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第4話 品定め

第4話 品定め


 森下葵を母に紹介する日が近づくにつれて、新堂航の胸には妙な緊張が積もっていた。


 それは結婚の挨拶をするような大げさな場ではない。


 ただ一緒に食事をするだけだ。


 それなのに落ち着かない。


 葵といる時には感じない種類の息苦しさだった。


 仕事中も気が散った。


 パソコンの画面を見ながらも、頭の中では母と葵が向かい合う光景ばかり浮かぶ。


 母は何と言うだろう。


 葵はどう振る舞うだろう。


 二人はうまくやれるだろうか。


 そんなことを考えている自分に気づき、航は苦笑した。


 子どもじゃあるまいし。


 紹介するだけだ。


 それ以上でもそれ以下でもない。


 そう自分に言い聞かせる。


 しかし心は晴れなかった。


 約束の日曜日。


 昼前から空はよく晴れていた。


 冬の空気は冷たいが、陽射しには少しだけ春の気配が混じっている。


 待ち合わせ場所へ現れた葵は、淡い水色のニットに白いロングスカートを合わせていた。


 耳元には小さなパールのイヤリング。


 普段より少しだけ上品な装いだった。


「変じゃない?」


 葵が不安そうに聞く。


「全然」


「本当に?」


「綺麗だよ」


 そう言うと葵は照れたように笑った。


「お世辞が上手になったね」


「本音だよ」


 その笑顔を見ていると、航の緊張も少し和らぐ。


 二人が向かったのは実家近くの和食店だった。


 母が予約した店である。


 木の香りが漂う落ち着いた店内。


 障子越しに柔らかな光が差し込んでいた。


 個室へ案内されると、恵子はすでに席についていた。


 薄い藤色のブラウスにベージュのカーディガン。


 髪も丁寧に整えられている。


 穏やかな笑顔だった。


「初めまして」


 葵が頭を下げる。


「森下葵です」


「こちらこそ初めまして」


 恵子は立ち上がった。


「いつも航がお世話になっています」


 その声音は柔らかい。


 航は内心ほっとした。


 変な空気にはならなそうだ。


 食事が始まる。


 季節の前菜。


 お造り。


 炊き合わせ。


 香ばしい焼き魚。


 だしの香りが食欲を誘う。


 会話も意外なほど弾んだ。


「葵さんはご実家どちらなの?」


「埼玉です」


「あら、近いのね」


「はい」


「ご両親も安心でしょうね」


 恵子は優しく笑う。


 葵も自然体だった。


「母は心配性ですけど」


「どこの親も同じよ」


 その言葉に三人で笑った。


 航は肩の力が抜けていくのを感じた。


 心配しすぎだったのかもしれない。


 母は葵を気に入っているように見えた。


 むしろ歓迎している。


 途中からは仕事の話になった。


 葵が新しいシステム開発の提案をした話をすると、恵子は目を丸くした。


「すごいのね」


「そんなことないですよ」


「航よりずっとしっかりしてるわ」


 恵子が笑う。


 航もつられて笑った。


「否定できないな」


「でしょう?」


 和やかな空気だった。


 少なくとも表面上は。


 食事が終わり、店を出る。


 駅前で葵と別れた。


「どうだった?」


 葵が聞く。


「良かったんじゃないか」


「お母さん優しかったね」


「ああ」


「少し安心した」


 葵はそう言って微笑んだ。


 その笑顔を見た時、航も同じように安心していた。


 すべてうまくいった。


 そう思っていた。


 帰り道。


 母と二人で歩く。


 夕暮れの商店街。


 総菜屋からコロッケを揚げる香りが漂う。


 赤く染まった空を見上げながら、恵子がぽつりと言った。


「良い子ね」


「だろ?」


「うん。本当に素敵な子」


 航は嬉しかった。


 胸の奥が温かくなる。


 だが次の瞬間だった。


「ただね」


 恵子が静かに続ける。


「少し強いかもしれないわね」


 航は足を止めた。


「強い?」


「悪い意味じゃないのよ」


 恵子は慌てたように笑う。


「しっかりしてるってこと」


「そうかな」


「うん」


 そして少しだけ困った顔をした。


「航は優しいでしょう?」


「まあ」


「だから少し心配になっただけ」


「心配?」


「うまく言えないけど」


 恵子は視線を落とした。


「航は人に合わせすぎるところがあるから」


「……」


「気が強い女性だと我慢しちゃうんじゃないかなって」


 それだけだった。


 本当にそれだけだった。


 母は葵を否定しない。


 別れろとも言わない。


 反対もしない。


 ただ心配してみせる。


 それだけ。


 なのに。


 その言葉はなぜか胸の奥に残った。


 翌日。


 会社の会議室。


 葵が資料を見ながら言った。


「この設計、少し修正した方がいいと思う」


 いつも通りの言葉だった。


 だが航は妙に引っかかった。


 強い。


 母の声が頭をよぎる。


 ――少し強いかもしれないわね。


「どうしたの?」


 葵が首を傾げた。


「いや」


「顔変だよ」


「別に」


 その日からだった。


 葵の欠点ばかりが目につくようになった。


 会議で意見を言う。


 強すぎる。


 仕事を優先する。


 冷たい。


 冗談を流す。


 きつい。


 本当は以前から同じだった。


 何も変わっていない。


 変わったのは航の見方だけだった。


 金曜日の夜。


 二人はイタリアンレストランで食事をしていた。


 トマトソースの香り。


 グラスに注がれた赤ワイン。


 柔らかな照明。


 以前なら楽しい時間だった。


「今日ね」


 葵が笑顔で話し始める。


「部長に褒められた」


「へえ」


「来月の案件、私がリーダー候補なんだって」


「そうか」


 葵の笑顔が少し曇った。


「反応薄くない?」


「別に」


「嬉しくないの?」


 その問いに、なぜか苛立ちが込み上げた。


「そんな言い方しなくてもいいだろ」


 葵が目を見開く。


「え?」


「責めてるみたいだ」


「そんなつもりじゃ」


「いつもそうだよな」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 葵は黙った。


 悲しそうな顔だった。


 帰宅後。


 航は一人で部屋のソファに座っていた。


 壁には母が選んだ時計。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 秒針の音だけが響いている。


 ふと気づく。


 母は葵の悪口なんて一度も言っていない。


 別れろとも言わなかった。


 ただ一言。


 心配しただけだ。


 それなのに。


 なぜだろう。


 今の航には、葵の欠点ばかりが見えていた。


 そしてその変化が、自分自身のものなのか、それとも誰かに植え付けられたものなのか、まだ気づくことができなかったのである。



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