第23話 時渡り羊と、涙の理由
“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れるという羊。
飲んだこともない出汁の匂いに、なぜかレンは、涙をこぼします。
足を止めた私の視線の先に、それはいた。
通路の、ずっと先。
薄暗い闇の中に――一頭の羊が佇んでいた。
白い、もやのような体。角はねじれて、まるで時間そのものを巻き取っているみたいに見える。その姿はぼんやりと揺らいで、実体があるのか、ないのか判然としない。
「……時渡り羊」
私は思わず呟いた。間違いない。行商人が言っていた、あのまぼろしの羊だ。
こんな中層で出会うなんて。よほどの幸運か、あるいは――何かの導きか。
行商人の言葉が、頭をよぎった。
――あの羊に会えるかどうかは、腕でも運でもない。その人が“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れる。
……思い出す準備。
そういえば、私は最近、ずっと“懐かしい味”のことを考えていた。自分の空っぽの記憶のことを。あたたかい食卓のことを。前世の孤独のことを。
もしかしたら、その心の動きが、この羊を呼んだのかもしれない。
私の心が、ようやく“あの日の味”を思い出す準備ができた。……だから、この羊は今、私の前に現れた。
そんな気がした。
羊は私を、じっと見つめた。まるで、こちらの心のいちばん奥を覗き込むみたいに。
「レン……あれ」
ティルが私の袖を、そっと引いた。逃げよう、というのでも、狩ろう、というのでもない。ただ、その羊のあまりに静かで不思議な佇まいに、二人とも動けずにいた。
時渡り羊は襲ってこなかった。行商人の言ったとおりだ。ただ、じっと私を見ている。その澄んだ瞳が、私の心のいちばん奥の、いちばん深いところまで、静かに下りてくる。
不思議と、怖くはなかった。むしろ――懐かしいような。ずっと昔に知っていた誰かに出会ったような。そんな感覚があった。
あたりの空気が、しん、と静まり返る。危険なダンジョンのはずなのに、その一角だけが、まるで時が止まったみたいに、穏やかで、あたたかかった。
羊の白い、もやのような体が、ゆらり、ゆらりと揺れる。実体があるのか、ないのか。夢を見ているみたいだ。でも、その瞳だけは、はっきりと私を見つめていた。
その澄んだ瞳と目が合った瞬間。
ふわり、と。
どこからか、あたたかい匂いがした。
出汁の匂い。優しくて、懐かしくて――胸が締めつけられるような。飲んだこともないはずなのに、どこかで知っている気がする味の匂い。
「……なに、これ」
私の目から、理由もわからないまま、すうっと涙が一筋こぼれた。
空っぽのはずだった。私の懐かしい味の記憶なんて、ないと思っていた。
なのに――この匂いは、確かに私のいちばん奥のどこかを揺らしていた。
それがなんなのか、まだわからない。
でも、いつか必ず確かめる。この羊の出汁を、この手で料理して。私のいちばん奥に眠る、味の正体を。
「……行かないで」
思わず手を伸ばした。もっとあの匂いを嗅いでいたかった。あのあたたかい記憶の続きを。
でも、時渡り羊は静かに、闇の中へ溶けるように消えていった。
まるで、「準備ができたら、またおいで」と言うように。
あとには、あたたかい匂いの余韻と、私の頬を伝う涙のあとだけが残った。
「レン、だいじょうぶ……? ないてる」
ティルが心配そうに、私の顔を覗き込んだ。……そういえば、ティルにはあの匂いはしなかったのだろうか。行商人も言っていた。時渡り羊は“その人の”懐かしい味を返す、と。きっと、あの匂いは、私にしか感じられない、私だけの記憶の味だったのだ。
「……だいじょうぶ。ごめんね、びっくりさせて。……なんでだろう。私も、よくわからないの」
私は涙を拭いながら笑った。
飲んでもいない出汁の匂いだけで、こんなに心が揺れるなんて。私のいちばん奥の空っぽの場所に、本当は何か――大事な、大事な味の記憶が眠っているのかもしれない。ずっと思い出せなかった、あたたかい何かが。
あの羊は、それをそっと教えてくれた気がした。「あなたにも、ちゃんと懐かしい味はあるんだよ」と。
……なんの匂いだったんだろう。
優しくて、あたたかくて、少し甘くて。ミルクのような、バターのような。それでいて、どこか切ない。……思い出そうとすると、するりと指の間からこぼれていく。まるで、夢の続きを思い出そうとするみたいに。
でも、確かに、あの匂いは、私のいちばん深いところに届いていた。
母がいた頃の記憶なのかもしれない。私がまだ、うんと小さくて、誰かにあたたかいものを作ってもらえていた、ほんのわずかな時間の。……もう思い出せないくらい昔の。
もしそうなら、私にもあったのだ。“懐かしい味”が。あたたかい記憶が。ゼロじゃなかった。
その事実が、なぜだろう、私の心を少しだけ軽くした。前世でずっと、心の底に抱えていた“空っぽ”の重さが、ほんの少し和らいだ。
私はずっと思っていた。自分には、あたたかい記憶なんてない、と。だから料理人になったのだ、と。誰にももらえなかったから、せめて自分で作ろう、と。
でも――もしかしたら、私は“忘れていた”だけなのかもしれない。あまりに幼い頃の、あまりに短いあたたかさだったから、思い出せなくなっていただけ。
