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池尻くんの読書ノート 読まれなかった本  作者: 伊丹 宝


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1/15

商店街の朝

ただ本が読みたい、池尻君の話。

ー 午前5時30分 ー


夏の朝は早い。東の空がゆっすらと明るくなり始めるころ、街はゆっくりと目を覚まそうとしていた。住宅街では新聞配達のバイクが走り、遠くから始発電車の音が聞こえる。まだ人通りは少ないが、それでも一日を始める人たちは確かにいる。その一人が、稲野正志いなのまさしだった。サンロード商店街のすぐ裏にあるマンションで一人暮らしをしている会社員だ。規則正しい生活が性に合っていた。毎朝5時に起床し、軽くストレッチをしてからプロテインを飲み、スポーツバッグを肩に掛けて家を出る。そして24時間営業のジムで汗を流してから出勤する。それを5年以上、1日も欠かしたことがない。近所では"健康オタク"と冗談交じりに呼ばれていた。マンションのエントランスを出ると、朝の空気が肌を包んだ。


「今日も暑くなりそうやな」


誰に聞かせるでもなく呟く。7月に入ったばかりだというのに、湿った風がまとわりつく。蝉はまだ鳴いていないが、空気だけが夏の到来を知らせていた。稲野はイヤホンを耳に差し込み、軽快な音楽を流す。歩き始めて10分ほどで、サンロード商店街のアーケードへ入った。この時間の商店街は、不思議な静けさに包まれている。昼間は買い物客や子どもたちの笑い声で賑わう通りも、早朝だけは別世界だった。パン屋では焼き立ての食パンがオーブンから取り出され、小さな和菓子店では店主が暖簾を掛けている。八百屋の前には、その日の朝に届いた段ボールが積み上げられていた。稲野は歩きながら、一軒一軒に目を向ける。


「おはようございます」


パン屋の店主が笑顔で声を掛けてきた。


「おはようさん」

「またジムですか」

「今日は足鍛えるんや」

「よう続きますねえ」

「もう習慣やから」


そんな何気ない会話も、毎朝の楽しみだった。商店街の人たちは互いの顔を知っている。誰がどこへ勤め、どんな家族がいて、何が好きなのか。都会ほど近すぎず、田舎ほど濃すぎない。それがサンロード商店街の距離感だった。だからこそ、この街では「知らない人間」は目立つ。そして「いつもいる人」が突然いなくなることにも、誰より早く気付く。稲野は商店街の中央へ差しかかった。そこには古い噴水がある。子どものころは水が流れていたらしいが、今は止まったまま花壇として使われている。ふと、その先に黒いものが見えた。10メートルほど先。アーケードの柱の陰。人影のようにも見える。


「……また酔っぱらいか」


金曜日の夜には、酔いつぶれて寝ている人を見かけることもある。稲野は苦笑しながら近づいた。


「こんなとこで寝たら風邪ひく……」


言葉が止まる。違う、寝ているのではない。仰向けに倒れた男のシャツは、胸の辺りが黒く濡れていた。いや、黒ではない。赤だった。朝日に照らされ、血が鈍く光っている。


「え……」


足がすくむ。心臓が嫌な音を立て始めた。男は50代くらいだろうか。スーツ姿で、革靴はきれいに磨かれている。右手は不自然に胸の上で止まり、目は開いたまま何も映していなかった。血の匂いが鼻をつく。鉄のような、生温かい臭いだった。


「お、おい……」


返事はない。恐る恐る肩に触れようとして、稲野は手を止めた。触ってはいけない。ニュースで何度も見た。現場を荒らしてしまうかもしれない。震える手でスマートフォンを取り出す。画面を押そうとしても指先が思うように動かない。深呼吸を一つ、ようやく「110」が押せた。


『はい、110番です。事件ですか、事故ですか』

「じ、事件……やと思います」

『落ち着いてください。何がありましたか』

「人が……人が倒れてるんです」

『意識はありますか』

「ありません……たぶん……血が……」

『場所を教えてください』

「…市の……サンロード商店街です」


電話の向こうの声は終始落ち着いていた。その冷静さだけが、今の稲野には救いだった。


『警察官と救急隊を向かわせます。現場から離れず、安全な場所で待機してください』

「わ、分かりました」


通話を切る。汗が止まらない。夏の暑さのせいではない。膝が震えている。自分が今、本当に死体を見ているのだという現実が、少しずつ頭に染み込んでくる。10分もしないうちに、サイレンの音が近づいてきた。赤色灯がアーケードの天井を赤く染める。パトカーが商店街の入口に止まり、制服警察官が駆け寄る。


