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その週の金曜日の夜、喫茶店に予想外の二人がやってきた。
相田とモトカだ。
どういうわけか、二人の間に以前のような気まずさは見られない。彼女たちの間でいかなる仲直りがなされたのかといえば、それは相田にもわからぬほどの急な変化であった。
ただ確かなこととして、モトカに前原とは別に好きな男性ができたらしいことだけは感じられていた。
「いらっしゃいませ」
二人を出迎えたのは店長の崎本である。というよりも、彼以外には店内に人の姿は無かった。
「そこに座りましょう」
モトカは相田を窓際のテーブルに誘った。相田は素直に従う。
「すいません、何か飲み物を」
「紅茶でよろしいですか?」
「そうねえ、紅茶の他にお勧めはないかしら?」
「ありますよ。当店自慢のコーヒーはいかがでしょう?」
「コーヒーね……。それってブラック?」
「はい。一応、ブラックではないコーヒーもありますが」
「うーん、でも私はブラックでいいわ。相田さんは?」
「あ、じゃあ私も同じものを」
「はい、かしこまりました」
崎本はカウンターに戻り、コーヒーを淹れ始めた。
そんな様子を座って見ていた二人だったが、そう時間がかからずに自然と会話を始めた。
「あなたと二人でこの店に来るの久しぶりね。あれからどう? 前原とは」
「ええと……」
何かを答えようとして、口ごもる相田。
思い出すことは数日前、彼に言った言葉だ。
「彼にプロポーズされましたけど、考えさせてくださいと……」
「そう言ったの?」
「はい」
ついにプロポーズしたのかという驚きと、すぐには返事をしなかったのかという驚きが同時に襲ってきて戸惑ったモトカは、それを悪いことのように捉えて悩み続けている相田に優しく語り掛けた。
「彼のこと、好きなんでしょ?」
「……はい」
「でも、他にも好きな人ができてしまった」
「……はい」
「まだ悩んでいたんだ」
「すみません……」
心から申し訳なさそうな顔をする相田に、モトカは厳しく言った。
「あなたたちの関係をいたずらに乱そうとした私が偉そうに言えることじゃないかもしれないけど、謝る相手は私じゃないでしょ?」
「はい、そうですね」
相田は自分を恥じた。
相手にばかり解決の糸口を求め続けていた自分が卑怯であり、それ以上に無責任であることに気づかされたのだ。
「でも悩むのは当然だと私は思うわ。だって、毎日の食事でさえ何にしようか悩むんだもの。結婚とかだったら、もっと悩んで当然よ。……でもね?」
「はい」
「結婚くらい重大なことならね、もっと真剣に話し合うべきだと思うわよ。一人で決められるのは決意と覚悟だけ。だからこそ二人で確認が必要なの。それを彼、前原は求めてきたの。生半可な気持ちでプロポーズしたんじゃないわよ」
「はい、今ならそう思います。でも、ふと思ったんです」
「……何を?」
「こんなに真剣に愛してくれた彼に、私が応えられるかどうか。自信が足りなかったんです」
プロポーズをするのに責任が必要なら、プロポーズを受け入れることにも責任が必要だ。
今の彼女たちの関係について具体的に考えるなら、離れ離れになった後も交際を続けていけるかどうか。無責任に関係を続けることは、きっとお互いにとっていいことではないのだろうし、それは妥協であり怠慢でもあった。
真剣でない交際は、多くの場合に傷を伴う。
相手のことを好きだからこそ、適当に答えることなどできないのだ。
「そうね、何をするにも自信は大切だわ」
「自信が持てないとき、どうしたらいいのでしょう?」
「大切なのは事実にしても、自信なんてね、かえって持たないほうがいいかもしれないわよ」
「……え?」
「だって、最初から自信満々だったら必要な努力を怠るかもしれないでしょ? 大事なのは自信じゃなくて努力。そして何より、今の感情よ。そう、とにかく感情を大事にしなさい」