なくした、と思っていたものが、本当は、心のいちばん奥に、ずっとあった。……その事実は、前世で擦り切れた私の心を、じんわりとあたためた。
「……ティル。私、あの羊にもう一度会いたい。そして、あの出汁を飲んでみたい。……私のいちばん奥に眠ってる、味の正体を、ちゃんと確かめたいの」
ティルは、こくり、と頷いた。
「うん。ぼくも、いっしょに、さがす。レンの、なつかしい味」
その言葉があたたかくて、私はまた少し泣きそうになった。
「ティル。私、この羊の出汁を、いつか絶対料理する。……そのためにも、いつか、このダンジョンの奥に、私たちの“隠れ家”を作れたらいいな。毎日、この羊を探しにいける場所に」
ティルは、私の涙のあとを小さな手でそっと拭ってくれた。その小さな手のあたたかさが、冷えかけていた私の心を、そっと包んだ。
「レンが、いっぱい、ないたの、はじめて、みた。……でも、だいじょうぶ。ぼくが、ずっと、そばに、いるから」
そのたどたどしい、けれど精一杯の言葉に、私はとうとう我慢できずに、ティルをぎゅっと抱きしめた。
守られる子だと思っていた。でも、この子は、いつのまにか私を支えてくれる存在になっていた。……本当に逞しくなった。
「……ありがとう、ティル。……うん。私には、あなたがいるもんね」
「うん!」
「……さ。今日は帰ろう」
私は涙をそっと拭って笑った。
「……この羊にもう一度会うために。いつか必ず、また来よう」
その日は無理をせず、地上へ引き返した。
帰り道、ティルはずっと上機嫌だった。採ってきた光る苔や地底きのこを大事そうに抱えて、「これで、あたらしいりょうり、つくろうね」と何度も言った。
私も同じ気持ちだった。
“いつかの隠れ家”の目星がついた。誰にも邪魔されない静かな場所。珍しい食材の宝の山。そして――いつか、あの時渡り羊にもう一度会える場所。
ヒノへのお土産のお肉も、ちゃんと確保した。(深層の魔物の肉だ。きっと喜ぶ。)
地上に戻ると、街の灯りがあたたかく瞬いていた。ネルさんも、ジオじいさんも、ガーゴさんもいる、あの街。ヒノが留守番している、あたたかい箱庭。……ぜんぶ、私の大切な“帰る場所”だ。
「ただいま、って言える場所が増えるって。……いいものだね、ティル」
「うん。ぼく、“ただいま”、だいすき」
かつて帰る場所も名前もなかったこの子が、今は“ただいま”が大好きだと言う。
そのことがたまらなく愛おしくて、私はそっとティルの手を握った。
箱庭の扉を開けると、留守番していたヒノが、嬉しそうに駆け寄ってきた。ぐるぐる、と喉を鳴らして、私たちの無事な帰りを喜んでいる。
「ただいま、ヒノ。……はい、お土産。深層のお肉だよ」
ヒノは大喜びでお肉にかぶりついた。その無邪気な姿を見ていると、さっきの切ない気持ちが、少しずつあたたかいものに溶けていく。
時渡り羊の“懐かしい味”は、まだ手に入っていない。私の記憶の空洞も、まだ埋まっていない。
でも――今、このあたたかい家には、ティルがいて、ヒノがいて、あたたかい湯気が満ちている。
過去の“懐かしい味”を探すのも大事。でも、それ以上に、今、この瞬間のあたたかさを、ちゃんと味わうこと。それがいちばん大事なのかもしれない。
私はそう思いながら、三人(二人と一匹)ぶんのあたたかい夕食の支度を始めた。
深層で採れた極上の食材で作った、あたたかいスープ。ヒノへのお土産のお肉も炙って。ティルの好きな蒸し野菜も。
「いただきます」
二人と一匹の声が、あたたかい箱庭に響く。
あの時渡り羊の“懐かしい味”は、まだ手に入っていない。でも――今、目の前にあるこのあたたかい一杯だって、何十年後かに思い返せば、きっと私の“懐かしい味”になっているはずだ。
ティルとヒノと囲むこの食卓。このあたたかさ。……これが、私がこれから作っていく“懐かしい味”。
いつか、あの羊の出汁で前世の忘れた記憶を思い出すのもいい。でも、それと同じくらい、この今のあたたかさを、大切に積み重ねていきたい、と私はそう思った。
スープをひと口すする。あたたかくて、優しくて。……ちゃんと美味しかった。それだけで、今日という日は十分、いい一日だった。
深層への道は、まだ遠い。時渡り羊が現れた場所も、ほんの中層だ。あの羊がいつもいるとは限らない。行商人も言っていた。あれは“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れる、と。
でも――私は確信していた。
いつか必ず、また会える。そして、その出汁をこの手で料理して、私のいちばん奥の、空っぽの場所に眠る味の正体を、確かめる。
そのための“いつかの隠れ家”。この暗いダンジョンの奥に、あたたかい我が家を作る日が、きっと来る。
……もっとも。その“いつか”が、思ったよりずっと早く、しかも望まない形でやってくることを、このときの私はまだ知らなかった。
でも、今夜は、ヒノの待つあたたかい箱庭へ帰ろう。深層のお土産と、今日の不思議な出会いの余韻を抱えて。
お読みいただきありがとうございます。
「あなたにも、ちゃんと懐かしい味はあるんだよ」。ゼロだと思っていた記憶の空洞に、確かに“あたたかい何か”が眠っている――この謎は、物語のいちばん最後で、そっと回収されます。
次話――探索の途中で、ティルの故郷・竜鱗族のしるしを見つけてしまいます。
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