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第7話 罪悪感

第7話 罪悪感


 新堂航は、自分が悪い人間になってしまったような気がしていた。


 母と距離を置こうとした。


 ただそれだけだ。


 縁を切ろうとしたわけではない。


 嫌いになったわけでもない。


 少しだけ、自分で考える時間が欲しかった。


 少しだけ、自分の人生を生きてみたかった。


 なのに今、胸の中にあるのは解放感ではなく、重たい罪悪感だった。


 まるで自分が母を裏切ったような気持ちだった。


 その日の夜も眠れなかった。


 ベッドへ横になっても目が冴える。


 壁の時計が静かに時を刻む。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 母が選んだ時計だった。


 その音を聞いているだけで落ち着かなくなる。


 スマートフォンを見る。


 葵との最後のメッセージ。


 短いやり取り。


 どちらも感情的だった。


 以前ならすぐ仲直りできた。


 だが今は違う。


 お互いに疲れていた。


 航は深く息を吐いた。


 すると突然スマートフォンが鳴る。


 画面を見る。


 叔母だった。


 母の妹である。


 嫌な予感がした。


「もしもし」


 電話へ出る。


 すると慌てた声が飛び込んできた。


『航くん!?』


「叔母さん?」


『お姉ちゃん倒れたのよ!』


 血の気が引いた。


「え?」


『昨日から寝込んでるの!』


 頭が真っ白になる。


 気づけば上着を掴んで部屋を飛び出していた。


 夜風が冷たい。


 駅まで走る。


 心臓が苦しい。


 呼吸が浅くなる。


 電車の中でも落ち着かなかった。


 頭の中を一つの考えがぐるぐる回る。


 自分のせいだ。


 自分が母を傷つけた。


 自分が。


 実家へ着く。


 玄関を開ける。


 見慣れた匂い。


 畳。


 醤油。


 洗剤。


 子どもの頃から変わらない家。


 リビングには叔母と従姉がいた。


 二人とも深刻な顔をしている。


「母さんは?」


『二階』


 航は階段を駆け上がった。


 寝室の襖を開ける。


 布団の中に恵子が横になっていた。


 顔色が悪い。


 頬も少しこけて見える。


「母さん」


 声が震えた。


 恵子はゆっくり目を開く。


「あら」


 弱々しく微笑む。


「航……」


 その顔を見た瞬間、胸が締めつけられた。


「病院は?」


「大丈夫よ」


「大丈夫じゃないだろ!」


 声が大きくなる。


 だが恵子は首を横に振った。


「ただ疲れただけ」


「嘘だ」


「本当に」


 弱々しい声だった。


 航は言葉を失う。


 その時だった。


 後ろから叔母の声が聞こえた。


『お姉ちゃん、ずっと落ち込んでたのよ』


 振り向く。


 叔母は険しい顔をしていた。


『航くんと連絡が取れないって』


「……」


『あんなに大事に育てたのに』


 胸が痛む。


『親不孝なんじゃない?』


 その言葉は刃物みたいだった。


 何も言い返せない。


 なぜなら自分でもそう思っていたからだ。


 翌日。


 会社を休んだ。


 朝から母の世話をする。


 お粥を作る。


 りんごを剥く。


 薬を用意する。


 恵子は何度も謝った。


「ごめんなさいね」


「謝るなよ」


「迷惑かけちゃった」


「そんなことない」


 そう言いながら、胸は苦しかった。


 母は被害者だ。


 自分は加害者だ。


 そんな感覚が消えない。


 昼過ぎ。


 スマートフォンが鳴る。


 葵だった。


 少し迷ったあと出る。


「もしもし」


『今どこ?』


「実家」


 沈黙。


『そう』


 その声だけで何かを察した。


「母が倒れた」


『……そう』


「だから今」


『航』


 葵が遮った。


 静かな声だった。


 怒鳴っていない。


 なのに怖かった。


『本当に倒れたの?』


「何だよそれ」


『医者は何て言ったの?』


「ストレスだって」


 再び沈黙。


『そうなんだ』


 その声は冷たかった。


「葵」


『ねえ』


「何だ」


『もう分からない』


 胸がざわつく。


『私、本当に分からない』


「何が」


『航の人生に私がいる意味』


 言葉を失う。


 窓の外では風が木を揺らしている。


 葉の擦れる音が聞こえた。


『お母さんが悲しむ』


『お母さんが心配』


『お母さんが寂しい』


 葵は静かに続ける。


『そればっかり』


「違う」


『違わない』


「母は病気なんだ」


『だから?』


 その一言が刺さった。


『航はまた自分を後回しにするんでしょ』


「そんなこと」


『するよ』


 断言された。


『だって今までもそうだった』


 航は何も言えなかった。


 葵は小さく息を吐いた。


『もう限界』


 その言葉を聞いた瞬間、世界が静かになった。


『ごめん』


「待て」


『私、航を助けられない』


「葵」


『さよなら』


 通話が切れる。


 耳の奥で電子音だけが響く。


 ツー。


 ツー。


 ツー。


 しばらく動けなかった。


 夕方。


 リビングで一人座っていると、親戚たちの話し声が聞こえた。


『お姉ちゃん可哀想』


『優しい人だから』


『航くんも反抗期みたいなものよ』


『早く落ち着いてくれればいいけど』


 誰も母を責めない。


 誰もおかしいと思わない。


 それが当たり前だった。


 夜。


 恵子の寝室へ行く。


 母は眠っていた。


 穏やかな寝顔だった。


 航は布団の横へ座る。


 薄暗い部屋。


 加湿器の蒸気。


 薬の匂い。


 静かな寝息。


 その光景を見ていると涙が出そうになった。


「ごめん」


 小さく呟く。


「ごめん母さん」


 葵はいなくなった。


 自分の人生も分からない。


 けれど一つだけ確かなことがある。


 母を苦しめたくない。


 その気持ちだけは本物だった。


 だから航は決めた。


 もう母を心配させない。


 もう距離を置かない。


 もう反抗しない。


 再び母のそばに戻ろう。


 そう決めた。


 その選択が自分を救うのか、それともさらに深い檻へ閉じ込めるのか。


 まだ知ることもなく。


 航は再び、自ら母の影の中へ戻っていったのである。



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