第2話 名前を、つけましょうか
拾ってしまいました。腹ぺこの、竜鱗族の男の子を。
「関わると面倒」が信条のレンですが、空腹の子だけは、どうも放っておけないようで。
空になった器を両手で抱えたまま、その子は、じっと固まっていた。
竜鱗族の男の子だ。頭には小さな二本の角。ぼろ布の隙間から覗く腕には、うっすらと緑がかった鱗が並んでいる。けれど、その鱗は、ずいぶんと薄い。触れたら剥がれてしまいそうなくらい、頼りない。
私は、床に膝をついて、その子と目線を合わせた。中身は大人だが、体は小さいので、そんなに屈まなくてもいい。それも、ちょっと便利だ。
「もう一杯、いる?」
その子は、びくり、と肩を跳ねさせた。そして、慌てて首を横に振る。ぶんぶん、と、痛々しいくらいの勢いで。
……ああ、この感じ。知っている。
「遠慮した」んじゃない。「怒られる」と思ったんだ。おかわりを望むことすら、この子はきっと、許されてこなかった。
前世の私も、そうだった。残業を断ることも、有給を取ることも、「そんなこと言える立場じゃない」と、勝手に自分に禁じていた。望む前に、諦める。それが染みついた者の顔を、私はよく知っている。
だから私は、返事を待たずに、鍋の残りを全部、その子の器に注いだ。
「うちは、残すほうが叱られるの。だから、食べて」
嘘だ。うち、まだ私一人だし。でも、こういう嘘は、ついていいと思う。
◇
二杯目を食べ終えるころには、その子の頬に、ようやく血の色が戻っていた。
私は、ギルドの床の隅っこという状況を、今さらながら思い出した。もう夜も遅い。受付のネルさんはとっくに帰ったし、酒場の灯りも半分落ちている。
こんな場所で、小さな子を、ひとりにはできない。
……という思考が浮かんだ時点で、私は内心、深いため息をついた。だめだ。私は、静かに暮らしたいはずなのに。関わりたくないはずなのに。どうしてこう、腹を空かせた者を前にすると、体が勝手に動くんだろう。
社畜根性というやつは、死んでも抜けないらしい。困ったものだ。
「ねえ、あなた、名前は?」
その子は、しばらく黙っていた。それから、掠れた声で、ぽつりと言った。
「……ない」
「ない?」
「里で、呼ばれてた、のは……『出来損ない』、と……『餌にもならない』」
私は、思わず、真顔になった。
名前じゃない。それは、ただの、悪意だ。
この子は、生まれてからずっと、名前の代わりに、呪いを浴びせられてきた。誰にも「あなた」と呼ばれることのないまま、ここまで来てしまった。
……うん。決めた。
「じゃあ、私がつける。いい?」
金色の目が、まんまるになる。「え」と、声にならない声が漏れた。
私は、その子の薄い鱗を、そっと指で撫でた。緑がかったそれは、灯りを受けて、意外にも、宝石みたいに澄んだ光を返した。誰も気づかなかっただけで、きれいな鱗だ。
「ティル」
「……てぃ、る?」
「うん。ティル。しずくって意味の、私の故郷の言葉。……あなたの鱗、雨上がりのしずくみたいだから」
言ってから、少し照れくさくなって、私は視線を逸らした。柄にもない。大人になると、こういう気恥ずかしさが、逆にうまく隠せなくなる。
ティルは、自分の腕の鱗を、まじまじと見つめた。ずっと「出来損ない」の証だと言われ続けてきた、その薄い鱗を。
そして――ぽろり、と、涙をこぼした。
「なまえ……ぼくの、なまえ……」
声を殺して、けれど止められないみたいに、ティルは泣いた。名前をもらう、というただそれだけのことで、こんなに泣ける。それはきっと、この子がどれだけ長いあいだ、「いなくていい存在」として扱われてきたか、という証だった。
私は、その頭を、ぽんぽん、と撫でた。角の付け根は、思ったよりずっと、あたたかかった。
◇
