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第11話 離れるために結ばれる

第十一話 離れるために結ばれる


新堂航しんどうわたるは、人を愛することが怖かった。


それは母を憎んでいるからではない。むしろ逆だった。母を愛しているからこそ怖かった。愛することと、支配されることの境界が分からなくなっていたからだ。


地方へ移住して、一年が過ぎていた。海辺の町での暮らしにも、ずいぶんと慣れた。


朝は、潮の香りで目が覚める。出勤前には、ふらりと港を歩くこともある。整然と漁船が並び、カモメが甲高く鳴き、昇ったばかりの朝日が海面を金色に染め上げていく。東京にいた頃には、決して見ることのなかった景色だった。


新しい会社でも、少しずつ自分の居場所ができていた。仕事では、相変わらず失敗ばかりしている。先月も、サーバーの設定を間違えて上司にこっぴどく叱られた。


だが、不思議だった。失敗しても、以前ほど怖くないのだ。なぜなら、自分で選んだ結果だからだ。失敗の責任を取るのも自分自身。それが、今の航にとっては少しだけ誇らしかった。


その日の昼休み、社員食堂でアジフライ定食を食べていた時だった。サクサクとした衣の奥から、柔らかな白身の熱が広がる。


「新堂さん」


女性社員が声を掛けてきた。経理担当の女性だった。黒髪を肩のあたりできれいに切りそろえ、白いブラウスの上に紺色のカーディガンを羽織っている。名前は佐伯美緒さえきみお。三十二歳。どこか海風のように穏やかな人だった。


「これ」


差し出されたのは、一枚の書類だった。


「数字、間違ってましたよ」


「あっ」


航はすぐに顔を赤くした。


「すみません」


「またですか」


美緒は可笑しそうに笑う。


「最近、多いですね」


「気を付けます」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんじゃ困ります」


二人で顔を見合わせて笑った。その笑顔を交わした時、航は心のなかで少し驚いていた。今の自分は、とても自然に笑えていたからだ。元恋人のあおいと別れてから、こんな風に誰かといて肩の力が抜ける感覚は、初めてのことかもしれない。


---


数か月後。二人は付き合い始めていた。


美緒は、かつて鋭い正論をくれた葵とは違う。しかし、あの底なしの包容力で縛りつけてきた母とも、決定的に違った。美緒には美緒の意見があるし、遠慮もしない。だが、相手を自分の思い通りに支配しようとは絶対にしない人だった。


ある休日、二人は海辺のカフェにいた。木造の小さく落ち着いた店だった。大きな窓の向こうには、冬の澄んだ群青色の海がどこまでも広がっている。テーブルの上には、深いコクのあるホットコーヒーと、焼きたてのアップルパイ。ふんわりとシナモンの甘い香りが漂う。


「ねえ」


美緒がデザートフォークを静かに皿の端に置いた。


「お母さんとは、連絡取ってるの?」


航は手元のカップを見つめ、少し考えてから答えた。


「前よりはね」


「そう」


「月に一回くらい、短いやり取りをする程度だけど」


「それでいいと思う」


そのあまりに遮るもののない言葉に、航は少し驚いた。


「もっと親なんだから大事にしろとか、親孝行しろって言わないんだな」


「言わないよ」


美緒は目元を細めて笑った。


「だって、私はお母さんと結婚するわけじゃないもの。私が見ているのは、今の航さんだけだから」


胸の奥が、じんわりと温かくなった。それはかつて、傷だらけになりながら葵が言ってくれたことと少し似ていた。だが、あの頃の自分には受け止める心の器がなかったのだ。自分という人間が自分の足で立つためには、この一年という、孤独で泥臭い自省の時間が必要だったのだろうと素直に受け取れた。


---


その年の春、二人は結婚した。


派手な式ではなかった。海の見える小さな古い教会で、本当に親しい家族と友人だけを招いた、ささやかな結婚式だった。


航は体に馴染むネイビーのスーツをまとい、美緒はシンプルなウェディングドレスを選んだ。手元には白い花束。窓から差し込む春の柔らかな光、涼しい潮風、カモメの声。教会のなかは、温かな空気に満ちていた。


