第8話 正しい人生
第8話 正しい人生
新堂航は、ようやく平穏を取り戻したはずだった。
少なくとも周囲はそう言った。
母との関係は元に戻った。
親戚たちも安心した。
実家へ顔を出す回数も増えた。
母は元気を取り戻した。
だからもう問題は解決したはずだった。
なのに。
航の心だけが、少しずつ静かに死んでいくようだった。
朝、目が覚める。
会社へ行く。
仕事をする。
帰宅する。
母から電話が来る。
話をする。
眠る。
また朝になる。
すべてが正常だった。
すべてが正しかった。
なのに何かが欠けていた。
それが何なのか、自分でも分からなかった。
葵と別れて二か月が過ぎていた。
連絡はない。
自分からもしていない。
スマートフォンの連絡先を見ることも減った。
それなのに時々、街で似た後ろ姿を見かけるだけで胸が苦しくなる。
けれど、その感情にも蓋をした。
もう終わったことだ。
そう自分に言い聞かせていた。
日曜日の朝。
実家のダイニングには焼き鮭の香りが漂っていた。
炊きたてのご飯。
豆腐とわかめの味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
卵焼き。
いつも通りの朝食だった。
恵子は上機嫌だった。
「今日は良いお天気ね」
「そうだな」
「お出かけ日和」
その言葉に航は箸を止めた。
嫌な予感がする。
「どこか行くのか」
「ううん」
恵子は微笑む。
「航がね」
ますます嫌な予感がした。
「何の話?」
「あら」
恵子は楽しそうだった。
「言ってなかったかしら」
「何を」
「お見合い」
航は固まった。
味噌汁の湯気が揺れている。
窓から差し込む朝日。
鳥の鳴き声。
その平和な風景が急に遠く感じられた。
「母さん」
「一度会うだけよ」
「そんな話」
「断る理由ある?」
その問いに言葉が詰まる。
断りたい。
だが、なぜ断りたいのか説明できない。
好きな人がいるわけでもない。
結婚願望がないわけでもない。
なら何が問題なのか。
答えられなかった。
「良い子なの」
恵子は嬉しそうに続ける。
「優しくて真面目で」
「……」
「料理も上手」
「……」
「きっと航に合うと思う」
その言葉を聞いているうちに、なぜか疲れてきた。
結局、その日の午後。
航はホテルのラウンジにいた。
窓の外には冬の陽射し。
磨かれた大理石の床。
コーヒーの香り。
上品なピアノ曲。
落ち着いた空間だった。
そして目の前には女性が座っていた。
牧村里香。
二十九歳。
肩までの黒髪。
淡いピンクのワンピース。
柔らかな笑顔。
確かに綺麗な人だった。
「初めまして」
里香が微笑む。
「初めまして」
会話は驚くほどスムーズだった。
趣味。
仕事。
好きな食べ物。
旅行。
映画。
どの話題も自然に続く。
里香はよく笑った。
相手を気遣う。
話を聞くのも上手だった。
何一つ欠点が見当たらない。
なのに。
航の胸は少しも高鳴らなかった。
むしろ苦しかった。
まるで見えない服を着せられているような違和感。
サイズは合っている。
品質も良い。
周囲から見れば完璧。
それなのに窒息しそうになる。
「新堂さん?」
里香が首を傾げた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「少し顔色が」
「大丈夫です」
慌てて笑う。
里香も微笑み返した。
「無理しないでくださいね」
優しい言葉だった。
葵とは違う。
穏やかで。
従順で。
気遣いができて。
母が好きそうな女性だった。
ふと、その考えに気づく。
母が好きそう。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
なぜ自分ではなく母なのだろう。
なぜそんなことを考えるのだろう。
夕方。
見合いは無事終わった。
恵子は大喜びだった。
「どうだった?」
帰宅するなり聞いてくる。
「良い人だった」
「でしょう?」
嬉しそうな笑顔。
まるで自分のことのようだった。
「航にはもったいないくらい」
その言葉を聞いていると、だんだん自分が小さくなっていく気がした。
夜。
実家の浴室でシャワーを浴びる。
湯気が立ち込める。
熱い湯が肩を流れていく。
鏡が曇る。
航は手で曇りを拭った。
そして鏡の中の自分を見た。
スーツ姿でもない。
仕事中でもない。
ただの自分。
その顔を見た瞬間、息が止まりそうになった。
笑っていた。
口元は確かに笑っている。
だが目だけが違った。
生気がない。
何も映していない。
まるで別人だった。
「……誰だよ」
小さく呟く。
返事はない。
ただ鏡の向こうの男が見返しているだけだった。
その時だった。
脳裏に葵の声が蘇る。
――私、航と付き合いたいの。
胸が痛んだ。
同時に別の声も聞こえる。
母の声だ。
――里香さん、素敵な人でしょう。
どちらが正しいのか。
分からない。
けれど一つだけ確かなことがあった。
今日の見合いは何も間違っていない。
里香は良い人だった。
母も喜んでいる。
親戚も安心する。
誰も傷つかない。
正しい人生だ。
なのに。
どうしてこんなに苦しいのだろう。
浴室の換気扇が低く唸る。
曇った鏡の中で、笑顔を作った男がこちらを見ている。
その顔は幸せそうだった。
少なくとも他人にはそう見えるだろう。
だが航だけは知っていた。
その目が少しずつ死んでいくのを。
そしてその夜、眠りにつく直前。
航は初めて思った。
もしかしたら、自分はずっと正しい人生を生きてきたのではなく。
誰かにとって都合の良い人生を生きてきただけなのかもしれない、と。




