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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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2/15

遺体の身元と沈黙する商店街

事件発生から2日後。サンロード商店街には、以前の活気はまだ戻っていなかった。昼前だというのに、人通りはまばらで、店先に立つ店主たちの表情もどこか硬い。通りを歩く人々は、事件現場となった中央の花壇付近へ目を向けると、足早に通り過ぎていく。黄色い規制線は外されていたが、アスファルトには、まだ鑑識がつけた白いチョークの印が残っていた。人の記憶は曖昧でも、場所は出来事を忘れない。池尻は立ち止まり、その白い印を静かに見つめた。事件の翌日、大学の講義を終えたあと、図書館で1冊の本を借りた。


『犯罪現場保存と初動捜査』


警察関係者向けに書かれた専門書だった。そこには、「現場は犯人と被害者、そして発見者の行動が重なった結果である」と記されていた。犯人だけを見ていても真実には近づけない。被害者がなぜそこへ来たのか。発見者が何を見て、何を見落としたのか。すべてを積み重ねることが必要なのだ。池尻はメモ帳を取り出した。そこには事件発生から2日間で整理した内容が箇条書きになっている。


・被害者は胸を一か所だけ刺されていた

・財布と携帯電話は見つかっていない

・遺体の近くに『罪と罰』が落ちていた

・前夜は雨

・本はほとんど濡れていなかった


事実だけを書き出す。推測は書かない。それが池尻のやり方だった。そのとき、スマートフォンが震えた。電話は稲野からだった。


「ニュース見たか?」

「まだです」

「被害者の名前、公表された」


池尻は近くのベンチに腰を下ろした。


「誰だったんですか?」

大槻恒一おおつきこういち53歳。不動産会社の社長や」


池尻はすぐにメモを書き足した。


・被害者、大槻恒一

・不動産会社経営。


「知っている人ですか?」

「顔くらいは」


稲野は少し考えるように言葉を選ぶ。


「商店街によく来とった」

「買い物ですか?」

「いや……仕事やな」


電話を切ったあと、池尻は"仕事"という言葉が引っ掛かった。不動産会社の社長が、なぜ毎日のように商店街へ来るのか。それを知るには、商店街の人に聞くしかない。








最初に訪ねたのは、毎朝パンを焼いている「ベーカリーなかむら」だった。店主は池尻の顔を見ると、小さく頭を下げた。


「あんた、稲野さんの知り合いやったな」

「はい。少しお話を聞かせていただけませんか?」


店主は店の奥を指差した。


「昼前なら暇や。座り」


焼き立てのパンの香りが漂う店内で、池尻は単刀直入に尋ねた。


「大槻さんは、どんな方でしたか?」


店主は苦い顔をした。


「あまりええ人やなかった」

「どうしてですか?」

「立ち退きの話ばっかりや」

「…立ち退き」

「古い店を壊して、新しい商業施設を造るいう話や」


店主はため息をついた。


「この商店街は昔からの店ばっかりや。みんな嫌がっとった」


池尻は相づちを打ちながらメモを取る。しかし、気になることが1つあった。店主は大槻について話しているようでいて、具体的な出来事を一つも話さない。


「立ち退きを迫られたことはありますか?」

「いや、うちはない」

「口論になったことは?」

「ない」

「では、どうして『嫌な人』だと思われたんですか?」


店主は言葉に詰まった。


「みんな……そう言うとったからや」


池尻は静かに礼を言って店を出た。 “みんなが言っていた”それは本人の体験ではない。誰かから聞いた印象だった。


 










その後も池尻は時計店、惣菜店、和菓子店と話を聞いて回った。しかし、返ってくる言葉は驚くほど似ていた。


「大槻は商店街を壊そうとしていた」

「嫌われとった」

「みんな迷惑しとった」


だが、「いつ」「どこで」「何をされたのか」と尋ねると、誰もはっきり答えられない。ある人は「昔からそう聞いていた」と言い、別の人は「他の店主が怒っていた」と答えた。池尻は商店街のベンチに腰掛け、メモ帳を見返した。心理学の本で読んだ一節を思い出す。


『人は、自分の記憶よりも集団の記憶に影響される』


噂が何度も繰り返されると、人は自分が実際に経験したことのように感じ始める。それを「社会的記憶」と呼ぶ。では、この商店街では何が繰り返されてきたのか。大槻は本当に嫌われていたのか。それとも、「嫌われていたことになっている」のか。池尻はメモ帳に大きく一行だけ書いた。


