第37話 帝国、本格始動の報せ
斥候の報告を受け、スキリア帝国が“回収部隊”の編成を決めた――。
その名の下に動くのは、皇女アイリス。まだ見ぬ相手の影が、あたたかい街に、静かに伸びてきます。
その報せは、翌日の夕方、ネルさんが青い顔で運んできた。
箱庭の扉を叩く音が、いつもよりずっと急いていた。開けると、ネルさんが息を切らして立っていた。仕事帰りのまま、上着も羽織らずに。
「レンちゃん。……ちょっと、いい? 外じゃ、話せない」
ただならぬ様子に、私は黙って中に通した。ティルとヒノには、先に休むよう言って、二人きりで、かまどの前に座る。
ネルさんは、あたたかいお茶をひと口すすってから、声をひそめて言った。
「……帝国が、動いた」
◇
「知り合いの行商人から聞いたの。信用できる人よ。あちこちの街を回って、情報を売り買いしてる」
ネルさんは、指先で湯呑みをなぞりながら続けた。
「この前の斥候たち。街であなたを鑑定しようとして、失敗して。……路地で、剣も魔法も効かないところを見せられて、逃げ帰ったでしょう。あの連中が、本国に報告を上げたのよ」
私は、静かに頷いた。あの日、私は繭で、斥候の攻撃をぜんぶ跳ね返した。「これで帝国は確信する」と、あのとき、自分でも思った。……その予感は、当たっていた。
「報告は、こう伝わったそうよ。『辺境の街に、あらゆる攻撃を無効化する聖女がいる。鑑定はランク1なのに、剣も魔法も通さない』。……で、それを受けて、上のほうが動いた」
「……上のほう」
「ええ」
ネルさんは、一度言葉を切って、それから、低い声で言った。
「スキリア帝国が、"回収部隊"の編成を決めたって。……あなたを連れ去るための、専門の部隊よ」
かまどの火が、ぱち、と爆ぜた。
◇
回収部隊。
その言葉の冷たい響きに、私は、背筋がすっと冷えるのを感じた。
「スキリア帝国はね。"スキルは国家資源"を掲げてるの。珍しいスキル持ちを見つけては、国のものにする。……乱暴なようで、案外、慎重な国よ。確実に手に入ると踏むまでは、動かない。でも――一度"確実だ"と判断したら」
「……容赦なく、来る」
「そう。前に言ったとおり。街ごと囲んででも、来る」
私は、湯呑みを両手で包んだ。手のひらのあたたかさが、なんだか、遠く感じた。
「……その部隊は。誰の、命令で?」
「そこまでは、はっきりしないわ。ただ、行商人が言うには……その編成には、皇族の名が絡んでるらしいの。スキリアの皇女――たしか、アイリス、とかいう名の。まだ若いけど、スキル収集に、ずいぶん熱心な方だ、って」
アイリス。
初めて聞く名前だった。顔も、人となりも、何も知らない。ただ、その名の下で、私を"回収"する部隊が、今、動き出そうとしている。それだけが、確かなことだった。
「本人が来るわけじゃ、ないと思う。皇女様が、こんな辺境まで、わざわざ足を運ぶとは考えにくいわ。……でも、その名の下で、部隊が組まれた。それは、つまり」
「……本気だ、ってことですね」
ネルさんは、こくり、と頷いた。
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
かまどの火だけが、ことこと、と静かに燃えている。この、あたたかい箱庭の、いつもの音。それが今夜は、ひどく頼りなく聞こえた。
「……ねえ、レンちゃん」
先に口を開いたのは、ネルさんだった。
「私はね。あなたに、この街にいてほしい。ずっといてほしいと思ってる。あなたのスープが好きだし。あなたがこの街にくれたものは、大きいから」
「……ネルさん」
「でも」
ネルさんの声が、少し震えた。
「……正直に言うわ。このまま、あなたがこの街にいたら。……帝国は、この街ごと狙う。街の人を脅して、乱暴して、あなたを探し出そうとする。……最悪の場合、この街が、戦火に巻き込まれる」
その言葉は、私がずっと、目を逸らしてきた答えそのものだった。
