第3話 箱庭の、初めての朝ごはん
「失敗したら、やり直せばいい」――前世のレンが、いちばん言ってほしかった言葉かもしれません。
今日は、二人の、初めての朝ごはんです。
朝、目を覚ますと、ティルが枕元に正座していた。
微動だにせず、じっと、私の顔を見つめている。金色の目を、まんまるに見開いて。
「……おはよう。何してるの、それ」
「お、起きるの、待ってた。……勝手に、動いたら、いけないと、思って」
……なるほど。里では、勝手に動くと、殴られたりしたんだろう。
私は起き上がり、ぐっと伸びをした。窓の外の景色を、朝の光に切り替える。箱庭のいいところは、朝が、いつでも気持ちのいい晴れだということだ。天気に、機嫌を左右されなくて済む。
「ティル。この家では、好きに動いていいの。お腹が空いたら空いたって言っていいし、眠かったら寝ていい。……まあ、ごはんは残さない、それだけ守ってくれれば」
ティルは、こくこくと頷いた。頷いたけれど、まだ、正座は崩さない。体に染みついた緊張は、ひと晩やそこらでは、ほどけない。
わかっている。焦らなくていい。
私は、かまどに火を入れた。
「じゃ、朝ごはんにしよう。手伝ってくれる?」
◇
「手伝う」と言った瞬間の、ティルの顔は、見ものだった。
ぱあっ、と、電気がついたみたいに、目が輝いたのだ。「役に立てる」ということが、この子にとっては、それだけで、飛び上がるほど嬉しいことらしい。
……なんて健気なんだ。ちょっと、涙腺にくる。
「じゃあ、この芋、洗ってくれる? そこの桶の水で」
「うんっ」
ティルは、勢いよく立ち上がって――そして、思いっきり、桶をひっくり返した。
ばしゃーん、と、盛大に水がこぼれる。
時が、止まった。
ティルの顔から、さっと血の気が引いていく。輝いていた目が、みるみる恐怖に染まる。彼は、その場に崩れるように膝をつき、床に額を擦りつけた。
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい、ぼく、また、しくじって、ぶたないで、ぶたないでください……っ」
がたがたと震える背中。
――ああ。
私は、静かに、こみ上げるものを飲み込んだ。怒りだ。ティルにじゃない。この子を、ここまでにした、里の誰かに対する、静かな怒り。
私は、こぼれた水を、布でさっと拭いた。それから、震えるティルの前に、しゃがみ込む。
「ティル。顔、上げて」
「……っ」
「大丈夫。誰も、ぶたない。ここには、そんな奴、一人もいないから」
ゆっくり顔を上げたティルの、涙でぐしゃぐしゃになった顔に、私は、できるだけ穏やかに、笑ってみせた。
「水をこぼしたら、拭けばいい。それだけのこと。誰だってやる。私だって、昨日、味見しすぎて味が濃くなって、一回やり直した」
「……やりなおし、て、いいの?」
「いいに決まってる。失敗しない人なんて、いない。失敗したら、直せばいい。料理も、たぶん、人生も、そういうふうにできてる」
――前世の私に、誰か、そう言ってくれていたら。
ひとつのミスで、深夜まで謝り続けなくてよかったのかもしれない。もう、戻れないけど。
だから、せめて、この子には言う。何度でも。
ティルは、しばらく、私の顔を見つめて――それから、ぐしぐしと、袖で涙を拭った。
「……もう一回、やる。芋、洗う」
「うん。今度は、ゆっくりね」
◇
こぼした水を拭き直し、芋を洗い、二人で朝ごはんの支度をした。
ティルの手つきは、びっくりするほど不器用だった。芋の皮は分厚く剥きすぎるし、火の番を任せれば燃やしかけるし、皿は二枚も割った。
でも、私は、一度も怒らなかった。
「そこ、もうちょっとゆっくり」「うん、上手」「大丈夫、割れた皿は替えがある」――そう言い続けた。ただ、それだけ。
不思議なもので、怒らないでいると、ティルの手つきは、少しずつ、ましになっていった。萎縮しなくなると、人は、ちゃんと動けるようになる。当たり前のことだ。前世の職場が、それを知らなかっただけで。
私は、鍋に、昨日の琥珀色の出汁を張った。
ことこと、と、鍋のふちで、出汁が小さく踊る。そこへ、ティルが不格好に切った芋を、そっと沈める。芋が、出汁の色をゆっくりと吸って、透きとおるように煮えていく。灰汁をすくい、味をみて、岩塩をひとつまみ。指先の感覚だけで、味が、ぴたりと決まる場所を探り当てる。この一瞬が、私は、たまらなく好きだった。
「ねえ、ティル」
芋の様子を見ながら、私は、なんとなく聞いた。
「あなた、何か、好きな食べ物とか、あった? 里にいた頃」
ティルは、火の番をしながら、うーん、と考え込んだ。それから、ぽつり。
「……わからない。すきとか、きらいとか、かんがえたこと、なかった。あるものを、たべる、だけ、だったから」
さらり、と、また、胸に刺さることを言う。
好き嫌いを考える、というのは、"選べる"ということだ。この子は、選ぶ側に、一度も立たせてもらえなかった。
「じゃあ、これから、探そう」
私は、鍋をかき混ぜながら言った。
「毎日いろんなもの作るから、その中で、あなたの『いちばん好き』を、ゆっくり見つけていけばいい。……好きなものが、ひとつずつ増えていくの、けっこう、楽しいよ」
ティルは、火の向こうで、こくり、と頷いた。その目が、ほんの少し、潤んでいた気がしたけれど、湯気のせいだ、ということにしておいた。
