第10話 檻の外
第10話 檻の外
新堂航は怖かった。
二十八年間で一番怖かった。
怒られることではない。
嫌われることでもない。
失敗することでもない。
母を失望させることだった。
その恐怖は幼い頃から体の奥に染み込んでいた。
だから今も足が震えている。
心臓が痛いほど速く打っている。
呼吸も浅い。
それでも。
それでも今日だけは逃げたくなかった。
朝の光が障子を透かして部屋へ差し込んでいる。
実家の二階。
子どもの頃から使っていた部屋。
本棚。
勉強机。
古いカーテン。
何も変わらない空間だった。
だが航だけが変わっていた。
枕元にはスマートフォン。
そこには今日の予定が表示されている。
午後一時。
牧村里香との二回目の見合い。
母が楽しみにしている日。
親戚たちも応援している日。
誰もが正しいと言う日。
航はベッドから立ち上がった。
窓を開ける。
冷たい風が流れ込む。
空は青かった。
雲一つない。
それなのに胸の中では嵐が吹いていた。
階下から味噌汁の香りが漂う。
朝食の時間だった。
ダイニングへ降りる。
恵子は機嫌が良かった。
クリーム色のセーターを着ている。
食卓には焼き鮭。
卵焼き。
小松菜のお浸し。
豆腐の味噌汁。
炊きたてのご飯。
湯気が立ち上っていた。
「おはよう」
恵子が笑う。
「今日は良い日になりそうね」
航は席へ座った。
だが箸を持つ気になれない。
「母さん」
「なあに?」
恵子は笑顔のままだった。
航は深く息を吸う。
そして言った。
「俺、今日行かない」
時間が止まった。
味噌汁の湯気だけが揺れている。
恵子の笑顔が少しだけ固まった。
「え?」
「見合い」
「どうして?」
静かな声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
いつもの母だった。
だが航は知っていた。
ここで曖昧なことを言えば終わる。
また飲み込まれる。
だから初めて本音を口にした。
「会いたくないから」
恵子の目が揺れた。
「里香さんは良い子よ」
「分かってる」
「じゃあ」
「俺が会いたくないんだ」
沈黙。
冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。
やがて恵子が言った。
「まだ葵さんのこと引きずってるの?」
「違う」
「じゃあ何?」
航は拳を握った。
手のひらに爪が食い込む。
「母さん」
「うん」
「俺の人生なんだ」
その言葉を口にした瞬間、涙が出そうになった。
二十八年かかって初めて言った言葉だった。
「母さんの人生じゃない」
恵子は黙った。
「俺の人生なんだ」
もう一度言う。
すると。
恵子の顔から笑顔が消えた。
初めて見る顔だった。
冷たい。
硬い。
見知らぬ顔だった。
「何を言ってるの」
低い声だった。
「母さん」
「誰のおかげでここまで育ったと思ってるの?」
胸が凍る。
その言葉は今まで一度も聞いたことがなかった。
「私はあなたのために生きてきたのよ」
声が震えている。
怒りだった。
「父親がいなくなってからどれだけ苦労したと思ってるの!」
恵子は立ち上がった。
「習い事もさせた!」
「大学も出した!」
「病気の時も看病した!」
航は何も言えなかった。
恵子の目には涙が浮かんでいる。
「全部あなたのためだった!」
その叫びを聞いた瞬間。
なぜだろう。
逆に静かになった。
今まで見えなかったものが見えた気がした。
母は愛していた。
それは本当だ。
だが同時に。
自分を手放したくなかったのだ。
「母さん」
航は静かに言った。
「ありがとう」
恵子が息を呑む。
「育ててくれてありがとう」
「じゃあ」
「でも」
航は首を横に振った。
「それと俺の人生は別なんだ」
沈黙。
恵子の涙が落ちる。
だが航はもう動かなかった。
逃げなかった。
謝らなかった。
初めてだった。
昼過ぎ。
航は小さなボストンバッグを持って家を出た。
冬の風が吹く。
玄関の前で一度だけ振り返る。
恵子は出てこなかった。
その代わり、リビングのカーテンが少し揺れた。
見ているのだろう。
胸が痛む。
だが足は止めなかった。
数か月後。
地方都市。
海が近い小さな町だった。
潮の匂いがする。
駅前には古い商店街。
夕方になると漁船のエンジン音が聞こえる。
航は小さなIT企業へ転職していた。
社員は二十人ほど。
給料は下がった。
残業も多い。
失敗もする。
「新堂!」
上司の声が飛ぶ。
「仕様確認したか!」
「すみません!」
「ちゃんと見ろ!」
「はい!」
叱られる。
落ち込む。
悔しい。
だが不思議だった。
以前より苦しくない。
失敗しても。
自分で選んだ道だから。
夕食は商店街の定食屋だった。
鯖の味噌煮。
ご飯。
豚汁。
漬物。
湯気の立つ料理を前にすると腹が鳴る。
「いただきます」
一人で食べる。
誰も褒めない。
誰も心配しない。
だが少しだけ美味しかった。
その夜。
アパートへ帰る。
ワンルーム。
狭い部屋。
古い家具。
自分で選んだ時計。
自分で選んだカーテン。
自分で選んだ照明。
ふとスマートフォンが震えた。
画面を見る。
母だった。
恵子。
久しぶりの着信。
胸が苦しくなる。
指先が震える。
出れば安心するだろう。
昔の自分ならすぐ出ていた。
だが航は画面を見つめ続けた。
罪悪感。
不安。
寂しさ。
愛情。
全部ある。
全部本物だ。
それでも。
それでも今日は出ない。
航はゆっくり画面を閉じた。
ブロックはしない。
拒絶もしない。
ただ。
今日は出ない。
それだけだ。
窓の外では海風が吹いていた。
潮の香りが流れ込む。
遠くで船の汽笛が鳴る。
航は静かに目を閉じた。
怖かった。
今でも怖い。
だが胸の奥には、小さな灯がともっていた。
それは自由だった。
誰かのためではなく。
母のためでもなく。
恋人のためでもなく。
自分自身のために選んだ答え。
人生で初めて、自分の意思で選んだ答えだった。
その小さな一歩の先に何があるのか、まだ分からない。
それでも航は歩き出す。
母の影を背負ったまま。
檻の外の世界へ。
自分の人生を生きるために。