・全員の証言が似すぎている。


そして、その文字を丸で囲んだ。事件を調べるとき、証言が一致することは必ずしも真実を意味しない。むしろ、誰もが同じ言葉を口にするときほど、その裏に語られていない事実がある。池尻は顔を上げた。商店街の一番奥。古びた木の看板が目に入る。


古書 青葉堂


店先には「営業中」と書かれた札が揺れていた。池尻は深く息を吸う。1人だけ、話を聞いていない人がいる。その古本屋の主人が、この事件で初めて、商店街の”空気”とは違う証言を口にすることになるとは、池尻はまだ知らなかった。











警察署、捜査本部。会議室の壁一面には、被害者・大槻恒一の顔写真とサンロード商店街の見取り図が貼られていた。長机には現場写真、鑑識資料、聞き込みの調書が山積みになっている。昆陽は腕を組んだまま、それらを静かに眺めていた。若い刑事が報告を始める。


「被害者は市内で不動産会社を経営していました。サンロード商店街の空き店舗を3年前から順次取得しており、現在までに11件の土地・建物に関わっています。」

「目的は?」

「再開発計画です。老朽化した商店街を建て替え、マンションと商業施設を併設する構想だったようです。」


昆陽は小さく頷いた。


「反対していた者は?」

「かなりいます」


刑事は調書をめくる。


「店主の多くが『大槻とは揉めていた』と証言しています」

「具体的には?」


その問いに、若い刑事は少し困ったような顔をした。


「……それが、具体的なトラブルはほとんど確認できていません」


昆陽は顔を上げた。


「どういうことや?」

「皆さん、『揉めていた』『嫌われていた』とは言うんですが、いつ、どこで、何があったのかは曖昧です」

「伝聞か」

「その可能性があります」


昆陽は資料を閉じた。経験上、こういう証言は珍しくない。1人が言い始めたことを、周囲が何年も繰り返すうちに、それが事実として定着する。しかし、事件の捜査で必要なのは印象ではない。事実だ。


「第一発見者は?」

「稲野正志。供述に変化はありません」

「アリバイは?」

「午前5時に自宅を出たことは、防犯カメラで確認済みです。」


昆陽は腕時計を見た。午前10時。


「もう一度、稲野さんの話を聞く」


刑事たちは少し驚いた表情を見せた。


「まだ疑うんですか?」


昆陽は静かに答える。


「疑うんやない。確かめるんや」










午後1時。稲野は再び警察署へ呼ばれていた。前回と同じ会議室。冷えたお茶が1つ置かれている。


「何度もすみません」


若い刑事が頭を下げた。


「いえ……」


稲野は苦笑するしかない。そこへ昆陽が入ってきた。


「体調はいかがです?」

「大丈夫です」

「眠れたか?」

「正直、あまり」


昆陽は椅子に座る。前回より柔らかい口調だった。


「今日は確認だけや」

「はい」

「事件の日、誰かとすれ違った記憶は?」

「ありません」

「物音は?」

「……思い返しても?」


昆陽は稲野の目を見つめる。嘘を探すのではない。記憶を探している。人は強い衝撃を受けると、その直前の出来事を忘れることがある。それを昆陽は何度も経験してきた。


「ゆっくり思い出してください」


稲野は目を閉じた。パン屋の香り、イヤホンから流れる音楽、止まった噴水、黒い影。そこまでは鮮明だ。しかし、それ以前の数分間が曖昧だった。


「……思い出せません」


昆陽はメモ帳を閉じた。


「分かりました」


部屋を出ると、若い刑事が尋ねる。


「どうでした?」

「嘘はない」

「じゃあ」

「でも、分からん」


昆陽は廊下の窓から外を見た。


「犯人やないとは、まだ言い切れん」


証拠がない。それは無実の証明にも、有罪の証明にもならない。だから捜査は続けるしかない。









そのころ池尻は、商店街の一番奥にある古本屋「青葉堂」の暖簾をくぐっていた。店内は外の暑さが嘘のように涼しい。古い紙の匂い、木製の本棚、天井近くまで積み上げられた文庫本。時間だけがゆっくり流れているような空間だった。


