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第1話 僕は僕の意思で生きている

第1話 僕は僕の意思で生きている


 新堂航は、自分のことを親離れできていない男だと思ったことがなかった。


 二十八歳。


 都内のIT企業に勤めるシステムエンジニア。


 一人暮らしを始めてからもう六年になる。実家へ帰るのも月に二、三度程度だ。毎日連絡を取るわけでもない。


 だから、自分はごく普通に自立した大人だと思っていた。


 少なくとも、その日の夕方までは。


 オフィスの窓の向こうで、冬の夕暮れがゆっくりと街を青く染めていた。


 残業を終えた社員たちが次々と帰っていく中、航はパソコンの画面を閉じた。


 その瞬間、スマートフォンが震えた。


 画面に表示された名前を見て、自然と頬が緩む。


 森下葵。


 同じ部署で働く恋人だった。


「終わった?」


 電話越しに聞こえる声は明るい。


「ああ。今ちょうど終わったところ」


「じゃあ駅前で待ってる。予約したお店、キャンセルしないでよ」


「しないよ」


「前も同じこと言ったじゃない」


 笑い声が耳に心地よかった。


 航も思わず笑う。


「今日は大丈夫」


「本当?」


「本当」


「よし。信じる」


 電話が切れたあとも、葵の声が耳に残っていた。


 自然体でいられる相手だった。


 気を使わなくていい。


 背伸びもしなくていい。


 彼女といる時間だけは、自分が少しだけ自由になれる気がしていた。


 駅前のイタリアンレストランは、木目調の落ち着いた店だった。


 店内には焼きたてのピザの香ばしい匂いが漂っている。


 窓際の席で待っていた葵は、クリーム色のニットにネイビーのロングスカートを合わせていた。


 柔らかな照明の下で見ると、いつもより大人っぽく見える。


「遅い」


「五分だろ」


「恋人を待たせる五分は長いの」


「理不尽だな」


 葵は笑った。


 その笑顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。


 二人はマルゲリータとシーフードパスタを注文した。


 トマトソースの香り。


 焼きたての生地の湯気。


 白ワインの甘い香り。


 心地よい時間だった。


 葵はフォークを回しながら言った。


「ねえ」


「ん?」


「そろそろ本気で考えない?」


「何を?」


 葵は少し照れたように視線を落とした。


「同棲」


 航の心臓が一つ大きく鳴った。


 もちろん予想はしていた。


 付き合って三年になる。


 年齢的にも自然な話だ。


「嫌?」


「いや」


「じゃあ?」


 葵の瞳がまっすぐ向けられる。


 逃げられない。


 そして不思議なことに、逃げたいとも思わなかった。


「いいと思う」


 その言葉を口にした瞬間、葵の顔がぱっと明るくなった。


「本当に?」


「ああ」


「やった!」


 葵は子どものように笑った。


 航もつられて笑う。


 こんな顔を見られるなら悪くない。


 いや、悪くないどころか嬉しかった。


 帰り道。


 夜風は冷たかったが、心は軽かった。


 葵と並んで歩きながら、二人で不動産サイトを眺める。


「ここどう?」


「駅から遠い」


「じゃあここ」


「家賃高い」


「文句ばっかり」


「現実的なんだよ」


 そんなやり取りさえ楽しかった。


 まるで未来が形になっていくみたいだった。


 しかし翌日の休日、その気持ちは少しだけ揺らぐことになる。


 実家を訪れたときだった。


 恵子はエプロン姿で台所に立っていた。


 煮物の甘い醤油の匂いが漂う。


 テーブルには筑前煮。


 ほうれん草のおひたし。


 焼き鮭。


 味噌汁。


 子どもの頃から変わらない食卓だった。


「いただきます」


「たくさん食べなさい」


 恵子は穏やかに笑う。


 その笑顔を見ていると、なぜだか安心した。


 食事の途中。


 航は何気ない調子で言った。


「実はさ」


「うん?」


「葵と同棲しようかって話になってる」


 箸を持つ恵子の手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 だが次の瞬間には笑顔が戻る。


「そう」


「反対しないの?」


「するわけないでしょう」


 恵子は優しく微笑んだ。


「航が幸せなら、それが一番よ」


 胸の奥が少し温かくなる。


 やっぱり母は理解がある。


 そう思った。


 しかし恵子は続けた。


「ただね」


「うん?」


「最近ちょっと胸が苦しくて」


 航は顔を上げた。


「病院行ったのか?」


「大丈夫よ」


 恵子は笑う。


「年齢のせいかしらね」


「検査は?」


「まだ」


「ちゃんと行けよ」


「心配性ね」


 恵子は困ったように笑った。


「でも大丈夫。あなたには関係ないことだから」


 その言葉がなぜか胸に引っかかった。


 あなたには関係ない。


 そう言われたのに。


 なぜか気になる。


 なぜか落ち着かない。


 その夜。


 マンションへ戻った航は、不動産サイトを開いた。


 昨日まで楽しそうに見えていた間取り図。


 新しい生活。


 新しい家具。


 未来の想像。


 それらが急に色あせて見えた。


 もし母の体調が悪かったら。


 もし本当に病気だったら。


 もし一人になったら。


 スマートフォンが鳴る。


 葵だった。


「物件見つけた!」


 弾んだ声。


「駅徒歩五分!」


「そうか」


「あれ? 元気ない?」


「いや」


「どうしたの?」


 航は少し迷った。


「母さんの体調がちょっと」


 沈黙。


 そして葵が静かに言う。


「それと同棲は別の話じゃない?」


「そうだけど」


「本当にそう思ってる?」


 胸がざわついた。


「何が言いたいんだ」


「航、自分の人生を生きてる?」


 その言葉に、なぜか腹が立った。


「当たり前だろ」


「そうかな」


「葵」


「ごめん。でも」


 葵は言った。


「私は少し心配」


 電話を切ったあとも、その言葉が頭から離れなかった。


 深夜。


 窓の外では雨が降り始めていた。


 街灯の光が濡れた道路に滲んでいる。


 航はノートパソコンを閉じた。


 そして静かに息を吐く。


 同棲は少し先にしよう。


 母の体調が落ち着いてからでいい。


 それが一番合理的だ。


 そう考えた。


 そう決めた。


 自分で。


 自分の意思で。


 そう思いながら。


 航は知らなかった。


 その決断をした瞬間、自分が誰の人生を生きているのか、少しだけ見失い始めていたことに。



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