の蓋を開くと、中には整然と資料が収められていた。1番上にあったのは、何十枚もある古い写真だった。色あせた商店街、アーケードのない頃の通り、法被姿で神輿を担ぐ人々、夏祭りで笑う子どもたち。昭和の空気が、そのまま閉じ込められているようだった。写真の下には、1枚の商店街の古地図が入っていた。現在のサンロード商店街とは店の配置が少し違う。喫茶店だった場所は乾物屋になっており、今は駐車場になっている一角には、小さな木造の建物が描かれている。
「30年前の地図か」
昆陽は独り言のように呟いた。そして、1番下にあった1冊の大学ノートを手に取る。黒い表紙は色あせ、角は擦り切れていた。中央には青いインクで、丁寧な字が書かれている。
『本当にあったこと』
店内に静寂が落ちた。昆陽は表紙を見つめたまま、ゆっくりとページを開く。
その日の午後。証拠品として押収されたノートは警察署へ運ばれた。昆陽は正式な手続きを終えると、会議室で池尻を待っていた。
「来たか」
池尻は一礼すると昆陽の前の席に座った。
「見せていただけるんですか?」
「証拠品や。持ち出しはできん。ただし、ここで読むだけなら構わん」
昆陽の発言に若い刑事が驚いた表情を見せた。
「昆陽さん、本当にいいんですか?」
「この学生は勝手なことはせん」
その一言に、池尻は少しだけ目を見開いた。昆陽が初めて、自分を捜査の邪魔をする部外者ではなく、一人の協力者として扱ってくれた気がした。ノートを開く。1ページ目には、日付だけが記されている。
ー 昭和59年7月28日 ー
その下に、小さな文字が続いていた。
ー 商店街は今日も賑やかだった ー
ー でも、あの子はずっと怯えていた ー
ー あの子は、何かを抱えて走っていたー
ー 誰かが来るたび、後ろを振り返っていた ー
池尻は黙って読み進める。昆陽も向かいの席で資料を開いている。しばらくして池尻はノートを閉じた。
「どうや?」
「まだ分かりません」
「感想すらないんか」
「はい。まずは整理しないと」
池尻はメモ帳を開いた。メモ帳とノートを昆陽が見比べれる位置に置く。
「このノートには、事実と書いた人の感情が混ざっています」
「どういうことや?説明してくれ」
「例えば…『あの子は怯えていた』という文章があります。怯えていた、というのは書いた人の印象です」
池尻は続ける。書いた人の印象だと思われる箇所に線をひきながら。
「でも、その前に『何度も後ろを振り返っていた』と書かれています。これは行動です。後ろを振り返るという事実があり、それを『怯えている』と解釈している」
昆陽は腕を組んだ。なるほど、と心の中で呟く。池尻はノートを見返した。メモ帳には短く書き出されていく。
・少年は何度も後ろを振り返った
・誰かを待っていた様子はない
・人が近付くたび場所を変えている
・商店街の裏路地へ何度も入っている
「ここまでは事実として読めます」
昆陽はその整理の仕方に感心していた。刑事は供述調書でも同じ作業をする。証言から感情や思い込みを取り除き、事実だけを抜き出す。池尻は読書を通して、それを自然に身につけていた。ノートには火災当日の夜についても記されていた。
ー 火が出る少し前、あの子は商店街の北口から走ってきた ー
ー 転びそうになるほど急いでいた ー
その次のページ。文章はさらに短くなる。まるで走り書きのようだ。
ー 私は「どうした」と聞いた ー
ー あの子は振り返って言った ー
ー 「見つかった」 ー
そこでページが終わっていた。次をめくろうとした池尻の手が止まる。数ページが、きれいに切り取られている。破られた跡は古く、最近のものではない。
「誰かが抜いたんや。しかも、必要なところだけ」
昆陽が低く言う。破り取られたページの次には、火災後の日付が書かれていた。
ー あの夜のことは、誰にも話せない ー
ー あれは事故ではない。私は見てしまった ー
そこから先は、また文章が途切れている。池尻はゆっくりノートを閉じた。
「事故で死んだんやない。」
「はい。少なくとも、このノートを書いた人はそう考えています。そして事実だけを見るなら……火災の前に、少年は誰かから逃げていた可能性があります。」
会議室に沈黙が流れた。昆陽は席を立ち、資料棚から昨日見つけた火災事故のファイルを持ってくる。最後のページを開き、1枚の新聞記事を机に置いた。記事の端には鉛筆で書かれた一言。
『事故ではない』
昆陽はノートをその横へ並べる。ノートにはこう書かれている。
『あれは事故ではない』
文章は違う。だが意味は同じだった。昆陽はゆっくり息を吐く。
「30年前…誰かが事故を事故として終わらせた」
池尻は静かに窓の外を見た。夕日が商店街の屋根を赤く染めている。
「もし、このノートの内容が本当なら…今起きている連続殺人は、30年前に終わらなかった事件の続きを、誰かが始めたということになります」
池尻はゆっくり言った。昆陽は何も答えなかった。ただ、机の上に並んだ2つの「事故ではない」という言葉を見つめ続けていた。時代を超えて残されたその一言が、現在の事件へと一本の線でつながり始めていた。
翌朝7時。警察署捜査本部には、鑑識課から届いた鑑定結果が次々と集まり始めていた。昆陽警部補は湯気の立つコーヒーを机に置き、1枚ずつ報告書へ目を通していく。最初に目を引いたのは、2枚のメッセージについての鑑定だった。事件2日目に商店街の掲示板へ貼られた脅迫状。
『次は、本当に知っている者が死ぬ』