「第一発見者の方ですか!」

「は、はい……」

「こちらへ」


規制線が張られ、救急隊が遺体を確認する。しかし、その結果はすぐに伝えられた。


「死亡確認」


短い言葉が、現場の空気をさらに重くした。そこへ、1台の黒いセダンがゆっくりと停まる。後部座席から降りてきた男は、50代後半。背は高く、白髪混じりの短髪。くたびれたスーツ姿だったが、その鋭い眼差しだけは歳月に磨かれた刃物のようだった。


昆陽こや警部補です」


若い刑事が小声で紹介する。男は返事もせず、現場を一瞥した。遺体、血痕、第一発見者、商店街の構造。それらを一瞬で頭に入れたように見えた。昆陽はゆっくりと稲野の前まで歩み寄る。


「……あんたが見つけたんやな」


低く落ち着いた声だった。


「はい」

「毎朝ここを通るんか?」

「毎日通ります。5年以上は毎日」

「今日は何時に来た」

「5時40分くらいです」

「誰か見たか?遺体の周辺で」

「誰も……」


昆陽は稲野の顔から目を離さない。その視線には威圧感があった。嘘を見逃さない刑事の目だった。


「今日はいつもと違うことをしたか」

「いいえ」

「本当か?」

「本当です」


数秒間の沈黙。昆陽はゆっくりと遺体へ目を向けた。そして、小さく呟く。


「第一発見者が、一番怪しまれる」


その言葉に、稲野の心臓は大きく脈打った。無実であっても、疑われる。その現実が、冷たい朝の空気よりも重く彼の胸にのしかかっていた。このとき稲野はまだ知らなかった。この朝の出来事が、自分の人生を大きく変える事件の始まりになることを。








規制線の黄色いテープが張られると、サンロード商店街の静けさは一変した。


「何があったんや」

「人が刺されたらしい」

「第一発見者は誰や?」


開店準備をしていた店主たちが、店先から不安そうに現場を見つめる。制服警察官は野次馬を少しずつ下がらせ、鑑識課の職員が無言で現場へ入っていった。昆陽は遺体のそばにしゃがみ込み、何も言わずに観察を始める。年齢は50代前半。整えられた髪に高価そうな腕時計。胸部には鋭利な刃物で刺されたと思われる傷が一か所。出血量からみて致命傷だったことは明らかだった。


「財布は?」


昆陽が短く尋ねる。若い刑事が首を横に振る。


「見当たりません」

「スマートフォンは?」

「ありません」

「身分証もなし……か」


昆陽は遺体の周囲をゆっくり見回した。争った跡はほとんどない。商品棚も植木鉢も倒れていない。靴も脱げていない。まるで被害者は抵抗する間もなく、一撃で命を奪われたようだった。鑑識の一人が声を上げた。


「昆陽さん、これを」


白い手袋に包まれた手が差し出したのは、一冊の文庫本だった。表紙には『罪と罰』と書かれている。昆陽は受け取らず、その場から眺めるだけだった。


「被害者の持ち物か?」

「分かりません。遺体のすぐ横に落ちていました」

「指紋を採れ」

「はい」


昆陽は文庫本を見つめたまま、小さく眉を寄せる。商店街で刺殺された男。財布も携帯電話も消えている。その代わりに残された一冊の小説。偶然にしては出来すぎている。だが、それ以上の判断材料はまだなかった。昆陽は立ち上がると、規制線の外で待つ稲野のもとへ向かった。


「少し話を聞かせてもらう」


近くの集会所が臨時の事情聴取室となった。冷房の効いた部屋には長机と椅子が並び、録音機が置かれている。昆陽は向かいに座ると、メモ帳を開いた。


「名前は?」

「稲野正志です」

「年齢は?」

「46歳です」

「職業は?」

「食品メーカーの営業です」

「今日は仕事は?」

「休みを取るよう言われました」


昆陽は頷いた。質問は淡々と続く。起床時間、家を出た時間、歩いた経路、誰と会ったか、何を見たか、何を触ったか。同じ質問が、言い回しを変えながら何度も繰り返される。稲野は一つひとつ丁寧に答えた。嘘はない。隠すこともない。それでも昆陽の表情は変わらなかった。