一人で抱えて、飲み込んで、見ないふりをしてきた。でも、こうしてはっきりと口に出されると、もう、逃げようがなかった。
私がこの街にいる限り、この、あたたかい街は危険に晒される。ジオじいさんも。ガーゴさんも。パン屋の子も。……冬を一緒に越えた、みんなが。
「……わかって、ます」
私は、静かに言った。
「私がいると、この街は危ない。……守り神になるどころか、私自身が、いちばんの"呼び水"なんですよね」
◇
ネルさんは、何も言わなかった。ただ、痛そうな顔で、私を見た。それが、答えだった。
私は繭がある。何をされても傷つかない。捕まらない。逃げられる。
でも――繭は、私しか守れない。街のみんなまでは、守れない。
その、当たり前の事実が、今、はっきりと、私の前に突きつけられていた。
守るために、いる。そのつもりだった。でも、本当は、逆だった。私がいることが、この街を危険にしている。
だとしたら、答えは、ひとつしかない。
――私が、この街から消えること。
そうすれば、帝国は、この街に用がなくなる。追うのは、私だけ。街の人たちは、平穏な日々に戻れる。……ずっと目を逸らしてきた、その答えが。今、静かに、私の胸に降りてきた。
「……レンちゃん。今すぐ、どうこう、って話じゃないの」
ネルさんが、慌てたように言い添えた。
「部隊が編成されて、この辺境まで来るには、まだ時間がある。少なくとも、数週間は。……だから、その間に、ちゃんと考えて、備えて」
「……はい」
「一人で、決めないで。……ね? 昨日、言ったでしょ。一人で背負わないで。私にも、ガーゴにも、相談して。……あなたの味方は、ちゃんといるんだから」
その言葉に、私は、ふっと、胸があたたかくなった。
昨日、ティルにも、同じことを言われた。一人で背負わないで、と。……今度は、ちゃんと頼ろう。そう決めたばかりだった。
「……はい。ありがとうございます、ネルさん。……ちゃんと相談します。一人で決めたりしません」
ネルさんは、少しだけほっとした顔で笑った。
◇
ネルさんを見送ったあと。
私は、しばらく、かまどの前に座っていた。
寝床では、ティルとヒノがあたたかく眠っている。何も知らずに。穏やかな寝顔で。……この子たちを連れて、私はたぶん、この街を出る。
覚悟は、していた。いつか、こんな日が来ると。深層に隠れ家を、少しずつ整えてきたのも、すべて、この日のためだった。
でも――いざ、その"いつか"が目の前に迫ってくると、胸が、ぎゅっと締めつけられた。
この街での暮らし。露店の賑わい。ネルさんの憎まれ口。ジオじいさんの皺だらけの笑顔。ガーゴさんの豪快な声。豊穣祭の、あの、あたたかい「いただきます」。
……ぜんぶ、置いていくのか。
まだ、決めきれない自分がいた。頭では、答えが出ている。でも、心が追いつかない。
それでも。
この、あたたかい街を、私の問題で踏み荒らされるのだけは、絶対に嫌だった。
私は、静かに火を見つめた。
……もう少しだけ。あと少しだけ、考える時間がほしい。
そう思っていた私に、決定的な"最後の一押し"がやってくるのは、それから、ほんの数日後のことだった。
――そしてそれは、私のことでは、なかった。私が、この世界でいちばん、傷つけられたくないもの。……ティルに関わることだったのだ。
お読みいただきありがとうございます。
「繭は、私しか守れない」。守るために消えるしかない、という残酷な答えが、とうとうレンの前に突きつけられます。それでも今回は――一人で抱え込まず、ネルに「ちゃんと相談する」と約束できたレン。少しずつ、変わり始めています。
次話――迷い続けるレンの背中を、決定的に押すのは。“レン自身”のことではなく、いちばん大切な、あの子のことでした。
★ブックマークと「☆評価」で応援いただけると、更新のはげみになります。毎日20時更新です。




