第38話 もう限界、静かにさせてください
帝国の先触れの男が、ティルを“品物”と値踏みし、「出来損ない」と嗤います。
痛いのも面倒も笑って受け流すレンが、ただ一つ、絶対に許せないもの。それが、目の前で踏みにじられました。
それは、よく晴れた昼下がりのことだった。
私とティルは、街の市場に買い出しに来ていた。移住の備えで、日持ちする食材を少し多めに。……とはいえ、まだ、心のどこかで、私は決めきれずにいた。この街を出ること。この、あたたかい日々を手放すこと。
その迷いを断ち切ったのは、皮肉にも、帝国の差し向けた男だった。
市場の外れで。ふいに、ティルが足を止めた。鼻をひくつかせて。
「レン。……あの、におい」
振り返ると、仕立てのいい服を着た見慣れない男が、こちらをまっすぐ見ていた。腰に、上等な剣。感情の読めない、冷たい目。斥候とは、少し格が違う。もっと上の――帝国の"先触れ"のような男だった。
男は、ゆっくりと近づいてきた。そして、私には目もくれず、ティルをじろじろと値踏みするように眺めた。
「……ほう。竜鱗族の子どもか。それも、これほど珍しい個体は、初めて見る」
◇
男の舐めるような視線に、ティルが、びくり、と私の後ろに隠れた。
「……薄い鱗。ふむ。里で弾かれた"出来損ない"、といったところか。だが、竜鱗族というだけで、希少価値はある。……皇女殿下は、珍しいものがお好きだ。聖女と、この竜鱗族の子。二つまとめて献上すれば」
二つまとめて。献上。
まるで、私たちを品物みたいに言う。
男は、値踏みを続けた。ティルの怯えなど、まるで目に入らないというように。
「おい、そこの子ども。名は、なんという。……いや、"出来損ない"に、名などあるまいな。里で、餌にもならぬと捨てられた、鱗の薄い――」
――ぴきり。
私の中で、何かが、冷たく、静かに凍りついた。
◇
「……その子の、名前は」
私は、静かに言った。
自分でも驚くくらい、低い声だった。市場のざわめきが、すっと遠のく。
「ティル、といいます。私がつけました。しずく、という意味です。……"出来損ない"でも、"餌"でも、ありません」
男が、片眉を上げた。
「ほう。聖女様は、ずいぶんと、この餌にご執心のようだ。……安心しろ。連れて行くのは、お前も一緒だ。丁重に扱ってやる」
「……あなたは、ひとつ、大きな勘違いをしています」
私は、ティルを、そっと自分の後ろに庇いながら、男をまっすぐ見た。
いつもの、間の抜けた笑顔は、もう作らなかった。
「私は、痛いのも、苦労するのも嫌いです。面倒事も、大嫌い。だから、たいていのことは、笑って受け流します。国に狙われようが、聖女に祭り上げられようが、正直、どうでもいい」
一歩、前に出る。
「でも――この子を、"品物"扱いすることだけは。この子を傷つけることだけは。……どうしても、我慢ができないんです」
◇
男は、私の、その静かな圧に、一瞬たじろいだ。
でも、すぐに鼻で笑って、ティルに向かって手を伸ばした。「つべこべ言わず、来い」とでもいうように、その細い腕を掴もうとして。
――かきん。
乾いた音がした。
男の手は、ティルに触れる寸前、見えない壁に阻まれて、ぴたりと止まった。
【硝子の繭】。私が、ティルごと包み込んだ、伝説の盾。男の指がどれだけ力を込めても、そよ風ほどの意味もなさなかった。
男の顔から、余裕が消えた。
「な……なんだ、これは」
「言ったでしょう。……この子には、手を出させません」
私は、ティルを繭の中にしっかりと庇ったまま、男を見据えた。
「あなたがどれだけ剣を振るっても。どれだけ力ずくで来ても。この子には、指一本触れさせない。……それだけは、絶対です」
男は、剣の柄に手をかけた。でも、抜けなかった。目の前の小さな子どもが纏う得体の知れない力に、本能が警鐘を鳴らしていた。
しばらく、私と男は、睨み合った。
やがて、男は、ちっ、と舌打ちをして、手を引いた。
「……いいだろう。今日のところは引く。だが、覚えておけ。近く、正式な部隊が来る。そのときは、こんな子どもだましは通用せん。聖女も、その餌も、まとめて、皇女殿下のコレクションだ」
そう吐き捨てて、男は、人混みの中へ消えていった。
◇
男が見えなくなってから。
私は、ようやく、繭を解いた。
