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痛いのも苦労するのも嫌なので、お家で美味しいご飯を作って静かに暮らしたい(※ただしダンジョン最深部)  作者: 翠碧ノ人


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第24話 帰りたいけど、帰れない里の話

ダンジョンの奥に刻まれた、竜鱗族のしるし。

ティルを“出来損ない”と追い出した、あの里が――すぐそこにあるのかもしれません。

 時渡り羊と出会った、あの日から。


 私とティルは、時々、ダンジョンの下見に行くようになった。


 もちろん、無理はしない。ネルさんとの約束だ。危ないと思ったら、すぐ引き返す。少しずつ、少しずつ、安全を確かめながら奥へ。


 目的は三つ。時渡り羊にもう一度会うこと。珍しい食材を集めること。そして――“いつかの隠れ家”にちょうどいい場所を探すこと。


 その日も、私たちはいつもより少しだけ深い場所まで足を延ばしていた。


 ダンジョン探索も、だいぶ慣れてきた。


 私は繭を張って盾に。ティルは鼻で危険や食材を嗅ぎ分けて剣に。ヒノは――相変わらず狭い通路が苦手なので、お留守番。でも、その代わり、私たちがいない間、箱庭をしっかり守ってくれている。


 道中、私はまた、たくさんの珍しい食材を採取した。ティルはそれを、「これはいいにおい」「これはだめ」と選り分けてくれる。もはや名コンビだ。


 二人で宝探しみたいにはしゃぎながら、少しずつ、少しずつ奥へと進んでいく。


 ……この探索の時間が、私はけっこう好きだった。危険なはずなのに、ティルと二人なら、まるであたたかい遠足みたいだ。


 でも、その日の探索は、思いがけず、ティルのいちばん深い傷に触れることになる。


    ◇


 中層の奥。開けた大きな岩室にたどり着いたときだった。


 天井が高くて、近くに地下水の湧く泉がある。空気も意外と乾いていて、じめじめしていない。


「……ここ、いいかも」


 私は思わず呟いた。


 住むにはちょうどいい場所だ。ここに【箱庭】を根付かせれば、あたたかい隠れ家が作れそうだった。もちろん、まだ“いつか”の話だけど。候補として覚えておこう。


 私は【箱庭】を試しに、その岩壁に根付かせてみた。ここなら、あたたかい家が建てられそうだ。泉から水を引いて、ヒノの炎で暖を取って、ティルの鱗で床をあたためて。……想像するだけで、わくわくする。


「よし。ここを“隠れ家の第一候補”にしよう」


 そう決めて、あたりを見回していたティルが、ふと岩壁の隅で何かを見つけて、首をかしげた。


「レン……これ」


 それは岩に彫られた、古い印だった。ずいぶん昔のものらしい。風化して薄れているけれど、確かに、何か意味のありそうな模様。


 ティルがその印をじっと見て――はっと息を呑んだ。


「……これ。りゅうりんぞくの、しるし」


「え?」


「まちがいない。ぼくの、さとの、しるしと、おなじ。……りゅうりんぞくが、このちかくに、いるか。むかし、いた、しるし」


 私はその印を、まじまじと見た。竜鱗族のしるし。ティルの故郷の痕跡。


 このダンジョンの深いところに、ティルの里があるのかもしれない。あの子を「出来損ない」と追い出した里が。


 そういえば――と、私は思い出した。


 ティルは以前、言っていた。里が上位のダンジョンへ移り住むことになって、その時、自分は置いていかれた、と。「足手まといはいらない」と。


 ……ということは。ティルの里は、まさにこういうダンジョンの奥に移り住んだのだ。この印は、その移動の途中で刻まれたものかもしれない。


 つまり、このずっと奥に、ティルを捨てた竜鱗族の里が、今もあるのかもしれない。


 私はそっと、ティルの様子をうかがった。


 この事実は、この子にとって、あまりに重い。忘れたい過去が、すぐそこにあるかもしれない、なんて。


    ◇


 ティルの横顔が、複雑に揺れた。


 帰りたいような。二度と会いたくないような。故郷への両方の気持ちが、そこにあった。


 ……無理もない。里は、この子に名前の代わりに呪いを浴びせた場所だ。殴られ、飢えさせられ、置き去りにされた場所。二度と思い出したくないはずだ。


 でも、それでも、故郷は故郷なのだ。生まれ育った場所への、断ち切れない思い。憎しみと郷愁が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、ティルの小さな胸を締めつけている。


 私はティルの肩に、そっと手を置いた。


「……大丈夫。急がなくていい。会いたくなったら会えばいいし、会いたくなかったら会わなくていい。あなたが決めていいの」


「……うん」


 ティルは小さく頷いた。まだ、心の整理はついていないみたいだった。それでいい。ゆっくりで。焦る必要はない。


 こういうときに、無理に「向き合え」とか「乗り越えろ」とか言うのは、違うと思う。傷は時間をかけて、あたたかいものを少しずつ積み重ねて、ゆっくり癒えていくものだ。ちょうど、硬い肉を時間をかけて柔らかくするみたいに。