夜の街は、思ったより、剣呑だった。
ギルドを出て、路地を歩く。灯りの落ちた街角には、昼とは違う顔がある。酔った男たちの濁った笑い声。物陰で交わされる、値踏みするような視線。ティルは、私の背に、ぴったりと張りついて歩いた。
「……ここ、こわい」
「うん。夜の街は、みんな、ちょっと気が立ってるからね」
案の定、というべきか。角を曲がったところで、じろり、と、こちらを舐めるように見る男がいた。だらしなく着崩した服に、腰には縄。目つきで、なんとなく、商売の種類が知れる。人を、売り買いする類の男だ。
男の視線が、私の後ろのティルに、ねばりつくように留まった。
「よう、嬢ちゃん。そのトカゲの子、どこで拾った? 竜鱗族なんざ、珍しい。……いい値がつくぜ。俺が、買い取ってやろうか?」
ティルの体が、びくりと強張った。震える手が、私の服の裾を、ぎゅっと握る。
……ああ、なるほど。
この子が、名前の代わりに呪いを浴び、殴られ、置き去りにされても、なお「自分が悪い」と思い込んでいる理由が、少しわかった。この世界は、こういう手合いが、こんなにも当たり前に、夜の角に立っている。弱い者は、それだけで、値札を貼られる。
私は、ティルの手を、そっと握り返した。それから、男に向かって、心の底から、面倒くさそうな声を出した。
「いりません。この子は、うちの子なので」
「うちの子ぉ? ガキが、なに生意気――」
男が、私の肩を掴もうと、手を伸ばしてきた。
その手が、私に触れる、寸前。
――ふわり、と、私を包む光の膜が、ほんの一瞬、瞬いた。【硝子の繭】。触れたものを、一切、通さない。男の手は、見えない壁に阻まれて、ぴたりと止まった。
男の顔から、笑みが、すっと消えた。何が起きたのか、わからない、という顔だ。指先に走った、得体の知れない感触に、本能的な恐怖が滲む。
私は、にっこり、と笑った。いちばん、無害に見えるように。
「……次、この子に触ろうとしたら。今度は、止めませんよ」
嘘だ。私に攻撃手段はない。繭は、守るだけ。でも、こういう手合いは、たいてい、はったりに弱い。得体の知れないものからは、逃げる。
案の定、男は、二、三歩あとずさって、それから、ばつが悪そうに舌打ちして、闇の中に消えていった。
ティルが、ぽかん、と私を見上げていた。
「……レン、つよい?」
「んー。強くはない。ただ、絶対に、痛くならないだけ」
我ながら、変な自己紹介だ。でも、それが、いちばん、正確だった。
◇
「さて、と」
泣きやんだティルを連れて、私は路地裏の奥に戻った。ギルドの床で寝るわけにもいかない。
誰も見ていないのを確かめて、私は壁に手を触れた。
「【箱庭のおままごと】」
空間が、ぐにゃりと歪む。
何もなかったはずの壁の向こうに、ぽっかりと、扉が現れた。木でできた、素朴で、あたたかい色の扉。
ティルが、ひゅっと息を呑んだ。
「な……なに、これ」
「私のお家。中に入れる亜空間、みたいなもの。まあ、細かいことは気にしないで」
説明するのも面倒なので、私は扉を開けて、さっさと中に入った。ティルが、おそるおそる、後をついてくる。
中は、小さいけれど、居心地のいい一部屋だ。かまどがひとつ。寝床がひとつ。棚には、私がこつこつ集めた保存食と調味料。窓の外には、本当は存在しないはずの、穏やかな夕暮れの景色が広がっている。この景色は、私の"気分"で変えられる。今日は、なんとなく、夕暮れの気分だった。
ティルは、部屋の真ん中で、ぽかんと立ち尽くしていた。
「……あったかい」
ぽつり、と、そう言った。
部屋の温度の話じゃない、と思う。たぶん、もっと別の、何かのことだ。
私は、寝床の毛布を一枚、ティルに放って投げた。
「今日はそこで寝なさい。明日のことは、明日考える」