腕の中で、ティルが、ぷるぷると震えていた。怖かったのだ。あんなふうに値踏みされて。"出来損ない"と、また呼ばれて。里の、いちばんつらい記憶を抉られて。
「……レン。ぼく、また、"できそこない"、って」
「違う」
私は、ティルの前にしゃがんで、震える両肩を掴んだ。
「あなたは、出来損ないなんかじゃない。あなたは、ティル。私の大事な家族。……あんな男の言うことなんて、ひとつも聞かなくていいの」
ティルの金色の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。私は、その小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。
……そして、その瞬間。私の中で、ずっと迷っていたものが、すとん、と決まった。
もう、限界だ。
私のことはいい。狙われようが、値踏みされようが、笑って受け流せる。でも――この子を。ティルを。あんな目に遭わせるのは。あんなふうに怯えさせるのは。……二度と、御免だ。
この街にいる限り、帝国は何度でも来る。そのたびに、ティルは、あの里で刻まれたいちばん深い傷を抉られる。……それだけは、絶対にさせない。
◇
その夜。箱庭で。私は、ティルとヒノを両腕に抱き寄せて、静かに言った。
「ねえ、ティル。ヒノ。……私、決めたよ」
「なにを……?」
「この街を、出る。……もっと静かで、誰にも邪魔されない場所へ。私たちだけの、あたたかいお家を作りに行こう」
ティルが、目をまんまるにした。
「……まちを、でるの? ネルねえちゃんや、ジオじいちゃんと、はなれるの?」
「うん。……寂しいよね。私も、寂しい。でも」
私は、ティルの頭を、そっと撫でた。
「この街にいたら、あなたが、また、あんな目に遭う。街のみんなも、危ない目に遭う。……それは、嫌なの。私、痛いのも嫌だけど。大事な人が傷つけられるのは、もっと嫌なんだ」
ティルは、しばらく考えて、それから、こくり、と頷いた。
「……うん。ぼくも。レンと、ヒノと、いっしょなら。どこでも、いい。……あたらしいおうち、いっしょに、つくる」
ヒノも、ぐるる、と鳴いて、私の手にあたたかい鼻先をすり寄せた。「どこへでも、ついていく」というように。
その、あたたかさに、私は、胸がいっぱいになった。
◇
迷いは、もう、なかった。
私は、痛いのも苦労するのも嫌いだ。面倒事は、もっと嫌いだ。だから、ずっと"静かに暮らしたい"と願ってきた。
でも、この街での暮らしは、もう"静か"ではいられない。帝国が、来る。ティルが、怯える。街が、危険に晒される。……ここは、もう、私たちの"静かな場所"では、なくなってしまった。
だったら――行こう。
誰もたどり着けない、地の底へ。世界でいちばん危険で、私にとっては、世界でいちばん静かで、安全な場所へ。
あの、深層の隠れ家を、本物の"我が家"にするのだ。
「……もう限界。静かに、させてもらいます」
私は、暗闇の中でぽつりと呟いた。それは、帝国への宣言でもあった。あなたたちの届かない場所へ。私は、大切なものをぜんぶ連れて、消えてみせる、と。
でも――ネルさんとの約束があった。一人で決めない。ちゃんと相談する。こそこそ逃げるんじゃなくて、ちゃんとお別れを告げてから。
だから、この決意を実行に移すには、もう一つ、大事な準備が必要だった。
……あたたかい、この街のみんなに、笑って送り出してもらうための。そして、帝国を、まんまと欺くための。とっておきの"作戦"が。
その相談を、ネルさんに持ちかけるのは、もう明日にでも。私は、そう心に決めて、あたたかい二つの寝息をそっと抱き寄せた。
お読みいただきありがとうございます。
「痛いのは嫌だけど、大事な人が傷つけられるのは、もっと嫌」。攻撃力ゼロの絶対防御が、いちばん静かで、いちばん強い“怒り”になりました。そして、ずっと迷っていたレンが、とうとう移住を決意します。……ただし、こそこそ逃げるのではなく、ちゃんと笑ってお別れするために。
次話――ネルと練る、とっておきの“送り出す会”作戦。帝国を欺き、街を守り、笑って旅立つための一手が動き出します。
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