第32話 見張られている気配
「レン。……へんな、におい。しらない、におい。ずっと、こっちを、みてる、におい」
帝国の斥候が、ついに街へ。レンの“戦わない戦い”の、備えが始まります。
最初に気づいたのは、ティルだった。
その日、露店でいつものようにスープを煮込んでいたとき。ティルがふと鼻をひくつかせて、眉をひそめた。
「レン。……へんな、におい」
「変な匂い? なにか焦げた?」
「ううん。……ひとの、におい。しらない、におい。……ずっと、こっちを、みてる、におい」
私は、おたまを動かす手を止めた。
竜鱗族のティルは、人一倍鼻が利く。食材の良し悪しも、人の嘘も、匂いで嗅ぎ分ける。そのティルが「ずっとこっちを見ている、知らない匂い」と言う。
……気のせいなんかじゃない。
私はさりげなくあたりを見回した。露店の行列。通りを行き交う人々。一見、いつもと変わらない賑やかな風景。
でも――そのどこかに、私をじっと観察している者がいる。
その日、私はさりげなく、その“視線”の主を探した。
いた。通りの向かいの建物の影に、旅装の男が一人。壁に寄りかかって、手持ち無沙汰なふりをしながら。……でも、その目は時々、ちらり、ちらりと、私の露店を確かめている。
冒険者ではない。街の住人でもない。あの、以前の密偵と同じ種類の目。感情を殺した観察者の目。
私はあえて気づかないふりをして、いつも通りのんびりとスープを配り続けた。
……下手に動揺すれば、「やましいことがある」と教えるようなものだ。私はあくまで「ただの料理好きな女の子」。それを崩してはいけない。
でも内心では、心臓が嫌な音を立てていた。監視されている。狙われている。……その事実の重さが、じわり、じわりとのしかかってくる。
◇
その夜、私はネルさんに相談した。
「ネルさん。……たぶん私、見張られてます」
ネルさんの顔がこわばった。
「……やっぱり来たか。帝国の斥候ね。この前の密偵の報告を受けて……本格的にあなたを“監視”し始めた、ってことよ」
「監視して……どうするつもり、なんでしょう」
「たぶん、“回収する価値があるか”を見極めてる。あなたの力が本物か。連れ去るなら、どういう手を使うのがいいか。……そういうのを調べてるのよ」
ネルさんは声をさらに低くして続けた。
「帝国は乱暴なようで、案外慎重なの。確実に“手に入る”と踏むまでは動かない。逆に言えば……一度“確実だ”と判断したら、容赦なく来る。街ごと囲んででも、あなたを連れ去りにね」
街ごと囲む。……その言葉の重さに、私はぞっとした。私のせいで、このあたたかい街が兵に踏み荒らされる。そんなことには、絶対にさせたくない。
「……ネルさん。教えてくれてありがとうございます。おかげで、覚悟ができました」
連れ去る。……その言葉に、背筋が冷えた。
でも同時に、私は少し冷静にもなっていた。
……前世の私なら、ここでパニックになっていた。どうしよう、どうしよう、と頭が真っ白になって、何もできずに立ち尽くして。
でも今は違う。守るものがあるから、私はちゃんと頭を働かせられた。
「ネルさん。……相手はまだ“監視”の段階なんですよね。すぐに手を出してくるわけじゃない」
「ええ。斥候はあくまで情報収集。本格的な回収部隊が来るのは……もっとあとよ。少なくとも、今すぐじゃない」
「なら……その間に、ちゃんと備えをしておきます」
私は静かに言った。
◇
備え、と言っても、難しいことはしない。
ひとつめ。【箱庭】のいちばん奥の“隠れ家”を、もっと住めるように整えておくこと。深層のあの良い場所。あそこにちゃんとした家を建てて、いつでも逃げ込めるように。食料もたっぷり貯めて。
ふたつめ。人前では絶対に、料理以外のスキルを使わないこと。私が鑑定に「ランク1・調理」としか映らない限り、帝国は“確実な証拠”を掴めない。斥候がどれだけ私を見張っても、見えるのは「ちょっと料理が上手なだけの女の子」だけ。
……嘘はつかない。ただ、見せる手札を選ぶ。前世でいちばん鍛えられた処世術だ。皮肉なもので、あんなに嫌だった社畜時代の“世渡り”が、今、私と家族を守る武器になっている。
みっつめ。周りの人たちを巻き込まないこと。
これがいちばん大事だった。帝国が狙っているのは私だ。もし私がこの街にいることで、ジオじいさんや女将さんや街の人たちが危ない目に遭うようなことがあれば……それは絶対に避けたい。
だから私は、いざとなったら誰にも迷惑をかけないように、すっと姿を消せるようにしておく。……あの、地の底の隠れ家に。
もっとも、ガーゴさんやネルさんは「水くさい」と怒るかもしれない。「一人で抱え込むな」と。……そう言ってくれる人がいることが、今の私には何より心強かった。
でも、だからこそ、その人たちを危険にはさらせない。守られるだけじゃなくて、私も、私の大切な人たちを守りたいのだ。
「レン。……ぼくたち、だいじょうぶ?」
ティルが不安そうに、私の服の裾を握った。
私はしゃがんで、ティルとヒノを両腕でそっと抱き寄せた。
「大丈夫。何があっても私が守るから。……それに、私たちには“逃げ場所”があるでしょ。誰もたどり着けない、地の底の隠れ家が。いざとなったら、そこに逃げ込めばいい。……だから、怖がらなくていいの」
「……うん」
ティルはこくりと頷いた。ヒノも私に身を寄せて、ぐるる、と鳴く。
この子たちを守る。それだけは、絶対だった。
◇
翌日から、私は少しずつ“備え”を進めた。
