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痛いのも苦労するのも嫌なので、お家で美味しいご飯を作って静かに暮らしたい(※ただしダンジョン最深部)  作者: 翠碧ノ人


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第16話 “懐かしい味”がするという羊

食べた人の“懐かしい味”がするという、まぼろしの羊。

その噂は、レンの、いちばん柔らかいところ――“空っぽの記憶”を、そっと揺らします。

厳しい冬が、明けた。


 私の、蓄えと、街の、支え合いのおかげで。この街は、なんとか、飢えることなく、春を、迎えることが、できた。冷たい風が、ゆるんで。木々に、新しい芽が、ふくらみ始める。


 春の、あたたかい日差しの下。私は、また、いつものように、露店で、スープを、煮込んでいた。


 その噂を、聞いたのは。ちょうど、そんな、のどかな、昼下がりの、ことだった。


 常連の、年老いた行商人が。あたたかいスープを、すすりながら。しみじみと、話してくれたのだ。


「聖女様の飯は、たいそう美味い。……だが、わしが、生涯で、いちばん忘れられん味は、な。ずっと昔、深い森で、迷ったときに、たまたま口にした、"時渡り羊"の、出汁だよ」


「時渡り、羊?」


「ああ。深いダンジョンの、奥深くにだけ、現れる、まぼろしの羊さ。その肉で、出汁をとるとな……不思議なことに、飲んだ者の、いちばん、懐かしい味が、するんだ」


 私は、おたまを、動かす手を、止めた。


 懐かしい味が、する、出汁。


 料理人として、その言葉には、抗いがたい、魅力があった。だって、出汁というのは、料理の、いちばんの、土台だ。その、土台そのものが、"食べた人の思い出"に、化けるなんて。そんな食材、聞いたことも、ない。


 でも、それ以上に――私の心を、ざわつかせたのは。"懐かしい"という、その言葉、そのものだった。


    ◇


「わしは、あの出汁を飲んだとき。死んだ母親が、子どもの頃に作ってくれた、シチューの味が、した。もう、顔も、思い出せんくらい、昔に、死んだ、母親のな。……涙が、止まらんかったよ」


 行商人は、目を、細めて、遠くを、見た。


「不思議なもんでな。時渡り羊ってのは、獲物を、追わん。逃げも、せん。ただ、じっと、こちらの、目を、見る。まるで、その人の、心の、いちばん奥を、覗き込むみたいに、な。そうして、その人が、いちばん、忘れたくない味を、出汁にして、返してくれる。……だから、時を、渡る羊、と、呼ばれておる」


「心の、いちばん奥の、味……」


「そうさ。だから、あの羊に、会えるかどうかは、腕とは、関係ない。運でも、ない。……なんというか、その人が、"何かを、思い出す準備が、できたとき"に、ふらりと、現れる。そういう、噂だ」


 行商人は、スープを、飲み干して、しみじみと、言った。


「聖女様も、いつか、会えると、いいな。あんたの、いちばん、懐かしい味に」


 懐かしい味が、する羊。


 その言葉が、私の胸の、奥のほうに、こつん、と、当たった。


 私の、いちばん、懐かしい味。それは、いったい、なんだろう。考えようとして――胸の奥が、しん、と、静まり返るのを、感じた。まるで、そこだけ、ぽっかりと、空洞に、なっているみたいに。


    ◇


 その夜。箱庭で。


 ティルと、ヒノが、寝静まったあと。私は、一人、かまどの火を、眺めていた。(ヒノの、あたたかい寝息と、ティルの、小さな寝息が、部屋に、重なって、聞こえる。それが、なんだか、心地よかった。)


 懐かしい味。


 もし、私が、その出汁を、飲んだら――どんな味が、するんだろう。


 前世の、私の、いちばん懐かしい味は、なんだろう。


 ……考えて、少し、寂しくなった。思い出せなかったのだ。前世の、あたたかい味の記憶が、ほとんど、ない。


 母は、私が小さい頃に、いなくなった。父は、仕事で、忙しかった。私は、幼い頃から、一人で、ごはんを、食べていた。コンビニのおにぎり。冷めた弁当。カップの、麺。……そういう、味のしないものばかり。


 誰かが、私のために、あたたかいものを、作ってくれた記憶。「おかえり」と言って、湯気の立つ料理を、出してくれた記憶。そういうものが、私には、ほとんど、なかった。


 だから、たぶん、私は、料理人になったのだ。自分が、もらえなかったものを。誰かに、あげたくて。あたたかい湯気を、誰かの前に、置きたくて。


 でも、今は、違う。


 今の私には、ティルが、いる。ヒノが、いる。私の料理を、「おいしい」と、言って、食べてくれる者が。ジオじいさんも、ネルさんも、ガーゴさんも、いる。もう、一人じゃ、ない。


 ……それでも、なぜだろう。


 "懐かしい味"という言葉は。私の、いちばん、古い傷を、そっと、撫でるみたいに。胸に、残り続けた。もらえなかった、あたたかさ。埋まらなかった、空洞。それを、確かめてみたいという気持ちが、消えなかった。


    ◇


 翌朝。その話を、すると。ネルさんは、露骨に、渋い顔を、した。


「やめときなさい。時渡り羊が、出るのは。相当、深い階層よ。ベテランでも、生きて帰れない、死地。……あなた、繭があるから、死にはしないでしょうけど。ティルちゃんや、ヒノを、そんな場所に、連れて行くの?」


 その一言に、私は、はっと、した。


 そうだ。私は、繭がある。何があっても、傷つかない。でも、ティルは、違う。ヒノだって、まだ、子どもだ。あの子たちを、危険な場所に、連れて行くわけには、いかない。


「……そう、ですよね。すぐには、行きません。もっと、ちゃんと、準備してから」


「準備って、あなたね……」ネルさんは、ため息を、ついた。「まあ、あなたのことだから。止めても、いずれ、行くんでしょうけど。……せめて、無茶は、しないでよ。心配、するんだから」