「……いいの? ぼく、ここに、いても」
その問いに、私は、一瞬、答えあぐねた。
いいの、と即答するには、私は面倒くさがりすぎるし、警戒心も強い。この子が何者で、これからどうなるのか、正直、何もわからない。関われば、絶対、面倒が増える。静かな暮らしからは、また一歩、遠ざかる。
でも。
名前をもらって泣く子を、この寒い夜に、外に放り出せるほど、私は、ちゃんとした社畜だったことは、一度もない。
「いていいよ。ただし」
私は、人差し指を立てて、いちばん大事な条件を告げた。
「ごはんは、残さず食べること。それが、この家の、たったひとつのルール」
ティルは、毛布をぎゅっと握りしめて、何度も、何度も、頷いた。
◇
その夜。
ティルは、毛布にくるまって、あっという間に寝息を立て始めた。よほど疲れていたんだろう。時々、うなされるように、小さく「ごめんなさい」と呟く。里で、どれだけ謝らされてきたのか。その寝言だけで、なんとなく、想像がついてしまった。
私は、かまどの残り火を眺めながら、冷めかけたお茶をすすった。
「……はあ」
我ながら、どうしてこうなった、と思う。
今朝まで、私はただの「ギルドの隅でスープを売る、身元不明の子ども」だった。誰にも期待されず、誰にも頼られず、それが心地よかった。静かで、身軽で、自由だった。
それが、一日で、一気に。
冒険者たちに聖女と崇められ、受付嬢に目をつけられ、挙句、竜鱗族の子どもまで拾ってしまった。
完全に、目立っている。前世の教訓、丸つぶれだ。
しかも、さっきの男のことがある。竜鱗族の子は、珍しくて、いい値がつく。つまり、ティルを狙う手合いは、あの一人だけじゃない。この子を、ちゃんと守るつもりなら、私は、私の"静かな暮らし"の枠を、少し、広げないといけない。
……本当に、面倒だ。
でも、と、私は思う。
面倒だと思いながら、それでも、この子を売り飛ばさせないために、はったりまでかけた。柄にもなく。あの瞬間、私の頭にあったのは、損得の計算じゃなかった。ただ、この子の震える手を、二度と、あんなふうに強張らせたくない。それだけだった。
社畜根性は抜けない、なんて、さっきは思ったけれど。
たぶん、これは、社畜根性とは、少し違うものだ。もっと、ずっと、あたたかくて、厄介な、何か。
「目立つな、期待されるな、静かに生きろ、って……あれだけ自分に言い聞かせたのに」
寝ているティルの、あどけない顔を見る。
角の生えた小さな頭。名前をもらって泣いた、金色の目は、今は静かに閉じられている。明日の朝、この子が目を覚まして、「これは夢じゃなかった」と気づいたとき、どんな顔をするだろう。
……まあ、いいか。
その顔を、見てみたい気もする。ほんの、少しだけ。
私は、お茶を飲み干して、もうひとつの毛布にくるまった。誰かの寝息が聞こえる部屋というのは、思っていたより、ずっと、眠りやすかった。
「……おやすみ、ティル」
返事は、もちろん、なかった。
でも、静かな寝息が、返事の代わりみたいに、部屋にそっと響いていた。
明日は、何を作ろう。
この子は、何が好きなんだろう。
そんなことを考えながら眠りにつくのは――前世を含めても、たぶん、初めてのことだった。
拾ってしまいました。腹ぺこの、竜鱗族の男の子を。
「関わると面倒」が信条のレンですが、空腹の子だけは、どうも放っておけないようで。
▼後書き
お読みいただきありがとうございます。
名前をもらって泣く子を見ると、こちらまで胃の奥があたたかくなりますね。
次話は、箱庭での「初めての朝ごはん」。ティルは、失敗せずにお手伝いできるでしょうか。
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