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第9話 愛の正体

第9話 愛の正体


 新堂航は、自分が空っぽになっていく感覚に怯えていた。


 以前はもっと怒っていた。


 もっと笑っていた。


 もっと迷っていた。


 もっと夢を見ていた。


 今は違う。


 感情が薄い。


 喜びも悲しみも遠い。


 毎日が灰色のフィルター越しに見えているようだった。


 会社へ行く。


 仕事をする。


 帰宅する。


 母と話す。


 見合い相手の里香と連絡を取る。


 休日は実家へ行く。


 誰から見ても真面目で堅実な人生だった。


 だが、心だけがどこかへ置き去りになっていた。


 その日の午後。


 会社の資料倉庫で過去案件の整理を任された。


 地下にある古い保管室だった。


 蛍光灯の白い光。


 紙と埃の匂い。


 積み上げられた段ボール箱。


 空調の低い唸り。


 人気のない空間だった。


「古い資料ばっかりだな」


 一人で呟く。


 棚の奥から箱を引き出す。


 五年前の案件。


 三年前の案件。


 そして二年前。


 あるファイルを見つけた瞬間、航の手が止まった。


 AI開発プロジェクト。


 かつて応募しなかった案件だった。


 高木に


「お前ならやれる」


 と言われた仕事。


 それを自ら諦めた。


 いや。


 本当に自分で諦めたのだろうか。


 ふと気になってページをめくる。


 すると最後のページから一枚の付箋が落ちた。


 黄色い付箋。


 見覚えのある丸い文字。


 葵だった。


 そこには短い言葉が書かれていた。


『絶対に向いてる』


『怖いなら一緒に悩む』


『でも後悔だけはしないで』


 それだけだった。


 たったそれだけ。


 なのに視界が揺らいだ。


 思い出す。


 あの日の夜。


 葵は本気で応援してくれた。


 挑戦しろと命令したわけではない。


 無理に背中を押したわけでもない。


 ただ、


「自分で決めて」


 と言ってくれた。


 それなのに。


 自分は何を選んだ。


 応募しなかった。


 理由は簡単だった。


 失敗したら母が心配すると思ったから。


 その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


 倉庫の空気が急に重く感じる。


 航はファイルを閉じた。


 呼吸が苦しい。


 頭が痛い。


 帰宅途中。


 冬の風が冷たかった。


 駅前のイルミネーションが滲んで見える。


 カップルたちが笑いながら歩いている。


 以前なら自分もその中にいた。


 葵と一緒に。


 胸が痛んだ。


 帰る場所は実家だった。


 最近は半ば同居状態になっている。


 恵子もそれを喜んでいた。


 玄関を開ける。


 夕食の匂いが漂っていた。


 肉じゃが。


 焼き魚。


 炊きたてのご飯。


 懐かしい匂い。


 安心するはずの匂いだった。


 だが今日は違った。


 息苦しかった。


「お帰り」


 恵子が笑う。


「遅かったわね」


「ああ」


「ご飯できてるわよ」


 優しい声。


 いつもと同じ。


 なのに胸の中では違和感が膨らみ続けていた。


 夕食後。


 航は庭へ出た。


 少し頭を冷やしたかった。


 夜風が頬を撫でる。


 遠くで犬が鳴いている。


 その時だった。


 リビングの窓が少し開いていることに気づいた。


 中から恵子の声が聞こえる。


 電話だった。


 叔母と話しているらしい。


 最初は聞くつもりはなかった。


 だが自分の名前が聞こえた瞬間、足が止まった。


『航は本当に優しい子だから』


 恵子が笑う。


『昔からそうなの』


 叔母も笑った。


『お姉ちゃんにそっくり』


『ふふ』


 穏やかな会話だった。


 いつも通り。


 だが次の言葉だった。


『だから心配なのよ』


 恵子が言う。


『あの子、自分で決めるの苦手だから』


 航の背中が強張る。


『私が見ていてあげないと』


 静かな声だった。


 責める声ではない。


 優しい声だ。


 愛情に満ちた声。


 なのに。


 なぜだろう。


 その言葉を聞いた瞬間、胸が冷えた。


『一人じゃ危なっかしいの』


『お姉ちゃんがいて良かったわね』


『本当に』


 恵子は笑った。


『航は私が支えてあげないと駄目だから』


 その時。


 突然だった。


 頭の中で何かが繋がった。


 高校。


 大学。


 就職。


 恋愛。


 同棲。


 転職。


 挑戦。


 すべて。


 すべてだ。


 母は命令していない。


 反対もしていない。


 ただ、


「心配」


 と言い続けた。


 そして自分は、その心配を解消する選択ばかりしてきた。


 母の安心。


 母の笑顔。


 母の満足。


 それを守ることが、自分の人生になっていた。


 航はその場で立ち尽くした。


 夜風が冷たい。


 なのに汗が滲む。


 息が苦しい。


 心臓が速い。


「違う……」


 小さく呟く。


 だが否定できない。


 母は愛してくれていた。


 それは本当だ。


 嘘じゃない。


 だが。


 愛していたのは、


 自分自身なのか。


 それとも、


 自分を必要とする息子という存在なのか。


 その疑問が初めて生まれた。


 部屋へ戻る。


 鏡の前に立つ。


 そこには疲れ切った男がいた。


 二十八歳。


 本来なら自分の人生を生きているはずの年齢。


 だが、その目は迷子の子どものようだった。


 葵の付箋を取り出す。


 何度も読み返す。


『後悔だけはしないで』


 文字が滲む。


 その瞬間だった。


 ようやく気づいた。


 葵は自分に自由をくれようとしていた。


 母は自分を守ろうとしていた。


 だが。


 守ることと支配することは、時にとてもよく似ている。


 航は初めて理解した。


 今まで愛だと思っていたものの中に、管理が混じっていたことを。


 心配という言葉の中に、鎖が隠されていたことを。


 そしてその鎖を、自分自身が握りしめ続けていたことを。


 窓の外では冬の風が吹いていた。


 長い夜の始まりだった。


 だが同時にそれは、二十八年かけて閉じ込められていた檻の存在を、初めてはっきりと見つけた夜でもあった。



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