「感情、ですか……」
「そうよ。でもね、感情って簡単には正体がわからないの。だから自分の感情には真剣に向き合わなければならないのよ」
「真剣に向き合う? 感情って直感的なものだと思いますけど……」
「大抵はそうね。けれどたまに勘違いするの。私も自分の感情の間違いに気が付いたの」
「え、そうなのですか?」
相田は興味深そうにモトカの顔を見つめた。モトカは頷いた。
「私、前原のことが好きなんじゃなくて、ただ一人でいるのが寂しいだけだったの」
「……そうだったんですか」
「ええ」
モトカは優しい笑顔で頷いた。
「お話中のところすみませんが、どうぞコーヒーを」
崎本は淹れたてのコーヒーを二人の前に差し出した。
コーヒーの香りが二人を優しく包み込んでいく。
「遠慮してないで飲んだら?」
「じゃあ、お先にいただきます」
相田はゆっくりとコーヒーカップを口へ運び、一口飲んだ。
コーヒーの味と香りが口の中に広がり、思わず相田をうならせる。
「おいしい」
「熱くないの? なら私もいただこうかしら」
モトカも同じようにコーヒーに口を付ける。
味と香りはモトカにも感じられたが、それ以外の感覚がモトカを最初に支配した。
「思ったよりも熱いわね。これ、まだ熱いじゃないの。香りはいいんだけど、熱くて味がよくわからないわね」
「そうですか? 息で冷ましたらどうです?」
「さっきもしたんだけど、今度は念入りにそうするわ」
ふーふーと躍起になって息を吹きかけると、モトカは再びコーヒーを口に入れた。
「うん、おいしい。やっぱりコーヒーは少し冷めたころが最高ね。自慢じゃないけど、熱いものは苦手なのよ」
「でも、それだけ繊細ってことなんじゃないですか?」
「どうかしら? 単なる猫舌なのよね、私。たぶん食べるとき舌の使い方が下手なのよ」
「私なんて熱さとか冷たさとか、よくわからなくて。苦味や辛味もそうだし、いろんなことに鈍感なんでしょうか?」
「鈍感だとしても、うらやましいわ。食べ物は熱いうちが一番うまいって言う人もいるじゃない」
「そうみたいですね。結局のところ好みの問題だとは思いますけど」
モトカと相田はとりとめもない無駄話を続けた。
そこには何の打算も裏もなく、純粋に二人での会話を楽しんでいるようだった。
数日前までは少なくない警戒心や敵対心を抱いていただけに、この変化は二人にとって不思議なものでもあった。
「ところで、どうして突然私を誘ったんですか?」
「あ、やっぱり気になる?」
「はい。理由があるのなら教えてほしいくらいには」
「いいわよ。教えてあげる。実は私ね、ある人から注意されちゃったの。人の恋路を邪魔するやつはとんでもないことになるぞって」
「そんなこと言われたんですか?」
「そう。言われた。でもね、そのおかげでゆっくり考え直すことができた」
「そうだったんですか」
「だからこそ、あなたにもちゃんとアドバイスしたいと思った。そして話を聞いてみて、あなたが自分の中でいろいろ考えていることもわかった。けれど、最後に一つ、あなたにいいことを教えてあげる」
「いいこと、ですか?」
「そ、いいこと」
そう言って、モトカは相田に今までで一番の笑顔を見せた。
とある土曜日の、風のない静かな夜。
星空を見上げる小さな丘に、一人の青年がたたずんでいた。
両手を夜空に向かって掲げた彼は、ぐるぐると回した。
周囲には人影がなく、その行為はどこか神聖さを帯びていた。
光り輝く無数の星が青年を照らし出す。
「ふう……」
黙ったまま彼は深呼吸をする。自然と一体になる。
そんな行動を数回繰り返していると、勢いよく風が吹き始めた。
彼は吹きすさぶ風を一身に受け、やはり黙って星空を見上げた。
星は変わらず、なおも美しく輝いていた。