そして青葉堂店主の遺体の横に残されていた紙。
『知っていたから、消した』
鑑識主任が報告する。昆陽は静かに感じ結果に視線をむけた。
「両方とも同一メーカーのコピー用紙ですが、それだけではありません」
「続けてくれ」
「印字の特徴を解析しました。これを見てください」
鑑識主任は拡大写真を机へ並べた。文字の一部には、ごくわずかな横ずれがある。さらに、「知」という漢字だけ、右下に小さなインクのにじみが確認できた。
「レーザープリンターには、それぞれ癖があります。この2枚は完全に一致しました。つまり、同じプリンターで印刷された可能性が極めて高いと判断します」
昆陽はゆっくり頷いた。やはり同一犯だ。偶然ではない。最初の脅迫状から第二の殺人まで、1人の人物が筋書きを描いている。その人物は、警察へ何かを伝えようとしているのか。それとも、翻弄しようとしているのか。続いて、司法解剖の結果が読み上げられた。
「被害者・青柳文蔵、71歳。死因は胸部刺創による失血死。凶器は現場に残されていたアイスピックで間違いありません。死亡推定時刻は午後8時から9時。抵抗による外傷はありません。薬物反応も現在のところ陰性です。」
若い刑事が首を傾げた。
「抵抗できなかったんでしょうか?」
法医学担当医が答える。
「抵抗できなかった、というより……抵抗する必要がないと思っていた可能性があります。」
その一言で会議室は静まり返った。昆陽は青葉堂の机に並んでいた2つの湯飲みを思い出す。店主は犯人と向かい合い、お茶を飲んでいた。店主に警戒心はなかった。だから一撃で命を奪われた。
「信頼していた相手……か」
昆陽は小さく呟いた。
午前10時。捜査会議が始まった。ホワイトボードには被害者2人の写真が並ぶ。大槻恒一、青柳文蔵、2人を結ぶ線はまだ引かれていない。昆陽はゆっくり立ち上がった。刑事たちの視線が集まる。
「みんな、聞いてくれ。今までは再開発を巡る怨恨も考えとった。しかし、それだけでは説明できん。」
昆陽はブリキ箱から見つかった写真を掲げた。
「青柳さんは30年前の商店街の記録を残していた。そして、その直後に殺された。」
誰も口を挟まない。昆陽は静かに言った。
「俺は考えを変える。犯人は…30年前を知る者を狙っとる」
会議室の空気が変わった。若い刑事が尋ねる。
「では最初の被害者も?」
「大槻恒一も、三十年前に何らかの形で関わっとった可能性がある。その線で洗い直す。当時の商店街関係者を全員調べてくれ」
捜査員たちは一斉に動き始めた。事件は、現在から過去へ。その方向を完全に変えたのである。
同じころ。池尻は青葉堂から押収前に撮影していた古地図の写真を、大学図書館で見返していた。机の上には現在の住宅地図も広げられている。古い地図と現在の地図を何度も見比べ、透明なトレーシングペーパーへ写し取っていく。これは読書から学んだ方法だった。歴史学の本には、「古地図は現在の地形へ重ねることで初めて意味を持つ」と書かれていた。池尻は慎重に位置を合わせる。古い井戸、神社、交差点。位置の変わらないものを基準にして重ねていく。
「……」
思わず息を止めた。赤いペンで印を付けた3つの場所。30年前の火災現場、大槻恒一が殺害された場所、青柳文蔵が殺害された青葉堂。それらが、ほぼ一直線に並んでいた。
「これは……」
偶然にしては出来過ぎている。池尻は定規を当てる。誤差は数メートルしかない。もし犯人が場所を選んでいるのなら、この直線には意味がある。しかし、その意味はまだ分からない。池尻はすぐに昆陽へ電話を掛けた。
夕方。昆陽は大学近くの喫茶店で池尻と向かい合っていた。テーブルには二枚の地図が広げられている。池尻は赤い線を指差した。
「これです、30年前の火災現場、第一の殺害現場、第二の殺害現場…全部、この線上にあります。」
昆陽は眼鏡を外し、地図へ顔を近付けた。
「……ほんまや」
しばらく二人とも黙っていた。昆陽が静かに口を開く。
「偶然かもしれん」
「そう思いました。だから図書館で他の地図も調べました。商店街で事件が起きた場所を過去20年分確認しましたが、この線上に集中している事実はありません。つまり、今回だけなんです」
昆陽は腕を組んだ。池尻は断定しない。必ず「事実」と「解釈」を分けて話す。だからこそ、その言葉には重みがあった。昆陽は静かに呟く。
「犯人は場所を選んどるのか…何かを示すために」
その瞬間、昆陽の携帯電話が鳴った。鑑識課からだった。
「昆陽です」
電話口の声を聞くにつれ、昆陽の表情が険しくなっていく。
「……分かった」
昆陽が電話を切ると、昆陽はゆっくり息を吐いた。池尻が尋ねた。
「何かありましたか?」
「青葉堂から見つかったブリキ箱や。中に入っとった写真を詳しく調べたら、一枚だけ最近抜き取られた跡があった。」
「最近……ですか?」
「ああ。犯人は、あの箱の存在を知っとった。」
店内に静かな緊張が走る。ブリキ箱は偶然見つかったのではない。犯人はその存在を知り、必要な証拠だけを持ち去ったうえで、青柳文蔵を殺害した可能性が高い。そして今もなお、警察の捜査より一歩先を歩いている。昆陽は窓の外に沈む夕日を見つめながら、小さく呟いた。
「俺らは、犯人に見られとる」
その言葉に、池尻は静かに頷いた。誰かが30年間守り続けた秘密。その秘密を知る者は消され、残された証拠も少しずつ奪われていく。事件は、ようやく入口に立ったばかりだった。