 私はそっと【箱庭】から、あたたかいスープを取り出して、ティルに持たせた。


「はい。……あったかいの、飲んで。少し、落ち着こう」


 ティルは両手で器を包んで、ゆっくりとスープを飲んだ。あたたかい湯気が、こわばっていたティルの表情を、少しずつほぐしていく。


 あたたかいものは、心を整える。怖い記憶に触れてざわついた心も、一杯のスープで、少し落ち着く。……料理の力は、こういうときにこそ役に立つ。


 しばらく、二人で、暗いダンジョンの中で、あたたかいスープを飲んだ。危険な地の底なのに、その一角だけは、まるであたたかい我が家みたいだった。


    ◇


 しばらくして、ティルがぽつりと言った。


「ねえ、レン。……ぼく、さとのこと、こわい。でも……ちょっとだけ、きになる。ばあちゃんの、おはかとか。……まだ、あるのかな、って」


 あの、ティルにこっそりごはんを分けてくれた、優しいお婆さん。「鱗の厚さで生きる値打ちが決まるなんて、誰が決めたんだろうねえ」と笑ってくれた、あの人。冬に亡くなった。ティルがずっと、自分のせいだと抱え込んでいた、あの人。


 あのお婆さんの話をするときだけ、ティルの声は、憎しみでも恐怖でもなく、あたたかい懐かしさで震える。


 里は、ティルを傷つけた。でも、その里の中に、たった一人、この子を“人間”として扱ってくれた人がいた。飢えた子に自分の食事を分けてくれた、優しいお婆さん。「鱗の厚さで生きる値打ちが決まるなんて、誰が決めたんだろうねえ」と笑ってくれた人。


 そのたった一つのあたたかい記憶が、ティルを“憎しみだけの人”にしなかった。この子がこんなに優しく育ったのは、きっと、あのお婆さんのおかげでもあるのだ。


「そっか。……いつか、一緒に行ってみようか。お婆さんに会いに」


 私はそっと言った。


「あなたがこんなに元気になったって。ちゃんと名前も家族もできたって。……あたたかいごはんを毎日食べてるって。……報告しに行こう」


 ティルの目が、じわりと潤んだ。


「うん。……いく。いつか、ぜったい」


「うん。約束」


 私は小指を差し出した。ティルが小さな小指を絡める。


 里は怖い場所だ。でも、その中にたった一つ、あたたかい記憶もある。


 いつか、この子が、その記憶とちゃんと向き合える日が来るように。憎しみだけじゃなくて、あのお婆さんの優しさも、ちゃんと思い出せるように。


 そのときは私も隣にいよう。……そう、心に決めた。


    ◇


 その夜、箱庭に帰ってから。


 私はティルに、あたたかいシチューを作った。あのお婆さんが分けてくれたという、里の素朴な料理。ティルの話を聞きながら、似せて作ってみたものだ。


 ひと口食べたティルは、目を丸くして――それから、ぽろぽろと泣いた。


「……ばあちゃんの、あじ、に、にてる……」


「そっか。……よかった」


 あたたかい味は、時を越えて人を支える。もういない人の優しさも、一杯の料理に込めれば、ちゃんとこの子の心をあたためられる。


 ティルは泣きながら、シチューをぜんぶ食べた。「ばあちゃん、ぼく、しあわせだよ」と呟きながら。


 食べ終えて、ティルは涙を拭って、それからまっすぐ私を見た。


「レン。……ぼく、きめた。いつか、さとに、いく。こわいけど。……でも、ばあちゃんに、あいたい。そして、いいたい。ぼくは、"できそこない"じゃ、なかったって。ちゃんと、なまえも、かぞくも、しごとも、あるって」


 そのまっすぐな目に、私は胸を打たれた。


 逃げるのでもない。憎むのでもない。ちゃんと向き合って、自分の値打ちを証明しに行く。……なんて強い子に育ったんだろう。


「うん。……行こう。一緒に。私も、ヒノも、ついてく。あなたが“出来損ない”なんかじゃないって、里のみんなに思い知らせてやろう。……あなたの美味しい料理で」


「うん!」


 ティルの顔に、ようやく笑顔が戻った。涙のあとの、晴れやかな笑顔が。


 その夜、私は心の中で、そっと、あの会ったこともないお婆さんに話しかけた。


 ……あなたが守ってくれた子は、今、ちゃんと幸せに暮らしています。名前も、家族も、居場所もできました。あたたかいごはんを毎日食べています。料理も覚え始めて、人を思いやれる優しい子に育っています。


 ……あなたの優しさは、ちゃんとこの子の中で生きています。だから、どうか安心してください。


 もちろん、返事はない。でも――ティルの穏やかな寝顔を見ていると、なんだか、あのお婆さんも、どこかで微笑んでくれている気がした。


 あたたかさは、時を越えて受け継がれる。お婆さんがティルにくれたものを、今度は私が受け継いで、ティルに渡していく。そして、いつかティルも、それを誰かに渡すのだろう。


 ……そういうふうに、あたたかさはめぐっていく。それが、この世界のいちばん優しい仕組みなのかもしれない。


 ……いつか、この子と、あの里へ行こう。お婆さんのお墓に、あたたかいシチューを供えに。


 そのために、私はもっとこの子をあたためて、もっと強くしよう。憎しみに負けない優しさで。


 あたたかい湯気の向こうで、ティルの涙が、少しずつ穏やかなものに変わっていくのを、私は静かに見守っていた。


お読みいただきありがとうございます。

逃げるのでも、憎むのでもなく。「ちゃんと向き合って、自分の値打ちを証明しに行く」。ティルの、静かな強さが描けた回でした。里編は、この先の章で、じっくり描かれます。

次話――レンの料理探求、“発酵”の深みへ。じっくり待つことの、豊かさのお話です。


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