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第3話 見えない手

第3話 見えない手


 新堂航は、自分の部屋が好きだった。


 広くもない。


 おしゃれでもない。


 築十五年のワンルームマンション。


 白い壁紙。


 濃いブラウンのフローリング。


 黒い二人掛けソファ。


 仕事用のデスク。


 観葉植物が一鉢。


 そして壁には、一枚の絵が飾られていた。


 海だった。


 青い海と空。


 水平線。


 大学生の頃、一人旅で訪れた瀬戸内海の小さな美術館で買ったものだ。


 高価ではない。


 有名な画家でもない。


 だが航は気に入っていた。


 疲れて帰宅した夜、その絵を見ると少しだけ気持ちが軽くなるのだった。


 だからその日、部屋の鍵を開けた瞬間に覚えた違和感を、うまく説明できなかった。


 玄関のドアを閉める。


 いつもの匂いがしない。


 代わりに柔軟剤の甘い香りが漂っていた。


「……あれ?」


 思わず声が漏れる。


 靴を脱ぎ、リビングへ入る。


 そこで足が止まった。


 部屋が違う。


 いや、部屋そのものは同じだ。


 家具も同じ。


 だが配置が変わっている。


 ソファが窓際へ移動している。


 ローテーブルの向きも違う。


 観葉植物の位置も変わっていた。


「なんだこれ……」


 思わず呟く。


 さらに視線を上げた瞬間、胸の奥がざわついた。


 壁の絵が消えていた。


 代わりに木製の大きな掛け時計が飾られている。


 丸い文字盤。


 アンティーク調のデザイン。


 どこかで見たことがあった。


 思い出す。


 母だ。


 実家の家具店で見かけた時、恵子が気に入っていた時計だった。


 その瞬間、スマートフォンが震えた。


 画面には母の名前。


「もしもし」


『お帰り』


 穏やかな声だった。


「母さん?」


『部屋見た?』


「見たけど……」


 恵子は楽しそうに笑った。


『驚いた?』


「なんで勝手に」


『合鍵預かってるでしょう』


「いや、それはそうだけど」


 航は言葉に詰まった。


 怒るべきなのか。


 感謝するべきなのか。


 自分でも分からない。


『掃除しておいたの』


「掃除?」


『ほら、最近忙しそうだったから』


 確かに忙しかった。


 シンクには洗っていない食器が残っていた。


 洗濯物も畳まず積んでいた。


『冷蔵庫も整理したわ』


「冷蔵庫も?」


『賞味期限切れがいっぱいだったもの』


 恵子は悪びれない。


『家具の位置も変えてみたの。動線が良くなったでしょう?』


 航は部屋を見回した。


 確かに広く見える。


 使いやすい気もする。


『時計も素敵でしょう?』


「まあ……」


『前の絵より部屋に合うと思ったの』


 胸の奥がちくりと痛んだ。


 だが理由は分からない。


『嫌だった?』


 その問いに、航は反射的に答えた。


「いや」


 電話の向こうで恵子が笑う。


『良かった』


 その声を聞いた瞬間、不思議と罪悪感が消えた。


「ありがとう」


 気づけばそう言っていた。


 電話を切ったあとも、しばらく時計を見上げる。


 カチ、カチ、カチ。


 秒針の音が静かに響いている。


 確かに悪くない。


 そう思おうとした。


 だが、なぜか落ち着かなかった。


 翌日。


 土曜日だった。


 昼過ぎに葵が遊びに来た。


 白いシャツワンピースに薄いグレーのカーディガン。


 髪を肩で揺らしながら部屋へ入る。


「お邪魔しまーす」


 その瞬間だった。


 葵が立ち止まった。


「え?」


「どうした?」


「部屋……変わった?」


 航は苦笑した。


「分かる?」


「めちゃくちゃ分かる」


 葵は周囲を見回した。


「家具動いてる」


「母さんがやった」


 葵の表情が固まる。


「は?」


「掃除ついでに」


「勝手に?」


「まあ」


「勝手に?」


 二回聞かれた。


「そんな怒ることか?」


 葵は信じられないという顔をした。


「怒るでしょ普通」


「でも便利になったぞ」


「そういう問題じゃない」


 葵は時計を見上げた。


「この時計も?」


「ああ」


「絵は?」


「外された」


「どこに?」


「分からない」


 沈黙。


 その沈黙が妙に重かった。


「航」


 葵が静かに言う。


「嫌じゃないの?」


「別に」


「本当に?」


「部屋が綺麗になったんだから良いだろ」


 葵は何か言いたそうだった。


 だが飲み込んだ。


 その後、二人で昼食を作ることになった。


 ベーコンとほうれん草のパスタ。


 サラダ。


 コンソメスープ。


 オリーブオイルの香りが部屋に広がる。


 いつもなら楽しい時間だった。


 だが葵はどこか落ち着かない様子だった。


 食事中も何度も時計を見る。


 キッチンを見る。


 棚を見る。


 まるで誰かが隠れているかのように。


「なんだよ」


 航が笑う。


 すると葵は真顔で言った。


「お母さんの気配がする」


 その言葉に航は吹き出した。


「なんだそれ」


「本気」


「気のせいだろ」


「違う」


 葵はフォークを置いた。


「この部屋、航の部屋に見えない」


 胸がざわついた。


「どういう意味だ」


「うまく言えないけど」


 葵は壁の時計を見た。


「お母さんがここに住んでるみたい」


 航は笑おうとした。


 だが笑えなかった。


 その夜。


 葵が帰ったあと。


 部屋は静かだった。


 時計の音だけが響いている。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 航はソファに座り、ふと壁を見た。


 海の絵があった場所。


 そこだけ壁紙の色が少し違う。


 長年飾っていた跡だ。


 胸の奥が妙に痛んだ。


 なぜだろう。


 母は善意でやった。


 掃除もしてくれた。


 料理も作り置きしてくれた。


 感謝すべきだ。


 そう思う。


 なのに。


 なぜか自分の部屋なのに、自分の部屋ではない気がする。


 そんな考えを振り払うように立ち上がる。


「考えすぎだ」


 母は優しい。


 母は自分を大切にしている。


 母はいつだって自分のためを思ってくれている。


 だから問題なんてない。


 そう自分に言い聞かせる。


 しかしその時、航はまだ知らなかった。


 誰かに支配されるということは、命令されることではない。


 気づかないうちに、自分の境界線を少しずつ消されていくことなのだと。



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