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痛いのも苦労するのも嫌なので、お家で美味しいご飯を作って静かに暮らしたい(※ただしダンジョン最深部)  作者: 翠碧ノ人


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第26話 甘いものは、心を整える

限界まで頑張りすぎて、壊れかけていた受付嬢ネル。

そんな彼女に、レンが差し出したのは――「頑張れる料理」ではなく、優しい甘いもの。

 その日、露店にやってきたネルさんは、ひと目でわかるくらい疲れ果てていた。


 目の下には、濃いくま。顔色は青白い。いつものしっかり者の覇気が、まるでない。


「……ネルさん。大丈夫ですか? すごい顔ですよ」


「……はぁ。ひどい言い方ね。……でも、否定できないわ」


 ネルさんは力なく笑った。


 聞けば、ここ最近、ギルドがとんでもなく忙しいのだという。冷害のあとの復興で、依頼が山ほど舞い込んで、人手は足りなくて。ネルさんは毎日、朝から深夜まで書類と格闘しているらしい。


 私はそっと露店の椅子を勧めた。ネルさんは崩れるように腰を下ろす。


「……ごめんね、レンちゃん。営業の邪魔して。でも、ちょっとあなたの顔を見たら……気が抜けちゃって」


 その声には、いつもの張りがまるでなかった。しっかり者の受付嬢の仮面が剥がれ落ちて、ただ疲れ果てた一人の女性が、そこにいた。


「みんな、私を頼るのよ。『ネルさんなら大丈夫』『ネルさんに任せれば安心』って。……最初は嬉しかった。でも、もう限界。……なのに、断れないの。断ったら、みんなが困るから」


 その言葉に、私はどきりとした。


 ……これは、前世の私だ。


 「あなたならできる」「あなたに任せれば安心」。その言葉に応え続けて、断れなくて、積み重なって。……そして私は、あの非常階段で電池が切れた。


 ネルさんも言っていた。昔、才能を買われて、期待されて、倒れるまで働いて。「便利な道具になってた」と気づいた、と。


 ……今のネルさんは、また、あの頃に戻りかけている。


    ◇


 私は黙って、ネルさんにスープを出した。……いや、スープじゃない。


 この人に今必要なのは、力じゃない。「頑張れる」料理じゃない。


「ネルさん。今日はこれ、どうぞ」


 私が出したのは、とろとろに煮込んだ蜜熊のはちみつの、甘いデザートだった。あたたかくて、優しくて。ひと口食べれば、ふっと肩の力が抜けるような。


「……甘いもの? 私、そんな気分じゃ……」


「いいから。だまされたと思って、ひと口だけ」


 この甘いデザートは、深層で採れた蜜熊のはちみつと、発酵蔵で少し寝かせた果実を使った特製だ。とろとろで、あたたかくて。ひと口口に含めば、優しい甘さがじんわりと広がる。


 ネルさんは渋々スプーンを口に運んで――


 動きが、止まった。


 それから、ほろり、と涙をこぼした。


「……なに、これ。……なんで私、泣いて……」


 甘いものは、心を整える。張り詰めていた糸が、ふっとゆるむ。抱え込んでいた疲れが、あたたかい甘さと一緒に溶けていく。


「……美味しい。……ああ、もう。だめだ、私。……疲れてたんだ、私」


 ネルさんは泣きながらデザートを食べた。ずっと気を張って、「大丈夫」と言い続けて。本当はもう、とっくに限界だったのに。誰にも言えずにいた。


 私はその隣に座って、ただ静かに待った。急かさず、何も言わず。


 ……こういうとき、無理に「頑張れ」とか「元気出して」とか言うのは、違うと思う。


 疲れ果てた人に必要なのは、励ましじゃない。「頑張らなくていい」と言ってもらうこと。ちゃんと休んでいいと許してもらうこと。あたたかいものを食べて、少し泣いて、心の荷物を下ろすこと。


 私の【秘密の隠し味】は、この甘いデザートに、ほんの少しの“落ち着き”のバフを乗せていた。ささくれ立った心をなだめる。張り詰めた神経をゆるめる。……戦うための力じゃない。心を整えるための優しさだ。


 でも、たぶんバフなんてなくても、あたたかい甘いものはそれだけで、疲れた人の心をほどく。私のスキルは、そのあたたかさを少し後押ししただけ。


 ネルさんはスプーンを動かすたびに、少しずつ、少しずつ、強張っていた肩の力が抜けていくのが、見ていてわかった。


    ◇


 ひとしきり泣いて、少し落ち着いたネルさんに、私はそっと言った。


「ネルさん。……ちゃんと休んでいいんですよ」


「でも……私が休んだら、みんなが……」


「みんなは大丈夫。あなたがいなくても、なんとかなります。……ううん、なんとかするべきなんです。あなた一人に背負わせちゃ、だめなんです」


 これは、前世の私が、いちばん言ってほしかった言葉だ。


 「休んでいい」「あなた一人のせいじゃない」「無理しなくていい」。……誰も言ってくれなかった。だから私は、壊れた。


 だから私は、ネルさんにはちゃんと言う。何度でも。


「便利な道具にならなくていいんです。ネルさんは道具じゃなくて……私の大事な友達ですから」


 ネルさんの目が、また潤んだ。


「……ずるいわよ、あなた。……そういうこと、さらっと言うの」


「はい。よく言われます」


 二人で顔を見合わせて笑った。涙のあとの、あたたかい笑いだった。


「……ねえ、レンちゃん。私ね」


 少し落ち着いたネルさんが、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「昔、才能がある、って言われて、ギルドに引き抜かれて。……そのとき思ったの。『ここでなら私、必要とされる』って。だから必死で働いた。頼られるのが嬉しくて。……でも、いつのまにか、“私じゃないと回らない”状況を、自分で作っちゃってた」


