第25話 発酵は、裏切らない
すぐに手に入るものは、それなりの味。じっくり待ったものは、とんでもない味に。
レンが夢中になった“発酵”は、料理法であり、生き方のお手本でもありました。
深層でたくさんの珍しい食材が手に入るようになって、私の料理の“探求”は、ますます深まっていった。
中でも私が夢中になったのが、“発酵”だった。
思えば、私とこの世界の始まりも、発酵だった。
毒霧スライムの毒を、ちょうどいい温度でじっくり寝かせて、世界一の発酵調味料に化かした。あれが、私のこの世界での最初の一歩。
あの日から、ずいぶん遠くまで来たものだ。
最初は一人だった。ギルドの隅っこで、誰にも期待されず、ただ静かにスープを煮ていた。
それが今は、ティルがいて、ヒノがいて、ネルさんやジオじいさんたちがいて。深層で珍しい食材を集めて、発酵蔵まで構えている。
……人生も、発酵みたいだ。じっくり時間をかけて、少しずつ、少しずつ豊かになっていく。
そのことをいちばん教えてくれたのが、この発酵という料理法だった。
発酵は――時間がかかる。すぐにはできない。三日寝かせる。一ヶ月寝かせる。時には一年。じっと待つ。
でも、その待った時間の分だけ、とんでもない深い味に化ける。
「すぐに手に入るものは、それなりの味。じっくり待ったものは、とんでもない味になる」。……以前、ティルに教えた言葉だ。発酵は、まさにその極みだった。
◇
深層の珍しい食材は、発酵と驚くほど相性がよかった。
光る苔を塩と一緒に寝かせると、ほんのり光る不思議な発酵調味料ができた。地底きのこを発酵させると、旨味が爆発的に増した。深層の木の実を漬け込むと、芳醇な香りのお酒みたいなものまでできそうだった。(お酒はまだ飲めないので、おあずけだけど。)
箱庭のいちばん奥に、私は“発酵蔵”を作った。ヒノの炎で温度を一定に保って、ティルの鱗で湿度を整えて。ずらりと並んだ壺の中で、いろんな食材が静かに、時をかけて深い味になっていく。
この“発酵蔵づくり”も、ヒノとティルの協力の賜物だった。
温度管理は、火竜のヒノにしかできない繊細な仕事だ。強すぎず、弱すぎず、一定のあたたかさを保ち続ける。ヒノはその微妙な火加減を、すっかり覚えてくれた。
湿度の管理は、ティルの鱗が活躍した。薄くて、熱を優しく通すあの鱗を壁に埋め込むと、蔵の中がいつも、ちょうどいい湿り気に保たれる。
……あらためて思う。ヒノの炎も、ティルの鱗も、里や人々に「役に立たない」「危ない」と言われてきたものだ。でも、こうしてちゃんと居場所を与えれば、とびきりの仕事をしてくれる。
役に立たないものなんて、ない。役に立つ使い方が、まだ見つかっていないだけ。……私の口癖は、このあたたかい家の隅々にまで染み込んでいた。
「レン、これ、なあに?」
ティルが壺を覗き込んで聞く。
「発酵蔵だよ。……ここで食材を寝かせて、時間をかけて美味しくするの。今は地味だけど、半年後、一年後には、ここが宝の山になる」
「はんとし……いちねん……」
ティルは、気の遠くなる時間に目を丸くした。
「すぐには食べられないの?」
「うん。でも、それがいいの。……待つっていいものだよ。楽しみがずっと続くから。『あの壺、そろそろかな』『まだかな』って、毎日わくわくできる」
ティルは、うーん、と首をかしげた。まだ、“待つ楽しみ”というのがぴんとこないらしい。
無理もない。飢えていた子は、目の前の食べ物を今すぐ食べないとなくなってしまう世界に生きてきた。「あとで」なんて贅沢は、許されなかった。
でも今は違う。
「ティル。あなたもひとつ、壺を仕込んでみる? あなただけの発酵食。半年後、一年後のあなたに宛てた、贈り物みたいに」
「ぼくの、つぼ……!」
ティルの目が輝いた。私はティルに好きな食材を選ばせて、一緒に小さな壺を仕込んだ。ティルはその壺に宝物みたいに印をつけて、「はやく、たべたいなあ」と嬉しそうに眺めていた。
「半年後が楽しみだね」
「うん!」
“あとで”を楽しみにできる。それは、この子の心がちゃんと“満たされている”証拠だ。今日食べられなくても、明日もあさっても、あたたかいごはんがあると信じられている証拠。……その成長が、私は何より嬉しかった。
◇
発酵は――私にとって、ただの料理法じゃなかった。
なんだか、生き方のお手本みたいに思えた。
急がない。焦らない。すぐに結果を求めない。じっと待つ。時間をかける。……そうすれば、いつか、とんでもなく深くて豊かな味になる。
前世の私は、真逆だった。すぐに結果を求められて、急かされて、焦って。……そして、限界まで詰め込まれて壊れた。
あれは発酵じゃなくて、ただの“腐敗”だったのかもしれない。時間をかけずに、無理やり絞り出そうとするから、人は壊れる。腐る。
でも、発酵は違う。
じっくり待てば、ちゃんといい味になる。人も、たぶん同じだ。ティルがそうだったように、時間をかけて、あたたかいものを少しずつ積み重ねて、ゆっくり“いい味”になっていく。
……そういえば、私自身も、この世界に来て最初は、ぎすぎすしていた。誰とも関わりたくなくて、心が乾いていて、前世の疲れをまだ引きずっていた。