「5年間、毎朝同じ時間にここを歩いているんやな?」

「はい」

「誰でも知っとることか?」

「近所の人なら」


昆陽は腕を組む。第一発見者、現場を毎朝通る人物、生活リズムが決まっている。もし犯人が遺体を見つけさせようとしたなら、稲野の行動は利用しやすい。逆に、犯人が稲野自身なら、毎朝通ることを理由に「偶然見つけた」と説明できる。どちらにも解釈できる。それが昆陽には引っ掛かっていた。


「稲野さん」

「はい」

「被害者に見覚えは?」

「ありません」

「本当か?」

「ありません。」


昆陽はしばらく黙った。長年の経験から、人は嘘をつくと目をそらしたり、指先を動かしたりする。だが、稲野にはそれが見られない。緊張しているだけ、そうも思える。しかし、刑事は「信用する」のではなく、「疑う」ことから始める職業だった。


「当分、市外へは出んでください」

「……僕、疑われてるんですか?」


昆陽は少し間を置いて答えた。


「第一発見者は、全員疑われる」


それは慰めではなく、事実だった。









同じころ。市立大学文学部、午前11時。1限の講義が終わると、多くの学生が食堂へ向かう。しかし、一人だけ逆方向へ歩く青年がいた。池尻悠人いけじりゆうと、二十一歳。肩からキャンバスバッグを提げ、その中には分厚い文庫本が三冊入っている。


「また図書館?」


友人の中西が声を掛けた。


「昼飯は?」

「あとで」

「毎日飽きへんな」


池尻は笑う。


「本は毎日違う景色を見せてくれるから」

「俺には全部同じ紙にしか見えん」


二人は笑い合い、別れた。大学図書館の自動ドアが開く。池尻は迷うことなく三階の閲覧室へ向かった。一番奥、窓際の席。そこが彼の定位置だった。バッグから取り出したのは、古びた海外ミステリー。栞を外し、静かにページをめくる。周囲の音は自然と消えていく。文字だけが頭の中へ流れ込み、登場人物の表情や街並みが鮮やかに浮かび上がる。池尻にとって読書は趣味ではない。世界を知る方法だった。刑事の考え方、犯罪者の心理、法医学、建築、歴史、興味を持ったものは何でも読んだ。知識を集めることが目的ではない。


「人はなぜそう行動するのか」


その答えを探すためだった。昼過ぎ、1冊を読み終えた池尻は静かに本を閉じる。その瞬間、バッグの中でスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、少しだけ首を傾げる。


ー 稲野正志 ー


電話を受けると、聞こえてきた声は朝とは別人のように弱々しかった。


「池尻くん……少し、時間あるか」


その一言が、池尻の日常を大きく変えることになるとは、このときまだ本人も気付いていなかった。午後1時を回ったころ、大学図書館を出た池尻悠人は、夏の日差しに目を細めた。スマートフォンには、稲野からの着信が3件。普段、必要なこと以外で電話をしてくる人ではない。何かあったのだろうと折り返すと、電話口から聞こえてきた声は震えていた。


「池尻くん……悪い。今、少し会えへんか」

「どうしました」

「サンロードで人が死んだ」


池尻は足を止めた。朝から大学にいたため、まだニュースも見ていなかった。


「ニュースになるような事件ですか?」

「たぶんなる。……それより、警察に犯人やないかって思われてる」


短い沈黙が流れる。池尻は稲野の性格を知っていた。近所の喫茶店で顔を合わせるうちに親しくなったが、誰かと争うような人物ではない。仕事帰りには商店街のゴミ拾いを手伝い、休日には子ども会のイベントを手伝う。人付き合いは得意ではないが、真面目で誠実な人間だった。