「いらっしゃい」


奥から白髪の店主が現れた。70歳近いだろうか。細い眼鏡を掛け、柔らかな笑みを浮かべている。


「本をお探しですか?」

「いえ、少しお話を」


池尻は名乗り、事件について尋ねた。店主はしばらく黙っていた。そして静かに口を開く。


「みんな、大槻さんの悪口を言っていましたか?」


池尻は少し驚いた。


「……はい」

「でしょうね」

「でも…」


店主は首を横に振る。


「私は違います」


池尻は思わず身を乗り出した。


「違うとは?」

「大槻さんは、商店街を壊そうとしていたんじゃありません」

「え?」

「残そうとしていたんです」


池尻は言葉を失う。初めて聞く証言だった。


「老朽化した建物を直して、新しい店を呼びたいと言っていました」

「立ち退きの話は?」

「もちろんありました」


店主は静かに頷く。


「でも、それは商店街をなくすためじゃない。未来へ残すためでした」


店主は本棚から1冊の古いアルバムを取り出した。そこには30年ほど前のサンロード商店街の写真が収められている。今より人通りが多く、笑顔があふれていた。


「昔は本当に賑やかだった」


店主は懐かしそうに写真を見つめる。


「大槻さんは、この景色を取り戻したいと言っていたんですよ」


池尻はアルバムを見つめながら考える。もし店主の話が本当なら、商店街の人々の証言とは正反対になる。どちらかが嘘をついている。あるいは…どちらも本当ではない。帰り際、店主がぽつりと呟いた。


「若い人」

「はい」

「人はね、自分に都合の悪いことほど忘れようとする。覚えておくといいですよ」


池尻はその言葉を胸に刻んだ。







夕方。商店街の入口で、池尻は昆陽と鉢合わせになった。


「また君か」


昆陽が苦笑する。


「聞き込みです」

「収穫は?」


池尻は少し考えた。


「証言が、1つだけ違いました」

「ほう」

「青葉堂の店主だけが、大槻さんを悪く言いませんでした」


昆陽の表情が変わる。


「……青葉堂か」

「はい」

「理由は?」

「商店街を壊す人ではなく、残そうとしていた、と」


昆陽は腕を組んだ。その証言は警察の調書にはなかった。


「君は、どっちを信じる?」


池尻は首を横に振る。


「まだ決めません」

「なぜや?」

「本で読んだんです」

「人の話は、事実と感情が混ざる。だから、証言だけでは結論を出せません。」


昆陽は静かに笑った。


「なるほど」


そして初めて、刑事ではなく1人の年長者として池尻を見た。


「君は答えを急がんのやな」

「急ぐと、見落とします」


昆陽はゆっくり頷いた。


「それは刑事にも大事なことや」


短い会話だった。だが2人の間には、これまでにはなかった小さな信頼が芽生え始めていた。その夜、昆陽は青葉堂の店主の証言をもう一度確認するため、翌朝訪ねる予定を手帳に書き込んだ。しかし、その約束が果たされることはなかった。







翌朝、午前7時30分。サンロード商店街には、いつもの朝とは違う緊張感が漂っていた。事件から3日が過ぎても、店を開ける者たちの表情は晴れない。商店街の入り口には「通常営業」の看板が立てられているものの、誰もが落ち着かない様子で周囲を見回している。そんな中、クリーニング店の店主が慌てた様子で商店街中央へ駆けていった。


「誰か、警察呼んで!」


その声に、近くの店主たちが一斉に集まる。商店街の掲示板。町内会のお知らせや夏祭りのポスターが貼られているその中央に、一枚の白い封筒が画びょうで留められていた。差出人は書かれていない。宛名もない。ただ、不自然なほど真新しい白い封筒だけが、朝日に照らされていた。






20分後。規制線が張られ、昆陽が現場へ到着した。


「誰も触っとらんな」

「はい」


制服警察官が答える。


「第一発見者が気付いて、そのまま通報しています」

「よし」


昆陽は鑑識に合図を送る。手袋をはめた鑑識係が慎重に封筒を外し、指紋を傷つけないよう静かに開封した。中には1枚のコピー用紙。パソコンで印字された、わずか一行の文章だけが並んでいた。