「……ネルさん。心配して、くれるんですね」


「っ……! 当たり前でしょ! スープ、美味しいんだから。あなたに、いなくなられたら、困るのよ!」


 顔を、真っ赤にして、ネルさんは、そっぽを、向いた。……本当に、素直じゃ、ない。でも、あたたかい人だ。


「……ねえ、ネルさん。ひとつ、聞いていいですか」


 私は、ふと、思いついて、尋ねた。


「ネルさんの、いちばん、懐かしい味って、なんですか」


 ネルさんは、きょとん、として。それから、少し、考えて、ふ、と、目を、細めた。


「……そうねえ。子どもの頃、熱を出したときに、母が、作ってくれた、すりおろしリンゴかな。あの、ちょっと、すっぱくて、甘い……あれを食べると、あ、私、大事にされてるんだって、思えたの」


 その顔が、いつもの、しっかり者の受付嬢じゃ、なくて。ただの、昔の、女の子の顔に、見えた。


「……不思議ね。何十年も、忘れてたのに。あなたに聞かれた途端、味まで、はっきり、思い出したわ」


 懐かしい味は。その人の、いちばん、あたたかい記憶と、結びついている。


 ネルさんには、それが、ある。ジオじいさんにも、あの行商人にも、たぶん、ある。


 私には――やっぱり、思い出せない。


 でも、その"ない"という事実が。なぜか、今日は、そんなに、寂しくは、なかった。だって、私には、これから、それを、作っていく相手が、いるのだから。


    ◇


 その日、露店の片付けをしながら。私は、ティルに、聞いてみた。


「ねえ、ティル。あなたの、いちばん、懐かしい味って、なに?」


 ティルは、うーん、と、考え込んで。それから、ぱっと、顔を上げて、言った。


「レンの、はじめての、スープ」


「……え?」


「ぼくが、はじめて、レンに、もらった、スープ。あれが、ぼくの、いちばん、なつかしくて、だいすきな、あじ」


 不意打ちだった。


 この子にとって、いちばん懐かしい味は。遠い過去の、思い出じゃ、ない。つい、この前、私が、初めて、この子に出した、あの、一杯なのだ。


「レンは? レンの、いちばん、なつかしい味は、なに?」


 ティルが、逆に、聞き返してきた。私は、少し、言葉に、詰まった。


「……わかんない、んだ。私、それが。小さい頃、あんまり、あったかいごはんを、食べた記憶が、なくてね。だから、"懐かしい味"っていうのが、私には、ないみたい」


 ティルは、しばらく、きょとん、と、していた。それから、真剣な顔で、私の手を、ぎゅっと、握った。


「じゃあ、これから、つくろう。ぼくと、レンの、"なつかしい味"。まいにち、いっしょに、たべて。……いつか、それが、レンの、いちばんの、なつかしい味に、なるように」


 不意打ちだった。二度目の。


 この子は、時々、こうやって、私の、いちばん、柔らかいところに、まっすぐ、優しさを、差し込んでくる。里で、あんなに、傷つけられたのに。どうして、こんなに、優しく、なれるんだろう。


    ◇


 その夜、私は、ティルとヒノのために。いつもより、少しだけ、手の込んだ、シチューを、作った。


 行商人が言っていた、"母親のシチュー"の話が。心に、残っていたのかもしれない。私には、そういう記憶が、ないから。せめて、自分で、作ってみたかった。あたたかくて、優しくて、いつまでも、忘れられないような、そんな、一皿を。


「わあ……いいにおい」


 ティルが、目を、輝かせた。


「これはね、"はじまりの味"。私と、ティルと、ヒノの。これから、たくさん増えていく、思い出の、いちばん最初の、一皿」


 ティルは、ひと口、食べて。ふにゃり、と、幸せそうに、笑った。ヒノも、器に、顔を、突っ込んで。美味しそうに、目を、細めた。


「……あったかい。ぼく、これ、ずっと、おぼえてる」


「うん。……いつか、あなたが、大きくなって。何かに、つまずいて、心が、冷えたとき。今日の、この味を、思い出して。また、歩き出せるように。……そういう味に、なるといいな」


 私は、そう言って、ティルの、頭を、撫でた。


 いつか、この子が、大人になっても。今日の、この、あたたかい味を、覚えていてくれたら。そのとき、私が、もう、隣に、いなくても。この味が、代わりに。この子を、あたためてくれる。


 ……料理人が、残せるものは。たぶん、そういうものだ。あたたかい味の、記憶。それは、時を、越えて。人を、支え続ける。ちょうど、あの、時渡り羊の、出汁みたいに。


 それでいい、と、思った。


 懐かしい味は、遠い過去に、探すものだけじゃ、ない。これから、二人と、一匹で、作っていくものでも、いい。


 ……それでも。いつか、あの羊の出汁を、飲んでみたい。私の、空っぽの記憶の、いちばん奥に、何が、あるのか。確かめてみたい。


 そのためには。もっと、力をつけて。ちゃんと、備えて。いつか、あの、深い、深い、ダンジョンの、奥へ。


 その思いを、そっと、胸に、しまって。私は、今日も、あたたかい、一杯を、煮込むのだった。

お読みいただきありがとうございます。

“懐かしい味の羊”――この出汁が、遠い未来、物語のいちばん大切な場面で、もう一度レンの前に現れます。どうか、覚えておいてください。

次話――レンのごはんが“なぜ人を強くするのか”。その秘密の、ほんの一端が明かされます。


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