第5話 人生の決定権
第5話 人生の決定権
新堂航は最近、自分自身が分からなくなっていた。
以前はもっと単純だったはずだ。
好きなものは好き。
嫌なものは嫌。
やりたいことはやる。
そうやって生きてきたつもりだった。
しかし今は違う。
何かを選ぼうとすると、胸の奥に重たい霧が広がる。
その選択は本当に自分の意思なのか。
それとも誰かの期待なのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
その日の朝もそうだった。
出勤途中の駅のホーム。
冷たい風が吹き抜ける。
灰色の空。
人波。
スマートフォンを見る。
葵からのメッセージは昨夜から来ていない。
数日前の口論以来、どこかぎくしゃくしていた。
本当なら謝りたい。
けれど、何を謝ればいいのか分からない。
自分が悪いのか。
葵が悪いのか。
その判断さえできなくなっていた。
会社へ着く。
朝礼が終わる。
仕事を始める。
しかし集中できない。
コードを書いても何度もミスをする。
そんな航を見て、高木誠が声をかけてきた。
「昼飯行くぞ」
断る理由もなく、航はついて行った。
二人が入ったのは会社近くの定食屋だった。
店内には揚げ物の香ばしい匂いが漂っている。
木製のテーブル。
壁には手書きのメニュー。
昼時で混雑していた。
航は生姜焼き定食を頼んだ。
高木は唐揚げ定食。
運ばれてきた皿から湯気が立ち上る。
甘辛いタレの匂いが鼻をくすぐる。
「食えよ」
高木が言う。
「食欲ないのか?」
「ありますよ」
「顔が死んでる」
航は苦笑した。
「そんなにひどいですか」
「ひどい」
高木は遠慮なく言う。
しばらく沈黙が続いた。
やがて高木が箸を置く。
「彼女とうまくいってないのか」
航の手が止まった。
「なんで分かるんですか」
「分かるよ」
高木は笑った。
「俺も結婚してるからな」
航は小さくため息をついた。
「別に大したことじゃないです」
「そうか?」
「はい」
「じゃあ何が問題なんだ」
その問いに答えられなかった。
すると高木は真顔になった。
「なあ」
「はい」
「お前、自分で人生決めてるか?」
胸がざわついた。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
高木はまっすぐ見てくる。
「お前、母親に人生決められてないか?」
その瞬間だった。
航の中で何かが弾けた。
「違います」
思わず声が大きくなる。
周囲の客がこちらを見た。
「違います」
もう一度言った。
「母はそんな人じゃない」
「落ち着け」
「俺は自分で決めてます」
「そうか」
「そうですよ」
高木は黙った。
それ以上何も言わない。
だが、その沈黙が余計に腹立たしかった。
午後。
仕事へ戻っても気持ちは乱れたままだった。
母親に人生を決められている。
そんなはずがない。
あり得ない。
自分は子どもじゃない。
二十八歳だ。
一人暮らしもしている。
仕事もしている。
母の許可なんて必要ない。
そう何度も心の中で繰り返した。
しかし。
否定しようとするほど、高木の言葉は消えなかった。
その夜。
帰宅した航は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
母が作った肉じゃがの保存容器が並んでいる。
レンジで温める。
醤油と出汁の香りが広がる。
食卓につく。
一口食べる。
懐かしい味だった。
そしてふと、高校時代のことを思い出した。
あれは受験の時だった。
本当は県外の進学校へ行きたかった。
寮生活になる学校だ。
先生からも勧められていた。
だが母は言った。
「素敵な学校ね」
反対はしなかった。
「でも寂しくなるわね」
ただそれだけ。
結局、航は地元の高校を選んだ。
自分で決めた。
そう思っていた。
次に大学。
本当は東京の理工系大学へ行きたかった。
研究設備も充実していた。
だが母は言った。
「すごい大学ね」
笑顔だった。
「でも一人暮らしは大変そう」
結局、自宅から通える大学を選んだ。
自分で決めた。
そう思っていた。
就職もそうだ。
本当は海外展開している大企業を受けたかった。
海外勤務の可能性もある会社だった。
だが母は言った。
「航は優しいから」
「家族を大事にする子だから」
そして地元の企業を選んだ。
自分で決めた。
そう思っていた。
ビールの缶を握る手が震える。
「……まさか」
口の中が乾いた。
思い出してしまった。
母は一度も反対していない。
命令もしていない。
怒ったこともない。
なのに。
なぜか最後には母が望む方を選んでいた。
なぜだ。
なぜ。
胸が苦しい。
その時、スマートフォンが鳴った。
母だった。
画面を見るだけで安心する。
その安心感に気づき、逆にぞっとした。
電話へ出る。
「もしもし」
『航?』
いつもの優しい声。
『元気?』
「ああ」
『ちゃんと食べてる?』
「食べてる」
『良かった』
それだけの会話。
たったそれだけなのに。
航の胸には奇妙な感情が広がった。
安心。
罪悪感。
愛情。
息苦しさ。
全部が混ざっている。
『無理しないでね』
母が言った。
いつもの言葉。
『航は頑張りすぎるから』
電話が切れる。
部屋は静かになった。
壁の時計だけが時を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
航はソファへ沈み込んだ。
高木の言葉が蘇る。
――お前、母親に人生決められてないか?
「違う」
そう呟く。
だが声に力がなかった。
本当に違うのか。
もし違うなら。
どうして今までの人生で、一度も母を失望させる選択をしてこなかったのだろう。
窓の外では夜の雨が降り始めていた。
ガラスを叩く音が続く。
航はその音を聞きながら、自分の人生を初めて他人の視点で見つめていた。
そして少しずつ気づき始めていた。
母に支配されていたかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも、自分は自由だと信じていたほど自由ではなかったのかもしれないと。




