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あたたかなケーキの不均等

あたたかなケーキの不均等


胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。


まるで氷水の中に心臓を沈められたような感覚だった。


和代は自分の指先が震えていることに気付いていた。


四十八年。


息子が生まれてから四十八年。


病院へ連れて行った日もあった。


学校へ謝りに行った日もあった。


夜中に泣きながら抱き締めたこともある。


それなのに私は、この子が見ている世界を何ひとつ知らなかったのではないだろうか。


その事実が恐ろしくてたまらなかった。


初夏の夕方だった。


網戸越しに蝉の声が聞こえる。


蒸し暑い風が古い一軒家の居間へ入り込み、畳の匂いと混ざり合っていた。


食卓の上には真っ白なホールケーキが置かれている。


近所の洋菓子店で買ってきたものだ。


生クリームの上には真っ赤な苺が六粒並び、甘い香りが部屋中に広がっていた。


今日は隆の四十八歳の誕生日だった。


「おめでとう、隆」


和代は笑顔を作った。


薄緑色のエプロン姿だった。


朝から煮物を作り、鶏の唐揚げを揚げ、隆の好きなポテトサラダも用意した。


少し奮発した夕食だった。


「おめでとう」


父親の清も新聞から顔を上げて言った。


色褪せたポロシャツを着たまま、湯飲み茶碗を口元へ運ぶ。


隆は照れたようにうつむいた。


グレーのスウェットは何年も着ているお気に入りだ。


「ありがとう」


小さな声だった。


和代は嬉しくなった。


最近は穏やかな日が続いていた。


昔のような大きな混乱も少なくなっていた。


だから少しだけ欲が出たのかもしれない。


「ねえ隆」


「なあに」


「ケーキ切ってくれる?」


隆の顔が固まった。


和代は気付かなかった。


「三人だから三等分ね」


「さんとうぶん」


「そう。お父さんとお母さんと隆」


隆はケーキを見た。


丸い。


白い。


大きい。


その形を見つめるうちに額に汗が浮かび始める。


「三つ」


「そうよ」


「三つにする」


「うん」


和代は微笑んだ。


しかし隆の呼吸が少し速くなっていることに気付かなかった。


清だけが眉をひそめた。


「和代」


「なに?」


「やめとけ」


「え?」


「隆、困ってるぞ」


和代は首を傾げた。


困る?


ケーキを切るだけなのに?


そんな気持ちだった。


隆はナイフを受け取った。


じっとケーキを見つめている。


まるで難しい試験問題を前にした学生のようだった。


やがてナイフが動く。


真ん中に一本。


見事な直線だった。


ケーキは綺麗に二つに分かれた。


「上手じゃない」


和代が言った。


隆は答えない。


呼吸だけが少しずつ荒くなっていく。


そして次の瞬間だった。


隆はもう一度ナイフを入れた。


今度は先ほどの線と直角だった。


ザクリ。


柔らかな音がした。


ケーキは四つになった。


綺麗な四等分だった。


隆は動きを止めた。


その目が大きく見開かれる。


「違う」


ぽつりと呟いた。


「え?」


「違う」


「隆?」


「みっつになってない」


その声には怯えが滲んでいた。


和代の胸がざわつく。


隆は四つのケーキを見つめたまま動けなくなっていた。


まるで出口のない迷路へ閉じ込められた子供のようだった。


「隆、大丈夫よ」


「違う」


「落ち着いて」


「違う違う違う!」


突然、隆が叫んだ。


ナイフが震える。


生クリームが崩れる。


苺が転がる。


隆の呼吸は限界まで速くなっていた。


「三つにしなきゃ!」


「もういいから!」


「できない!」


その声は悲鳴だった。


怒りではない。


恐怖だった。


和代は初めてそれに気付いた。


隆は失敗したから怒っているのではない。


分からないから怖いのだ。


どうしていいか分からない。


正解が見えない。


助け方も分からない。


だから恐怖でいっぱいになっている。


その事実が胸を刺した。


次の瞬間、隆は頭を抱えた。


「うわああああ!」


大きな叫び声が部屋に響く。


椅子が倒れる。


テーブルが揺れる。


ケーキが床へ落ちた。


白いクリームが潰れ、苺が転がった。


甘い匂いが妙に重たく感じられる。


清が慌てて隆を支えた。


「大丈夫だ! 隆!」


「できない! ごめんなさい!」


「いいから落ち着け!」


十分ほどだっただろうか。


ようやく隆は静かになった。


床に座り込み、肩で息をしている。


汗と涙で顔はぐしゃぐしゃだった。


居間には静かな夜の気配が入り始めていた。


和代は床に落ちたケーキを見つめた。


そして初めて理解した。


この子は今まで何度もこうだったのだ。


私たちが簡単だと思うこと。


当たり前だと思うこと。


それが隆には巨大な壁だった。


なのに私はずっと、


「どうしてできないの」


と思っていた。


涙が溢れた。


ぽたぽたと床へ落ちる。


「お母さん?」


隆が不安そうに見上げる。


和代は急いで首を振った。


そして隆の隣へ座った。


大きな手を両手で包み込む。


「ごめんね」


「え?」


「お母さんの方こそごめんね」


隆はきょとんとしていた。


「難しかったよね」


「……うん」


「怖かったよね」


隆の目から涙が零れた。


「分からなかった」


「うん」


「どうしたらいいか分からなかった」


「うん」


和代は何度も頷いた。


四十八年かかって、ようやく息子の声が聞こえた気がした。


「ケーキなんて切らなくていいわ」


「え?」


「三等分できなくてもいい」


「いいの?」


「もちろんよ」


和代は笑った。


涙でぐしゃぐしゃの顔だった。


「スプーンで食べましょう」


清も頷いた。


「その方が早い」


「お父さん、大きいの食べたいしな」


隆が少しだけ笑った。


本当に少しだけだった。


でも和代には、それが何より嬉しかった。


三人は床に落ちなかった部分を集めた。


形は崩れていた。


苺も転がっていた。


見栄えは最悪だった。


それでも甘かった。


とても甘かった。


窓の外では蝉の声が遠ざかり、代わりに夜風が吹き始めていた。


和代は息子の横顔を見つめた。


四十八年。


ようやく分かったことがある。


理解とは、相手を自分と同じだと思うことではない。


違う世界を見ているかもしれないと知ることなのだ。


和代はそっと隆の肩に手を置いた。


明日からまた学び直そう。


この子の世界を。


今度こそ、一緒に歩いていこう。


そう静かに心に誓いながら。



別な登場人物の話です

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