第2話 あなたのためを思って
第2話 あなたのためを思って
新堂航は、自分が慎重な人間だと思っていた。
臆病ではない。
挑戦が嫌いなわけでもない。
ただ、無謀なことをしないだけだ。
失敗しそうな橋は渡らない。
危険な賭けには乗らない。
それが大人の判断だと信じていた。
だから、その朝も、自分は正しい判断をしたのだと思っていた。
オフィスの窓から差し込む朝日が、デスクの上を白く照らしている。
コーヒーの香り。
キーボードを叩く音。
エアコンの低い唸り。
いつもと変わらない月曜日だった。
だが部署の空気だけは違った。
皆がどこか浮き立っている。
理由は一つだった。
新規大型プロジェクト。
会社が総力を挙げて取り組むAI開発案件である。
成功すれば出世コース。
失敗すれば責任も大きい。
だが若手社員にとっては夢のような仕事だった。
「応募するだろ?」
隣の席の同僚が笑った。
航はモニターから目を離した。
「何を?」
「とぼけるなよ。次世代開発プロジェクト」
「まだ決めてない」
「嘘つけ」
同僚は笑った。
「お前くらいしか候補いないだろ」
そう言われても、航の胸は高鳴らなかった。
むしろ胃の奥が重くなる。
責任。
プレッシャー。
失敗。
その言葉ばかりが頭に浮かぶ。
昼休み。
社員食堂でカレーライスを食べながらも気持ちは晴れなかった。
スパイスの香りも味がしない。
そのときだった。
「また難しい顔してる」
向かいに葵が座った。
ベージュのブラウスに黒のカーディガン。
髪を後ろでまとめている。
仕事中の凛とした姿だった。
「何かあった?」
「別に」
「別にじゃない顔してる」
葵はスプーンを置いた。
「プロジェクトのこと?」
航は少し驚いた。
「なんで分かった」
「みんなその話してるもの」
葵はカレーを一口食べて続ける。
「応募するんでしょ?」
航は首を横に振った。
「やめとく」
葵の動きが止まった。
「え?」
「俺には向いてない」
「なんで?」
「責任が重い」
「だから?」
「失敗するかもしれない」
葵はしばらく黙った。
そして静かに言った。
「失敗しない人なんていないよ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
航は答えられなかった。
その代わり、ある言葉が頭に浮かぶ。
昔から何度も聞いた言葉だった。
――航は無理をすると壊れる。
母の声だった。
小学生の頃。
サッカークラブでレギュラー争いをしていたとき。
毎日暗くなるまで練習していた。
すると恵子は言った。
「そんなに頑張らなくていいのよ」
「でも試合に出たい」
「航は無理すると熱を出すでしょう」
中学生の頃。
進学校を受験しようとしたとき。
「偏差値なら足りると思う」
そう言った航に恵子は優しく微笑んだ。
「でも無理したら可哀想」
高校生の頃。
生徒会長選挙へ立候補しようとしたときも。
「航は責任感が強すぎるから」
大学時代。
留学を考えたときも。
「あなたは繊細だから海外は疲れると思う」
いつも同じだった。
母は反対しない。
命令もしない。
ただ心配そうに微笑む。
そして最後に言う。
「無理しないでね」
その言葉を聞くと、なぜか挑戦する気力が消えてしまうのだった。
午後。
部長が募集要項を説明していた。
「やりたい人は遠慮なく手を挙げてくれ」
会議室に緊張が走る。
数人が立候補した。
航は手を挙げなかった。
挙げられなかった。
胸の奥で何かが縮こまっていた。
会議が終わる。
すると高木誠が近づいてきた。
三十五歳。
開発部のベテランだった。
「応募しなかったな」
「ええ」
「意外だ」
「向いてませんから」
高木は眉をひそめた。
「誰が決めた?」
「え?」
「向いてないって」
航は苦笑した。
「自分ですよ」
「そうかね」
高木はそれ以上何も言わなかった。
だがその表情が妙に引っかかった。
夜。
葵と居酒屋で会った。
炭火焼きの匂いが店内に漂っている。
焼き鳥。
だし巻き卵。
ポテトサラダ。
ジョッキのビール。
周囲は賑やかだったが、二人の間だけ妙に静かだった。
「ねえ」
葵が口を開いた。
「本当にやりたくないの?」
「うん」
「本当に?」
その言い方が気に障った。
「何が言いたいんだ」
「航ってさ」
葵はまっすぐ見つめてきた。
「やる前から諦めること多くない?」
胸の奥がざわつく。
「現実的なだけだ」
「違うと思う」
「違わない」
「じゃあ聞くけど」
葵は少し身を乗り出した。
「やりたいって一度も思わなかった?」
その瞬間だった。
航の脳裏に会議室の光景がよみがえった。
大型スクリーン。
新しいシステム。
未知の技術。
成功した未来。
本当はやりたかった。
本当は。
けれど。
――航は無理すると壊れる。
母の声が聞こえる。
まるで昨日聞いたみたいに鮮明だった。
「思ったとしても」
航はグラスを握りしめた。
「向いてないものは仕方ない」
葵は悲しそうに目を伏せた。
「それ、本当に航の言葉?」
「どういう意味だ」
「誰かの言葉を借りてない?」
怒りが込み上げた。
「葵」
「ごめん」
葵は小さく息を吐いた。
「でも私、最近すごく気になるの」
「何が」
「航が自分で決めてるように見えない」
店の喧騒が遠く聞こえた。
焼き鳥の香ばしい匂いも。
ビールの苦味も。
すべてが薄れていく。
代わりに胸の中へ重いものが沈んでいく。
帰宅後。
航はスーツを脱ぎ、ソファへ座った。
窓の外では雨が降っていた。
街灯の光が濡れたアスファルトに揺れている。
スマートフォンを見る。
社内メール。
応募締切まで残り一時間。
指先が震えた。
応募フォームを開く。
名前を入力するだけでいい。
それだけだ。
しかし航は画面を閉じた。
そして静かに息を吐いた。
「これでいい」
そう呟く。
「無理しない方がいい」
それは母が昔から言っていた言葉だった。
だが航は気づかなかった。
いつの間にか、その言葉が母の声ではなく、自分自身の声になっていることに。
そしてその夜もまた、自分で決めたつもりの選択が、静かに未来を狭めていくのだった。