参列者席には、東京から来た母・恵子けいこも出席していた。一年前のあの激しい姿からは想像もつかないほど、少し痩せていた。だが、その表情にはかつての棘はなく、ひどく穏やかだった。


式が終わった後、恵子がゆっくりと航へ近づいてきた。


「綺麗な奥さんね」


「うん」


「本当に、幸せそう」


「そう見える?」


「見えるわ。あなたが自分で選んだんだって、よく分かるもの」


恵子は少し笑った。それは航の記憶の深い底にある、まだ幼い子供だった頃に見せてくれた、作為のない本当の母親の笑顔だった。


航はしばらく迷った。胸が詰まりそうになりながらも、母の目をまっすぐに見つめて言った。


「母さん」


「なあに」


「ありがとう。育ててくれて」


恵子の目が、見る間に大きな涙で潤んでいく。しばらく、痛切なほどの沈黙が続いた。やがて、恵子が震える声で言った。


「こちらこそ」


「え?」


「私を置いて、ちゃんと幸せになってくれて、ありがとう」


その言葉を聞いた時、航の胸を二十八年間縛り続けていた、あの目に見えない鉄の鎖が、音を立てて抜けていく気がした。完全ではない。傷は生涯残るだろう。取り返しのつかない後悔も残る。それでも、前へ進める気がした。


---


夜、新居のマンションのダイニング。二人で並んで夕食を作る。今日のメニューは、鶏肉とゴロゴロとした野菜を入れたクリームシチュー、グリーンサラダ、それに焼きたてのフランスパンだ。お鍋から立ち上る濃厚なバターの香りが、部屋いっぱいに広がる。


「あ、ちょっと待って。また塩入れすぎ」


味見をした美緒が、お玉を片手に吹き出した。


「また?」


「また」


「ごめん、気を付けたつもりなんだけどな」


「次はお願いね。今回は私が修正するから」


他愛のない、どこにでもある夫婦の会話。だが、航にとっては、人生の何物にも代えがたい宝物だった。


食後、二人で並んで食器を洗う。温かいお湯の音。窓の外には夜の海が広がり、静かな波音が規則正しく響いている。


その時、航はふと思い出した。それは子どもの頃、どこかで聞いた聖書の言葉だった。


『男は父と母から離れ、妻にしっかり付き、二人は一体となる』


昔は、その本当の意味が分からなかった。ただ単に、親を冷酷に見捨てろという意味だと思って怯えていた。だが、自分の足で人生の波を越えてきた今なら、深く理解できる。


離れるとは、決して相手を憎んで見捨てることではない。親の支配から離れることだ。自分の依存心から離れることだ。そして、自分の意志と責任で、誰かを愛することを選ぶことだ。


航は隣で楽しそうに皿を拭いている美緒を見た。視線に気づいた美緒が、不思議そうにこちらを見る。


「何?」


「いや」


「変な顔。ニヤニヤして」


「ただ、すごく幸せだなと思って」


美緒は予想外の言葉に少し照れた。


「急にどうしたの。お皿、早く洗っちゃって」


「はいはい、分かりました」


窓の外では、満月が海面を一本の美しい光の道で照らし出している。どこまでも穏やかな夜だった。


航はようやく理解していた。愛とは、相手を閉じ込めるための檻ではない。愛とは、相手を自分の所有物にすることではない。相手が自分とは違う一人の人間として、自分の足でしっかりと歩くことを願うことだ。そして自分もまた、誰のせいにすることもなく、自分の足で歩くことだ。


母の影は今も消えていない。これからも完全には消えないだろう。だが、もう恐くはなかった。なぜなら今の航には、自分で選んだ人生と、自分の意志で選んだ温かい家族が、この両手のなかにあったからだ。



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