「……」


「気づいたら、休み方も、頼り方も……忘れてたの。一度それで倒れたのに……また同じこと繰り返してた。……馬鹿でしょ、私」


「馬鹿じゃないですよ」


 私は静かに言った。


「そういう人ほど優しくて、真面目で。……周りのことを考えすぎちゃうんです。だから、自分のことが後回しになる。……前世の私も、そうでした」


 ネルさんは、はっとした顔で私を見た。


「だから今度は、ちゃんと自分のことも大事にしてください。あなたが倒れたら……私が悲しいですから」


 その言葉に、ネルさんはしばらく黙って、それからゆっくりと頷いた。「……うん。そうする」と、小さく。まるで長年、自分に許せなかった“休む”ことを、ようやく自分に許すみたいに。


    ◇


 その日、私はネルさんを無理やり箱庭に連れ込んで、ゆっくり休ませた。


 あたたかいお風呂。(ヒノの炎で沸かした、とっておきだ。)ふかふかの寝床。そして、たっぷりのあたたかいごはん。


 ネルさんは久しぶりに、何も考えず、ぐっすりと眠った。ティルがそっと毛布をかけてあげて、ヒノがあたたかい風を送って。


 その穏やかな寝顔を見ながら、私は思った。


 料理で人を強くする。それも大事。でも、それ以上に大事なのは……たぶん、“整える”ことだ。


 疲れた心を。張り詰めた気持ちを。冷えた体を。あたたかいもので、そっとほぐして、ちょうどいい状態に戻してあげる。


 辛いものが攻撃なら、甘いものは……きっと“優しさ”だ。


 そして優しさは、時にどんな力よりも、人を救う。


 それから私は、ちょっとした“お節介”もした。


 ギルドに顔を出して、ガーゴさんたち常連の冒険者に、こっそり頼んだのだ。「ネルさんに頼りすぎないであげて。たまには自分たちでなんとかして。……あの人、限界だったんです」と。


 みんな、はっとした顔をした。ネルさんがいつもなんでもこなしてくれるから、つい甘えていた。彼女がそんなに無理をしていたなんて、誰も気づいていなかった。


「……悪かったな。オレたち、ネルの姉ちゃんに甘えすぎてた」


 ガーゴさんが頭をかいた。それからみんなで、少しずつ仕事を分担するようになった。ネルさん一人に背負わせないように。


 あたたかさは、分け合えば軽くなる。一人で抱え込むから、人は潰れる。


 翌朝、すっきりした顔で目を覚ましたネルさんは、「……久しぶりに、ちゃんと眠れた」と照れくさそうに笑った。そして少しだけ上手に、「休む」ことと「頼る」ことを覚えて帰っていった。


 帰り際、ネルさんはふと立ち止まって、私に言った。


「……ねえ、レンちゃん。あなたって、ほんと不思議な子ね。……料理でお腹を満たすだけじゃなくて、心のいちばん疲れたところまで、ちゃんと届く」


「そうですか? ……ただ、あなたに元気になってほしくて、作っただけですよ」


「……その“だけ”が、いちばん難しくて、いちばんあったかいのよ」


 ネルさんはそう言って、今度は本物のしっかり者の笑顔で、でも少しだけ肩の力を抜いて、ギルドへと戻っていった。


 その背中を見送りながら、私は思った。


 ……料理は、ただの燃料じゃない。ただお腹を満たすだけのものじゃない。


 あたたかい一皿は、その人にこう語りかける。「あなたのこと、気にかけてるよ」「頑張らなくていいよ」「あなたは、ここにいていいよ」と。


 言葉じゃ伝えきれない、その優しさを、料理は湯気に乗せて届けてくれる。


 ……前世で私がいちばんほしかったもの。それを今、私はあたたかい一皿に込めて、大切な人に渡すことができる。


 それはたぶん、私がこの世界で授かった、いちばん素敵な力だった。


 ……あたたかい一皿は、誰かの限界を、そっと救うことができる。


 私は、それができる。それだけで、この料理の力を授かってよかったと、心から思うのだった。


お読みいただきありがとうございます。

「休んでいい」「あなた一人のせいじゃない」。前世のレンが、いちばん言ってほしかった言葉を、今度は彼女が誰かに贈る回でした。辛味が“攻撃”なら、甘味は“優しさ”です。

次話――旅の吟遊詩人が、レンの物語を歌にして、遠くへ運びます。


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