第6話 境界線
第6話 境界線
新堂航は、生まれて初めて母親を避けようとしていた。
その事実だけで胸が苦しかった。
罪悪感があった。
母は何も悪いことをしていない。
いつも優しかった。
いつも自分を心配してくれた。
そんな人から距離を置こうとしている。
それは親不孝なのではないか。
冷たい息子なのではないか。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回り続けていた。
しかし同時に、別の感情もあった。
息苦しい。
少しだけ一人になりたい。
誰にも見張られず、自分で考えたい。
その気持ちも確かに存在していた。
だから航は決めた。
少しだけ距離を置こうと。
本当に少しだけ。
母からの電話にすぐ出ない。
メッセージの返信を後回しにする。
実家へ行く回数を減らす。
それだけだ。
普通の大人なら当たり前のこと。
そう思った。
だが、その当たり前が航には難しかった。
月曜日。
母から電話が来た。
昼休みだった。
画面を見る。
恵子。
いつもの名前。
航は数秒迷ったあと、スマートフォンを伏せた。
出なかった。
胸がざわつく。
まるで悪いことをしたみたいだった。
だが数分後、メッセージが届いた。
『忙しいのかしら?』
航は返信しない。
さらに一時間後。
『何かあった?』
返信しない。
夜。
『心配しています』
返信しない。
ベッドに入っても眠れなかった。
スマートフォンを見るたび胸が締めつけられる。
だが航は耐えた。
距離を置く。
それが必要だと思ったからだ。
翌日も同じだった。
電話が来る。
出ない。
メッセージが届く。
返さない。
罪悪感が胃の奥に積もっていく。
それでも続けた。
三日目の昼だった。
部署のフロアが妙にざわついている。
女性社員たちが何か話している。
受付担当の女性がこちらを見た。
「新堂さん」
「はい?」
「お客様です」
「お客様?」
航は立ち上がった。
そして受付スペースへ向かった。
そこで足が止まる。
恵子がいた。
淡いベージュのコート。
上品なハンドバッグ。
綺麗に整えられた髪。
そして両手には大きな紙袋。
「母さん……」
声が掠れた。
恵子は安心したように笑った。
「ああ、良かった」
「なんでここに」
「連絡が取れなくて」
その言葉に周囲の社員たちが振り向く。
恵子は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑でしたよね」
「いや……」
「でも心配で」
紙袋を差し出す。
「好きなお饅頭を買ってきたの」
その瞬間だった。
受付の女性が微笑んだ。
「優しいお母様ですね」
「本当ですね」
別の社員も笑う。
「羨ましい」
「こんなに心配してくれるなんて」
航は何も言えなかった。
否定できない。
母は確かに優しい。
母は心配しているだけだ。
それなのに。
なぜか逃げ出したくなった。
「ちゃんと食べてる?」
恵子が聞く。
「食べてるよ」
「顔色悪いわ」
「大丈夫」
「本当に?」
その声は優しい。
誰が聞いても優しい母親だった。
高木が近づいてきた。
「お母さんですか?」
恵子が頭を下げる。
「いつも息子がお世話になっています」
「こちらこそ」
高木は笑った。
「心配なさる気持ち分かりますよ」
航は息が詰まった。
味方がいない。
誰もおかしいと思わない。
だって母は何も悪いことをしていないから。
その夜。
航は葵と会った。
駅前の小さなカフェだった。
店内にはコーヒー豆の香ばしい香りが漂っている。
窓際の席。
葵はネイビーのニットを着ていた。
だが表情は硬い。
「会社に来たんだ」
静かな声だった。
「ああ」
「本当に来たんだ」
航は何も言えなかった。
「連絡取れなかったから?」
「心配しただけだよ」
その瞬間、葵が顔を上げた。
「本気で言ってる?」
「え?」
「会社だよ?」
声が震えていた。
「職場だよ?」
「でも母は」
「普通来ないよ!」
店内の空気が凍る。
周囲の客が振り向いた。
葵は慌てて声を落とした。
「ごめん」
そして深く息を吐く。
「でも限界」
その言葉が胸に刺さった。
「葵」
「私、ずっと我慢してた」
葵の目が潤んでいる。
「お母さんのことじゃない」
「じゃあ」
「航」
葵はまっすぐ見つめてきた。
「あなたが何も決めないこと」
言葉を失う。
「嫌なら嫌って言えばいい」
「……」
「来てほしくなかったなら言えばいい」
「母は悪気がない」
「だから何?」
葵の声が震えた。
「航はいつもそう」
「違う」
「違わない」
沈黙。
コーヒーの湯気だけが揺れていた。
葵は視線を落とす。
「私ね」
「……」
「お母さんと付き合ってるんじゃない」
胸が締めつけられる。
「航と付き合いたいの」
その一言が痛かった。
なぜなら正しかったからだ。
帰宅後。
部屋は静かだった。
壁には母が選んだ時計。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針が動く音が響いている。
航はソファに座り込んだ。
葵の言葉が離れない。
――航は何も決めない。
違う。
自分で決めている。
そう思いたい。
だが今日、母が会社へ来た時。
本当は嫌だった。
恥ずかしかった。
やめてほしかった。
なのに言えなかった。
一言も。
スマートフォンを見る。
母からメッセージが届いていた。
『今日は会えて良かった』
『安心しました』
その文字を見つめる。
優しい言葉だった。
責める言葉は一つもない。
それなのに。
なぜだろう。
航は初めて、自分の人生と母親の人生の境界線がどこにあるのか分からなくなっていた。