でも少しずつ、ティルと出会って、ヒノと家族になって、ネルさんや街のみんなとあたたかいものを分け合って。……気づけば私も、少しずつ“いい味”になってきた気がする。
角が取れて、まろやかになって、前よりずっとあたたかい人間に。……たぶん、私もゆっくり“発酵”していたのだ。このあたたかい暮らしの中で。
急がなくてよかった。焦らなくてよかった。じっくり時間をかけて、この世界に馴染んでいった。その時間のぜんぶが、今のあたたかい私を作っている。
「発酵は、裏切らない、か」
私は壺を眺めながら呟いた。
ちゃんと手をかけて、ちゃんと待てば、発酵は絶対に応えてくれる。とびきりの深い味で。……そういう確かなものがあるのは、なんだか心強かった。
◇
ある日、試しに、と、半年ほど寝かせた深層きのこの発酵調味料を、料理に使ってみた。
ほんのひとさじ。それだけで、スープの味がぐっと深く、豊かになった。まるで、何十種類もの旨味が重なり合ったみたいに。
「……っ、これ、すごい!」
ひと口すすったティルが、目を輝かせた。
「でしょ。半年、待った甲斐があったでしょ」
そして、この発酵調味料を食べた者は、【秘密の隠し味】のバフで、驚くほど粘り強くなった。長時間の探索でもへばらない。毒にも疲労にも強くなる。
……発酵は、持久力。以前立てた仮説どおりだ。じっくり時間をかけた食べ物は、食べた者にも“じっくり粘る力”を授ける。理にかなっている。
深く、豊かで、しかも力になる。発酵食は、私の料理のいちばんの武器になりそうだった。
この発酵の力は、街のみんなにも役に立った。
少ない食材でも、発酵調味料がひとさじあれば、深い味の料理が作れる。日持ちもする。冷害の冬を越せたのも、この発酵のおかげが大きかった。
ネルさんに少し分けたら、「これ、一滴でうちの料理が料亭の味になるんだけど……あなた、ほんとに何者なの」と、また遠い目をしていた。
……まあ、ただの発酵好きの料理人です。それ以上でも以下でもない。
◇
その夜、私は発酵蔵のずらりと並んだ壺を眺めながら、あたたかいお茶を飲んだ。
この壺たちは、今はまだ地味だ。何も起きていないように見える。でも、その中では、静かに、確かに、素晴らしい変化が進んでいる。
ティルもヒノも、すっかりこの発酵蔵が気に入った様子だった。
毎日、二人(一人と一匹)で壺を見に行っては、「まだかな」「そろそろかな」とそわそわしている。特に、ティルが自分で仕込んだ壺のことは、宝物みたいに大事にしていた。
「レン。ぼくの、つぼ。……あと、どれくらい?」
「んー。あと三ヶ月、くらいかな」
「さんかげつ……! まだまだ、だ……」
ティルは、がっくり肩を落として、それからすぐに、けろっと笑った。
「でも、いいの。たのしみ、ずっと、つづくもんね。レンが、いってた」
……ちゃんと覚えていてくれた。私の言葉を。
“待つ楽しみ”を知ったティル。それは、この子の心がちゃんと“満たされている”証拠だ。今、食べられなくても、明日もあさっても、あたたかいごはんがあると信じられている証拠。
飢えていた頃のこの子には、なかった余裕。その成長が、私は何より嬉しかった。
……人生も、たぶんそうだ。
何も起きていないように見える日々にも、ちゃんと何かが育っている。ティルが少しずつ心を開いていったように。私が少しずつ、この世界に居場所を見つけていったように。
焦らなくていい。急がなくていい。
ちゃんとあたたかいものを積み重ねていけば、いつか必ず、深くて豊かな“いい味”の人生になる。
発酵は、裏切らない。
そして、たぶん、あたたかい暮らしも、裏切らない。
ちゃんと種を蒔いて、あたたかいものを積み重ねて、焦らず待てば、いつか必ず、豊かな実りが返ってくる。
……もっとも。私の暮らしには今、帝国という不穏な影も差している。その影が、いつこのあたたかい発酵を断ち切りに来るかは、わからない。
でも――だからこそ、私はこつこつと備える。発酵蔵に壺を仕込むように。地の底に隠れ家を作るように。いざというときのために、少しずつ、少しずつ。
急がず、焦らず、でも着実に。……それが、私のやり方だった。
私はそう信じながら、静かに更けていく夜のあたたかさを、ゆっくりと味わっていた。ことこと、と優しい音を立てる、移動かまどの火に照らされながら。
壺の中で静かに育っていく発酵食のように、私のあたたかい暮らしも、ゆっくりと深く、豊かに。……育っていきますように。そう願いながら。
お読みいただきありがとうございます。そして、深層探索ブロック(21〜25話)に、お付き合いくださってありがとうございました。
「焦らず、時間をかければ、いつか深くて豊かな“いい味”になる」。前世で“腐敗”しかけたレンが、この世界で“発酵”していく――そんな、静かなテーマ回でした。
次話からは、いよいよ物語が動きます。あたたかい日々に忍び寄る、帝国の影が、はっきりと姿を現し始めます。
★深層探索ブロック、完走ありがとうございました。ブックマークと「☆評価」が、次を書くいちばんの力になります。毎日20時更新です。