やがて、湯気を立てる朝ごはんが、小さな机に並んだ。
昨日の琥珀色の出汁で作った、あたたかいスープ。ふっくら煮えた芋。それから、保存していた干し肉を軽く炙って、香ばしくしたもの。豪華ではない。でも、ちゃんと、あたたかい。
私は、ティルの器に、スープをよそった。湯気を、いちばん優しい温度に整える。
「はい。いただきますは、言える?」
ティルは、こくり、と頷いた。そして、両手を、ぎこちなく合わせた。たぶん、生まれて初めての形だ。
「……いた、だき、ます」
たどたどしく、けれど、精一杯の声で。
「うん。いただきます」
私も、手を合わせた。
二人ぶんの「いただきます」が、小さな箱庭に、そっと重なった。
◇
ティルは、スープを、それは大事そうに飲んだ。
ひと口ごとに、目を閉じて、味わって。まるで、この一杯が消えてしまうのが惜しいみたいに。
「……おいしい」
昨日と、同じ言葉。でも、昨日より、ずっと、力のこもった声だった。
「あのね」
スープを飲みながら、ティルが、ぽつぽつと話し始めた。
「ぼく、あさごはん、はじめて」
「……初めて?」
「里では、あさ、ごはん、なかった。ぼくの分は。……よるも、あまりものが、あれば」
さらり、と、とんでもないことを言う。
私は、スプーンを持つ手を、一瞬、止めた。それから、努めて、軽い調子で言った。
「……そう。じゃあ、これからは、毎朝あるよ。昼も、夜も」
「まいにち……?」
「うん。毎日。あったかいのが、毎日。……当たり前でしょ、そんなの」
当たり前だ。本当は。ごはんが毎日食べられることも、名前があることも、殴られないことも。全部、当たり前であるべきことだ。
でも、この子にとっては、その"当たり前"の一つひとつが、生まれて初めての奇跡だった。
ティルは、器を両手で握りしめて、また、ぽろぽろと泣き出した。今度は、怖くて泣いているんじゃない。それくらいは、私にも、わかった。
ひとしきり食べて、少し落ち着いた頃。
ティルが、スープの椀から顔を上げて、上目遣いに、私を見た。
「レンは……だれ、なの?」
「ん?」
「こんな、すごいお家、もってて。こわい男の人も、へいきで。ごはんも、まほうみたいに、おいしくて。……ほんとに、ただの、こども?」
鋭いところを突く。子どもだけど、馬鹿じゃない。というか、飢えた環境で生き延びる子は、たいてい、人をよく見ている。
私は、少し考えて、当たり障りのない範囲で、本当のことを言うことにした。嘘は、つきたくない。
「私はね、遠いところで、いっぱい働いて、疲れて、死んじゃった大人なの。それで、なぜか、この体で、もう一回、生き直してる。……信じる?」
ティルは、目をぱちくりさせた。それから、真剣な顔で、こくり、と頷いた。
「しんじる。だって、レンの目、ときどき、すごく、おとなだもん」
……ばれてたのか。
思わず、笑ってしまった。この子には、変な鋭さがある。
「そう。中身は、くたびれたおばさんなの。だから、いっぱい働くのは、もう、こりごり。静かに、美味しいものだけ作って、暮らしたいわけ」
「でも、ぼくのこと、ひろった」
「……それは、まあ、うん。誤算」
「ごさん?」
「腹を空かせた子を、放っておけなかった。前の私が、ちゃんと食べられてなかったから、たぶん、そういうのに、弱いの」
言ってから、なんだか照れくさくなって、私はスープをすすった。
ティルは、しばらく、私の顔を見つめて――それから、へにゃり、と、笑った。
「じゃあ、ぼくが、レンを、たすける。レンが、いっぱい休めるように。ぼく、なんでもする」
「……はいはい。じゃあ、まずは、ちゃんと食べて、大きくなること。それが、いちばんの手伝い」
私は、自分のぶんの芋を、半分、ティルの皿にのせてやった。
「泣きながらでいいから、食べな。冷めないうちに」
「……うんっ」
朝の光が差し込む箱庭で、小さな食いしん坊は、涙と一緒に、あたたかい朝ごはんを、ぜんぶ平らげた。
残さず、ひと口も。約束どおりに。
食べ終わると、ティルは、器を、両手で、そっと持ち上げた。そして、ぺこり、と、器に向かって、頭を下げた。
「ごちそうさま、でした」
誰かに教わったわけでもないだろうに、自然に、その言葉が出た。
……ああ、もう。
この子は、どうして、こう、いちいち、私の涙腺を狙い撃ちにしてくるんだろう。
「うん。お粗末さまでした」
私は、湯気に紛れさせるように、ちょっとだけ、目元を拭った。大人だから、泣かない。ただ、朝ごはんの湯気が、目に、しみただけだ。
……なるほど。
誰かと食べる朝ごはんっていうのは、こんなに、賑やかで、しょっぱくて、あたたかいものなのか。
一人で食べていた前世の朝が、ふと、遠く思えた。
悪くない。というか――正直に言えば、かなり、いい。
だから、面倒は嫌なはずなのに。私はまた、明日の献立のことを、考え始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
“いただきます”と“ごちそうさま”。当たり前の言葉が、誰かにとっては初めての奇跡だったりします。
次話――ティルが、これまで隠してきた「薄い鱗」の秘密と、里での過去を打ち明けます。
★ブックマーク・☆評価で応援いただけると嬉しいです。感想もお待ちしています。