ティルとヒノを連れて、深層のあの隠れ家の候補地へ何度か通った。(もちろん、斥候に尾けられないように気をつけて。……といっても、斥候はダンジョンの深層までは追ってこられない。私にとって深層は、いちばん安全な場所だ。)
岩室に【箱庭】をしっかりと根付かせて、あたたかい家を建てる。かまど。寝床。発酵蔵。……街の箱庭と同じように、少しずつ“帰れる場所”を作っていく。
食料も深層で採れる。時渡り羊にも、いつかまた会えるかもしれない。……ここは逃げ場所であると同時に、私の“夢の隠れ家”でもあった。
「レン。ここ、あたたかい。……ぼく、ここ、すき」
ティルが地底の家であたたかいスープを飲みながら言った。
「うん。……いつかここで、のんびり暮らせたらいいね。誰にも邪魔されずに」
私は笑って頷いた。
……不思議なものだ。帝国から逃げるための“逃げ場所”を作っているはずなのに、ここにいると、まるで遠足の秘密基地みたいでわくわくしてしまう。
ピンチを“楽しい暮らしのきっかけ”に変えてしまう。この私の能天気な性分は、こういうときこそ役に立った。悲観して縮こまるより、「よし、じゃあこの機会に、最高の隠れ家を作ってやろう」と思えるほうが、ずっといい。
ヒノも地底の家を気に入った様子だった。深層は街より涼しくて、火竜のヒノには少し物足りないかと思ったけれど。あたたかい我が家の匂いがするのが、安心するらしい。
備えは、着々と進んでいた。
◇
でも、街に戻るたびに、あの“監視の気配”は日に日に濃くなっていった。
露店に来る、見慣れない客。妙に私のことを探ってくる質問。夜、箱庭の入り口のあたりをうろつく影。
実は、街の人たちもうすうす気づいていた。
「なあ、聖女様。最近この街に、妙な連中が増えてねえか?」
ある日、ガーゴさんが声をひそめて言った。
「見慣れねえ旅の連中でな。冒険者でも商人でもなさそうだ。……なんかこう、目つきが悪い。あんたのこと、探ってる感じがするんだよ」
……ガーゴさんも気づいていたのか。この人は脳筋のようで、仲間の危険には意外と敏感だ。
「オレの勘だがな。あいつら、良くねえ連中だ。……聖女様。何かあったら、絶対オレに言えよ。冒険者仲間、集めて、あんたのこと守るからよ」
その言葉に、私は胸があたたかくなった。……でも同時に、だめだ、とも思った。
ガーゴさんたちを巻き込むわけにはいかない。相手は国だ。一介の冒険者では太刀打ちできない。……この人たちに、私のために危険な目に遭ってほしくはなかった。
「……ありがとうございます、ガーゴさん。でも大丈夫です。私、こう見えてけっこう、しぶといので」
私は笑ってそう答えた。ガーゴさんは少し不服そうだったけれど、「……まあ、あんたがそう言うなら」と頷いてくれた。
みんなの優しさが、じんと胸に染みる。……だからこそ、このあたたかい街を、私の問題に巻き込みたくはなかった。
ティルの鼻は、その“知らない匂い”が少しずつ増えていることを感じ取っていた。
「レン。……におい、ふえてる。ひとり、じゃ、ない」
斥候は一人じゃない。複数で、じわじわと、私を包囲するように、監視の輪を狭めてきている。
……そろそろ、かもしれない。
私は静かに覚悟を決めた。帝国が本格的に動き出す日が、もうそう遠くないところまで来ている。
でも、私は怯えなかった。
備えはしてある。逃げ場所もある。守るべき家族も、はっきりしている。……あとはその日が来たら、落ち着いて対処するだけだ。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
いよいよだ。長い、平穏な日々の終わりが近づいている。
……怖くない、と言えば嘘になる。前世の傷がうずく。「また追い詰められる」「また逃げられなくなる」。そういう恐怖が、胸の奥でちりちりと燻る。
でも、私は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
落ち着け、私。……相手は確かに強大だ。国そのものだ。でも、私には私の戦い方がある。
殴り合いにはならない。私は絶対に傷つかない。捕まらない。逃げ場所もある。そして――帝国がいちばん欲しがっている私の“力”。それを逆に使ってやる方法だって、あるかもしれない。
……そうだ。もし相手が私の“料理”を欲しがっているのなら。……いつか、その冷たい相手すら、あたたかい一杯で餌付けしてしまえばいいのかもしれない。
ふ、と、私は暗闇の中で小さく笑った。
……我ながら呑気なものだ。国に狙われているのに、「餌付けしてやろう」なんて。でも、たぶんそれくらいの気持ちでいたほうがいい。悲観して震えているより、ずっと私らしい。
「……大丈夫。何が来ても、私はあなたたちを守る。このあたたかい暮らしを守る」
箱庭のあたたかい食卓で、私はティルとヒノに、そっとそう誓った。
窓の外の景色は、私が選んだ穏やかな夕暮れ。でも、その扉の向こうの現実の街には、冷たい影が着実に忍び寄っていた。
――嵐の前の静けさ。
あたたかい日々を守るための“戦わない戦い”が、もうすぐそこまで来ていた。
お読みいただきありがとうございます。
パニックにならず、淡々と備える。「嘘はつかず、見せる手札を選ぶ」「周りを巻き込まない」――前世の“社畜の世渡り”が、家族を守る武器になります。そして最後は「いっそ餌付けしてやろう」と笑うあたりが、レンらしさ。
次話――嘘をつかないレンと、それでも疑う帝国。静かな攻防が続きます。
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