『次は、本当に知っている者が死ぬ』


その場の空気が凍りつく。若い刑事が小さく息を呑んだ。


「犯人からの……予告ですか」


昆陽は紙を見つめたまま答えない。


「本当に知っている者…」


その言葉だけが妙に引っ掛かった。まるで、最初の被害者は”知っていた人間”ではない、と言いたげな書き方だった。


「鑑識」

「はい」

「封筒も紙も全部調べろ。印刷機の特徴、紙質、指紋、繊維、何でもええ」

「了解です」









昼過ぎ。稲野から連絡を受けた池尻も商店街へやって来た。規制線の外から掲示板を見つめる池尻に気付いた昆陽が、ゆっくり歩み寄る。


「また君か」


その口調には、以前のような棘はなかった。


「脅迫状のことを聞きました」

「情報が早いな」

「商店街では、もう皆さん知っています」


昆陽は苦笑した。


「秘密はすぐ広まる」

「ええ。でも、本当のことほど広まりません」


池尻の言葉に、昆陽は一瞬だけ目を細めた。


「どういう意味や?」


池尻は少し考えてから答える。


「人は理解しやすい話を信じます。でも、本当の出来事は、もっと複雑です」


昆陽は黙って頷いた。


「脅迫状、見せてもらえますか?」


本来なら部外者に証拠品を見せることはできない。しかし昆陽は、鑑識が撮影した写真をスマートフォンで開き、池尻にだけ見せた。池尻はしばらく文章を見つめていた。そしてメモ帳を開く。


「何か分かったか?」

「まだ仮説です」

「聞こう」


池尻は文章を指さした。


「この”本当に”という言葉です」

「……」

「もし『次は知っている者が死ぬ』だけなら、意味は単純です」

「でも”本当に”が入ることで、最初の被害者は”真実を知らなかった”とも読めます」


昆陽は腕を組んだ。同じことを、自分も感じていた。


「つまり、犯人には目的がある。恨みだけではありません。何かを隠したい、あるいは暴きたい」


 池尻はそう言って言葉を切った。


「まだ証拠がありません。だから断定はできません。」


昆陽は小さく笑った。


「君は、ちゃんと”分からん”と言えるんやな」

「分からないことを分かったと言うのは、一番危険です」


その言葉に、昆陽は深く頷いた。刑事になって35年。経験だけで突っ走った捜査が、どれだけ事件を遠回りさせるかを何度も見てきた。目の前の学生は、結論よりも事実を大切にしている。その姿勢は、刑事として信頼できるものだった。











その日の夕方。警察署の資料室。薄暗い部屋には、古い事件簿が年代順に並べられている。昆陽は受付で資料を受け取り、閲覧机へ運んだ。背表紙には、色あせた文字。


『昭和五十九年 サンロード商店街火災』


ページをめくる。現場写真、新聞記事の切り抜き、事情聴取の概要。しかし、どこか違和感があった。


「少ない……」


昆陽は思わず呟く。商店街の火災で1人が死亡した事件にしては、資料があまりにも少ない。事情聴取も数枚だけ。現場写真も数点。結論は、たった一行だった。


『漏電による失火と断定。事件性なし』


昆陽は首を傾げる。経験上、古い資料でも、ここまで薄い事件簿は珍しい。まるで、誰かが必要な記録だけを抜き取ったようだった。そのとき、資料の最後に一枚だけ挟まれた古い新聞記事が目に留まる。記事の見出しは小さい。


『火災で少年死亡、商店街騒然』


記事の端には、鉛筆で丸く印が付けられていた。そして、その横には誰かの筆跡で短く書かれている。


 「事故ではない」


昆陽は息を止めた。誰が書いたのか。いつ書いたのか。分からない。しかし、その一言だけが異様な存在感を放っていた。











同じころ。サンロード商店街では、青葉堂の店主が1人、閉店準備をしていた。店内の照明を一つずつ消し、本棚の整理を終える。外はすっかり暗くなっている。シャッターを閉めようとした、そのときだった。店の入り口に、1つの人影が立っていた。


「……いらっしゃい」


店主は相手の顔を見ると、少し驚いたように目を見開いた。


「あなたでしたか」


相手は何も答えない。ゆっくりと店の中へ入ってくる。店主は安心したように微笑んだ。


「ちょうど、お話ししたいことがありましてね」


扉が静かに閉まる。店の灯りが消える。その夜、商店街で誰もその物音を聞く者はいなかった。翌朝、古本屋「青葉堂」の店主が、店内で冷たく息絶えた姿で発見されることを、このとき知る者はまだ誰もいなかった。


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