「今、どちらですか?」

「家や」

「すぐ行きます」


池尻はバッグを肩に掛け直し、駅へ向かって歩き始めた。









稲野のマンションは、サンロード商店街から歩いて5分ほどの場所にある。部屋へ入ると、テーブルの上には手つかずのコーヒーが置かれていた。稲野の顔色は朝よりも悪い。


「警察は何て言いました?」

「『第一発見者は疑われる』って」


稲野は苦笑した。


「当たり前なんやろうけどな。俺しか見つけてへんし」

「刑事さんは?」

「昆陽いうベテランや」


その名前を聞いて、池尻は首を傾げる。


「厳しい人でした?」

「厳しいというより……よう見とる」


稲野は事情聴取の様子を話した。同じ質問を何度もされたこと。少し言葉に詰まるたびに、昆陽がじっと表情を見ていたこと。5年間の生活習慣まで細かく確認されたこと。


「嘘を見抜こうとしてるんや」


池尻は静かに頷いた。


「刑事としては当然です」


「でも、このままやったら俺……」

「逮捕されるとは限りません」

「せやけど…」


稲野は両手を握り締める。


「無実やって証明するには、どうしたらええ?」


池尻は少し考えた。


「事件を知ることです」

「え?」

「犯人が誰か分かれば、稲野さんは犯人ではないと証明できます」


稲野は目を丸くした。あまりにも単純で、しかし最も本質的な答えだった。


「……手伝ってくれるか?」

「もちろんです」


池尻は迷わず答えた。


「ただし、警察の邪魔はしません」

「分かった」


2人はその日の夕方、もう一度サンロード商店街へ向かうことにした。










規制線はまだ残されていた。現場には制服警察官が立ち、商店街を行き交う人々も事件の話題で持ち切りだった。その中で、1人だけ腕を組んで現場を見つめる男がいた。昆陽である。池尻は近づき、軽く頭を下げた。


「お忙しいところ失礼します」


 昆陽はゆっくり振り向いた。


「君は?」

「池尻悠人です。稲野さんの知り合いです」


昆陽は池尻を頭の先から足元まで眺める。大学生らしいラフな服装。肩には本が何冊も入っていそうなキャンバスバッグ。いかにも事件とは縁がなさそうな青年だった。


「何の用や?」

「稲野さんのことが心配で」

「家族か?」

「いいえ」

「なら帰りなさい」


昆陽の返事は素っ気なかった。


「ここは遊び半分で来る場所やない」

「遊びではありません」


池尻の声は穏やかだった。


「現場を少し見せていただけませんか?」


昆陽はため息をつく。


「探偵気取りか?」

「違います」

「ほんなら何や?」


池尻は少しだけ笑った。


「本を読むのが好きな学生です」


昆陽は呆れたように肩をすくめた。


「本で事件は解決できん」

「そうかもしれません」


池尻は規制線の向こうを見つめる。


「でも、本には現実を考えるヒントがあります」


昆陽は返事をしなかった。どうせ数分もすれば帰る。そう思っていた。そのときだった。鑑識係が証拠品を運び出してくる。透明な証拠袋の中には、一冊の文庫本。表紙には『罪と罰』の文字が見えた。池尻の視線が止まる。


「……あの本」


鑑識が頷く。


「遺体のすぐ横に落ちてた」


池尻は少し考え込み、静かに尋ねた。


「昨夜、この辺りは雨でしたよね?」


昆陽が初めて反応した。


「それがどうした?」

「結構強く降りましたか?」

「夜中まで降っとった」


池尻は証拠袋の中を見つめたまま言った。


「不思議ですね」

「何がや?」

「本が、ほとんど濡れていません」


一瞬、空気が止まった。昆陽は証拠袋を見つめる。確かに表紙は乾いている。多少の湿気はあるが、地面に長時間落ちていた本とは思えないほど状態が良い。


「……」


昆陽は何も言わず、鑑識係に向き直った。


「この本、回収した時の状況をもう一回説明してくれ。」


鑑識係が戸惑った表情を見せる。


「え、ええ……」


池尻は続ける。


「もちろん偶然かもしれません」

「……」

「でも、もし犯人が後から置いたのなら」


その先は言わなかった。昆陽には十分伝わっていた。犯人は現場を演出した。そう考えれば、この事件は単なる通り魔ではない。誰かが意図を持って作り上げた”舞台”になる。昆陽は初めて池尻を真正面から見た。


「君」

「はい」

「文学部やな?本好きやし」

「そうです」

「その割には、よう見とる」


池尻は照れくさそうに笑う。


「本を読むと、人が見落とすことに気付けるようになるんです」


昆陽は何も答えなかった。しかし、その青年の言葉は胸に残った。経験だけでは届かない視点。それを、この学生は持っているのかもしれない。


夕暮れが商店街を赤く染め始める。事件現場は静けさを取り戻しつつあった。だが、その静けさは終わりではない。始まりだった。誰が男を殺したのか。なぜ現場に1冊の本が残されていたのか。そして、その本は誰に向けられたメッセージなのか。まだ誰も気付いていない。この殺人事件は、1人の男の死で終わる事件ではなかった。小さな商店街に隠された過去を暴き、やがて幾人もの運命を巻き込む、長い物語の幕開けだった。


1話がどれくらいの長さにすれば読みやすいか分からず。悩みながら頑張ります。

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